自選<ベスト・レビュー>&<ベスト・コラム>(2022年)
自選〈ベスト・レビュー〉 →〈ベスト・コラム〉
本誌 2020/12/15 号〜2021/11/15 号掲載のレビューよりレギュラー執筆陣中6名が自選1作を挙げたものである。
◆秋元陽平(Yohei Akimoto)
東京フィルハーモニー交響楽団 第965回オーチャード定期演奏会
2022/3/15号 vol.78
演奏会のなかにひとつのテマティック(主題系)を見出し、演奏会そのものが持っている時局性のなかでこの主題を捉え返す、そのようなことを狙って書いた。しかしもちろんそれも、このように良い企画、良い演奏者が揃ってはじめて可能になることなのだが。
◆大河内文恵(Fumie Okouchi)
アンサンブル室町によるLeçons de Ténèbres 暗闇の聖務 2021
2022/1/15号 vol.76
人それぞれ流儀があるだろうが、レビューを書く際に私が心がけているのは、できるだけその場での感覚を言語化するようにということである。もちろん、他の枠組みや事例を引いたほうがわかりやすい場合に喩えとして使うことはあるのだが、現場感こそがレビューの醍醐味だと思うからだ。すでに1年前の演奏会ではあるのだが、読み返すと聞いた当時の音響や映像が蘇ってくるという意味でこのレビューを挙げた。
◆丘山万里子(Mariko Okayama)
THE SHAKUHACHI 5~The 2nd Concert
2022/4/15号 vol.79
尺八音声(おんじょう)の激越深甚に震撼、西洋の音・響きに慣れきった心身が思いっきり覚醒した気分になった興奮がそのまま、の一文。5人アンサンブルの武満ソングには船酔いしたし、西欧の没落だの東洋回帰だのに踊った現代邦楽一時期の再考を含め、ここから未来へ、も望見し得た貴重な体験記。
◆齋藤俊夫(Toshio Saito)
第50回サントリー音楽賞受賞記念コンサート 高関健(指揮)
2022/9/15号 Vol.84
今回のベストレビューを選定するにあたって色々と考えた。
自分らしさ、個性とは?何をもってそれとなす?……判然としない。
批評においてどうしてこう書いたか?どうしてこう書かねばならなかったのか?……自分でもよくわからない。
この批評が劇場に鳴り響いた音楽を再現することはあるのか?……批評は決して生の体験に追いつくことはない。
では何故この評が良いと?……自分らしい文章で、内的必然が感じられ、演奏会のあの体験が伝わってくるから……。
げに詮無き所業である、批評とは。
◆藤堂清(Kiyoshi Tohdoh)
藤木大地リサイタル ~カウンターテナーとの出逢い~
2022/9/15号 vol.84
カウンターテナーの藤木大地が、その演奏活動の集大成とも言える構成でいどんだリサイタル、その位置づけを明確にできたと考える。批評を書く時、その演奏をどう言語化するかということが中心となり、よかった点、あるいは課題のあった点について細かく記述しがちであり、コンサートやリサイタルの演奏家における意味や音楽活動の中で占める役割といったマクロな視点からみることは充分とは言えない。今年の評の中ではそういった配慮ができた方だと思っている。
◆西村紗知(Sachi Nishimura)
ラジオ・オペラートの夕べ
2022/12/15号 vol. 87
今年のレビューは全体的に低調だった。コンサートレビューを書き始めてそろそろ4年になる。書き方を変えるべき時が来ているのかもしれない。読み返して一番面白かったのが「ラジオ・オペラートの夕べ」評だったのでこれを選んだ。そもそもこの評がレビューの体をなしているかどうかで言えばなしていないのだが、それでも事柄に即した方法だったと思っている。
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自選<ベスト・コラム>
本誌 2021/12/15 号〜2022/11/15 号掲載のコラムよりレギュラー執筆陣3名が自選1作を挙げたものである。
◆丘山万里子(Mariko Okayama)
カデンツァ|ウクライナとラフマニノフの歌〜藤原秀章チェロ・リサイタルで
A young cellist who shed tears while playing Rachmaninoff’s Sonata
2022/3/15号 vol.78
忘れられないコンサートだ。ウクライナへのロシア侵攻のTV映像を見た朝。若いチェリストの涙と言葉。音楽は全てを超える、といった類のもの言いが私は嫌いだ。ただ、有無を言わせずしみとおってくるものがある、それをやっぱりどこかで信じる自分に出会わせる音楽がある、人がいる。結局、自分にとっての批評というのはそれに尽きよう、と改めて思う。友人の助力を得て、英語版と中国語版を併置した。
◆田中里奈(Rina Tanaka)
評論|無害化された問題にあっかんべーする岡田利規
2021/12/15号 vol.75
ここ1年間に書いたものは、「何かを観るためにチケットを予約し、劇場に足を運ぶことで、誰かを積極的に支援すると同時に別の誰かを蔑ろにする構造の再生産に否応なく手を貸してしまう」(2022年8月号, Pick Up記事)という、観る側と芸術鑑賞の構造との間の関係を注視していた。自薦した評論では、多重に入り組んだ構造の現状に、岡田利規の2021年における作品群がどのように現れ、そこに観客の期待や受容がどう関わっているのかを論じた。興行面に言及すると「それを言っちゃあおしめぇよ」と言われることがあるが、それがもはや暗黙の了解ではない時代にいると思う。
◆松浦茂長(Shigenaga Matsuura)
パリ・東京雑感|ウクライナ戦争から憲法第九条を考える
2022/10/15号 vol.85
ゴルバチョフ時代にモスクワ特派員だったかつての仲間が「生きている間にこんな凄いことを見るとは夢にも思わなかったよ」とつぶやいていたが、プーチンの戦争は僕らの考えの枠組みを滅茶滅茶にする出来事だった。プーチンの悪の深さを見抜けなかったのは、メルケルのような大政治家も犯した過ちだから、許してもらえるかもしれない。取り返しのつかない過ちは、「平和」についての考えがあまりに浅く、単純だったことだ。「命が大切」ととなえるだけの平和主義は、ウクライナ市民が武器を取って国を守ろうとするのを見て、どうすれば「正義」と「平和」の折り合いが付くのか分からず、破綻した。
日本国民が、プーチンの戦争以来、あれよあれよという間に先制攻撃も辞さない軍国化へと流されてしまったのは、ひとえに僕らの世代が強靱な平和論を構築できなかった怠慢の結果なのです。終戦の年に生まれた平和主義者として、懺悔の文章を書いたつもりです。
(2023/1/15)