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評論|無害化された問題にあっかんべーする岡田利規|田中里奈

無害化された問題にあっかんべーする岡田利規

Text by 田中 里奈 (Rina Tanaka)

今年の日本演劇における話題作を2つ挙げるとすれば、2021年6月にKAAT神奈川芸術劇場で上演された、岡田利規の作・演出による『未練の幽霊と怪物 ―「挫波」「敦賀」―』(第72回読売演劇賞戯曲・シナリオ賞受賞)と1、同年10月に東京芸術劇場で初演された、同じく岡田によるオペラ初演出作の『夕鶴』2だった、と筆者は思う。

筆者の感想を先に記しておきたい。『未練の幽霊と怪物』に関して言えば、昨年の配信版『「未練の幽霊と怪物」の上演の幽霊』の時点で、コンセプトも含めて非常に示唆に富んでいた。内橋和久による音楽は配信版でも舞台版でも素晴らしかった。あらかじめ読んでおいた書籍版もとても面白かった。ただし、「能の構造にインスパイアされた」部分を評価すべきかは正直微妙だと思った。素人が口出しをするのは憚られるが、あえて言えば、一般的に理解されがちな夢幻能の構造——人ならざる存在が化身として現れ、その土地の謂れや身の上を旅人に語ったのち、在りし日の姿を示す——はあくまでも能の一側面でしかない。それなのに、そこを取り出して「能らしい」と言うのは妙ではないか。ただし、後述するが、海外への輸出を考慮に入れた際には効果的かもしれない。

『夕鶴』の方はひとしきり爆笑した。が、木下順二の資本主義批判を超えて「ポスト資本主義にいる存在」3としてつう像を描き出すという演出には、正直ピンと来なかった。今日日、高跳びして逃げ出しても、本質的な問題から逃れたことにはならない。せいぜい資本主義の枠組みから逃れた気になって浮かれるくらいである。この「枠組みから逃れた気になる」ことは極めて重要なので、あとで改めて考えてみたい。

さらに、いずれの作品もドイツに紹介しやすそうだと思った。メインキャストは少人数編成。舞台装置もミニマリスティックで、分解して組み立てることが可能に見える。形式的には、能らしき構造が用いられている。『未練の幽霊と怪物』ではその意匠がはっきりしているが、『夕鶴』でも、能舞台で言うところの地謡座のポジションに地元の子ども合唱団が据えられている。さらに、日本の現代社会を批判する意匠もたっぷり含まれている。『未練の幽霊と怪物』ではザハ・ハディドと高速増殖原型炉もんじゅ、『夕鶴』では資本主義とジェンダーと、非常にアクチュアルだが触れづらい題材を扱っているのだ。

…とまあ、二作に関するメモをつらつら並べてみたが、これらについて論じ始める前に、岡田利規の位置づけについて、まず確認してみたい。日本の現代演劇を観ている(なかでも、特に日本と海外の交流に注目している)人であれば、今日、岡田利規が日本を代表する演劇人だという認識に異を唱える人は多分いないのではないだろうか。さまざまな分野にひっぱりだこの彼だが、だからこそ、彼の活動の全容は見えにくい。まどろっこしいかもしれないが、ここ一年の彼の旺盛な活動を見てみよう。

躍進する岡田利規2021
2021年の岡田利規の活動は、美術・ダンス・演劇、ならびに教授・ワークショップ業と多岐にわたった。なお、便宜上ジャンルごとに分けてはみたものの、彼の関わる作品はジャンルを横断していく点が重要であることを忘れてはならない。

岡田の主宰する演劇カンパニー・チェルフィッチュと美術家・金氏徹平による2019年以来の「消しゴム」シリーズについての日英書籍『消しゴム石』が2021年1月に出版され、2月にシリーズ最新作となる『消しゴム山』(東京・あうるすぽっと)4と『消しゴム畑』(YouTube配信)5も発表された。〈映像演劇〉関連で言うと、チェルフィッチュの〈映像演劇〉『風景、世界、アクシデント、すべてこの部屋の外側の出来事』が、5月に穂の国とよはし芸術劇場 PLATで開催もされた6

ダンスの方面では、3月に振付家・湯浅永麻と協働した「明日を探る身体」(彩の国さいたま芸術劇場、岡田はテキスト・演出担当)を7、8月にはバレエダンサー・酒井はなと協働した『瀕死の白鳥 その死の真相』(TRIAD DANCE PROJECT「ダンスの系譜学」内プログラム、演出・振付担当)をそれぞれ発表した8。8-9月には、Dance Box 国内ダンス留学@神戸に特別ワークショップ講師としても参加した9

岡田の活動は国外でも大きな注目を浴びており——今年9月に英研究書『Okada Toshiki & Japanese Theatre』が出版されたことは記憶に新しい——、とりわけドイツで大きな支持を得ている。2016/17年シーズンより、岡田は市立劇場ミュンヒナー・カンマーシュピーレのレパートリー作品の演出を毎年担当してきたほか、昨年12月にはドイツ・ケルン日本文化会館でワークショップを行ったり(2021年1月よりオンラインで配信)10、ベルリン自由大学でゲスト講師として授業「How Imagination Works」を開講したりしている(2021年2月よりオンラインで配信)11。さらに、先述した『消しゴム山』は2021年11月にオーストリアとフランスも巡演した12。これからの予定として、2022年1月にハンブルク・タリア劇場で新作『Doughnuts』を制作することが決まっており、2023年のオーストリア・ヴィーン芸術週間では、藤倉大とKlangforum Wienとの協働による新作が待たれている13

岡田利規と能楽とドイツ
さて、音楽やダンスの方面での活躍が近年目立つ岡田だが、能楽やオペラとのつながりは今年始まったのではない。むしろ、今年の『未練の幽霊と怪物』と『夕鶴』は彼のこれまでの一連の活動を受けて、起こるべくして起こったように思われる。

時系列順で追っていこう14。まず思い出されるのが、音楽劇『地面と床』(2013)だ。以後の作品の中で、橋懸かりと本舞台を模した『地面と床』の構造は、方法論としての能を感じさせるものだった。同年末、岡田は池澤夏樹編「日本文学全集」第10巻における能狂言の現代語訳を引き受けてもいて、岡田と能との間の関係はいっそう深まった15。ちなみに、2011年の東日本大震災と福島第一原子力発電所事故を機に、岡田の作風は大きく転換し、幽霊という存在を繰り返し登場させるようになったことは、本人もインタビュー等でたびたび言及している。

別の意味でフォルマリスティックだったのが、演劇作品『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』(2014、ドイツ世界演劇祭委嘱作)だ16。バッハの『平均律クラヴィーア曲集』全48楽章とドラマの構造がシンクロした点が特徴だった。『スーパープレミアム…』は、同祭の当時の芸術監督マティアス・リリエンタールがミュンヒナー・カンマーシュピーレの芸術監督に就任したことを受けて、同劇場のレパートリーの一部を担当するオファーが岡田にきた、分岐点的な作品である。これ以前にも、岡田の名はドイツ演劇界にたびたび登場してはいたのだが、ドイツ演劇界のレギュラーメンバーになったことは、彼の制作環境における大きな変化に数えられる。

そのミュンヒナー・カンマーシュピーレでの岡田による第二作目となった『NŌ THEATER』(2017、書籍『未練の幽霊と怪物』に収録)は、能の構造を前面に出した劇作だった17。タイトルに「能」とあるが、岡田自身は世阿弥『三道』に書かれた夢幻能の作劇法に倣って自分なりの現代演劇をつくったと述べており18、「これは能の作品だ!」と彼が自ら喧伝して回っているわけではない。

ただし、『NŌ THEATER』は日本の伝統芸能としての「能楽」の現代版として受け入れられたきらいがある。「全体を現代化しているにもかかわらず、神秘的で象徴的な雰囲気が中心に据えられ、何よりも、伝統的な能楽の特徴に数えられる、繊細な美しさと洗練された優美さの特別な形式としての、〈幽玄 yugen〉の残り香がある」19というフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙の評が端的に表している。結構危うい表現だと思う。

2021年8月号に書いたことを一部繰り返すことになるが20、現代の日本社会を描き出した『NŌ THEATER』が好評だった背景には、社会や歴史にかかわる諸問題を含む集団的なトラウマとの向き合い方を、演劇という手法、または劇場という場(ドイツ語ではいずれも「Theater」という語で表現されるので、これらは区別されない)で試行錯誤し続けてきた、ドイツ演劇特有の問題意識がある。その一方で、同作に限らず、「複式夢幻能の折衷主義的なつまみ食い」や「オリエンタリスティックな儀礼への回帰衝動」と言い表したくなるほど、近年のドイツ演劇界では能楽から影響を受けた作品が複数見受けられてもいるのだが。

『夕鶴』のキッチュ
では、新演出版『夕鶴』の場合はどうだろうか。資本主義社会への批判がはっきり描かれた木下順二の近代劇と、セルフオリエンタリスティックな團伊玖磨による近代音楽でできた作品世界を、岡田はあえてキッチュに演出したようにみえる。近代日本における演劇と音楽の代表格ともいえる二者の作品をこんな風に演ってもいいのだ、というメッセージとして受け取れる気がするのは、「『夕鶴』はダイレクトに成立するものだと思っていない」「『夕鶴』は壊されたことがないイメージだから、[…]最初に壊せる」21という岡田の発言と重なり合う。

にしても、岡田の発言から筆者が連想したのは、くどいようだが、ドイツ演劇界のトレンドだ。新演出によって、現代の観点から古典を柔軟に読み直していく、1970年代のいわゆる演出演劇(レジーテアーター)の試みは、演出家の演劇からオペラへの越境を促進したし、ハンス・ティース=レーマンの「ポストドラマ的演劇」の概念を借りて、オペラの既存の枠組みを超えた新たな展開——これを「ポストドラマ的音楽劇」とみなそうとする動きもある22——も生まれつつある。ドイツの公立劇場や研究機関等との関わりの中で、岡田はこのトレンドに実際に何度も触れてきただろうし、それをひとつの戦略として採用する術を知ってもいるだろう。

ただし、コロナ以前の国際的な潮流の中には、私たちが思いがちな「欧米のトレンドを遅れて追随しようとする日本」像ではない基軸もあって、岡田利規とチェルフィッチュはまさしくその一部を担っていたことも忘れてはならない。内野儀は、岡田利規とチェルフィッチュが初めて欧米で評価されたときのことを、伝統芸能やポップ・カルチャーといった、「欧米の日本文化受容を可能にする中心的なモード」に当てはまらない岡田作品に対し、2000年代後半から高い注目が集まったことを「予想外の事態」と評し、次のように説明している23。すなわち、岡田の作品は、「「日本」という「ナショナルなもの」の圏域にある具体的日常に取材しつつも語りの戦略を可視的に駆使する戯曲テキストと、厳密に理論的・方法的な自覚性をともなって立ちあげられた身ぶりのパフォーマンス[…]の両方におけるパフォーマティヴな記述」24であるがゆえに評価されたのではないか、と。この前提から出発すれば、欧米のトレンドの外に岡田はいたはずである。

にもかかわらず、『未練の幽霊と怪物』と『夕鶴』で、岡田はまさしくこの、「欧米の日本文化受容を可能にする中心的なモード」をなぞっている。両作品は、形式化への試みを続けてきた岡田の、数年間にわたる取り組みの集大成のように見える。さらに、「能」や「ポップ」といった海外受けするキーワードを踏まえれば、プロジェクトの聞こえが良くなり、予算もつきやすくなるという、身も蓋もないイメージ操作と生き残り戦略のことを考えざるを得ない。複数の大劇場や国際芸術祭による共催なしにアーティストの海外公演は実現しづらく、さらにその芸術祭の多くが欧州国内で、時に国や地方自治体の予算付きで主催されている。国際演劇界の不均衡な構造に鑑みれば、ドイツに受けそうな作品を制作することは、業界で生き残るための戦略的措置である。だから、素直に考えるならば、岡田がこの措置を取ることは至極真っ当であるように思われる。

無害化された問題にあっかんべーする岡田利規
だが、舞台上で起こるさまざまな出来事の相乗効果を緻密に計算し、それを理路整然と言語化してきた岡田のことだから、自らの演出によってセルフ・オリエンタリズムが生じていることなど、すっかり承知の上ではないか。むしろここで重要になるのは、日本で世界初演される作品の中でこのような意匠を用いたことの、皮肉めいた効果の方だ。

「ヨーロッパで高い評価を受ける演出家、岡田利規」(東京芸術劇場)や「従来の演劇の概念を覆すと評され、手がけた作品は世界90都市以上で上演をかさねるなど、国内外での活躍が目覚しい、作家・演出家・チェルフィッチュ主宰の岡田利規」(KAAT神奈川芸術劇場)という宣伝文句に引かれて出かけた観客の中には、筆者のように、岡田の作品にドイツ演劇界のトレンドを見出そうとする人も少なからずいただろう。異なる関心から劇場に足を運んだ人がいたことを否定するつもりはもちろんないのだが、自分が内面化している、この〈偏った〉視点について、少し考えてみたいのだ。

最先端の欧州モードと遅れた日本という構図——くわえて、同種の構図の中にある、古典芸能にエキゾチシズムを見出そうとするまなざし——の再生産を有難がったり批判したりしている観客は、いずれも枠組みの中にいる。この関連で確認したいのが、演出家でアーティストの高山明による次の指摘である。

現代演劇は、[…]誰もが知っている社会問題が取り上げられ、「問題」として舞台に固定され、わざわざ劇場に来てものを考えようとする良識ある観客に提示される。[…]既知の社会問題をみんなで確認する作業は人を気持ちよく深刻にさせるし、野次馬的な快楽さえ与えてくれる。われわれは社会問題に対して無関心ではないのだ、という連帯感も得られる。そして観客は、作家や作品の政治的妥当性をチェックし、その正しさに自分を同化して安堵する。[…]こうして、社会問題も観客も劇場で去勢されていくのだ25

高山は著作『テアトロン』において、ドイツ演劇のトレンドを追っていく中で、上記の違和感をより鮮明化させていく。一見すると、ドイツ演劇における「社会批判性」は、アーティストが芸術作品の中で社会問題を扱うことがご法度になりがちな日本と真逆に見えるかもしれない。だが実際のところ、問題が無かったように見せかけるのも、問題を「正しく」見せることで無害化するのも、どっちもどっちなのだ。

結局、岡田は周囲の期待から逃れられず、その中に身を置かざるを得ないというのが、興行上の身も蓋もない前提であるように思われる。作り手と作中に描かれる出来事を安易につなげるべきではないが、岡田版『夕鶴』でつうが取った単純明快すぎる解決策に筆者が感じた違和感の正体は、ひょっとしてこれだったのではないか。作り手も観客も好んで「去勢」されていく現代演劇の枠組みを内側から笑い、私たちにあっかんべーをしてみせる岡田利規の姿が見えるように思った。その「居心地の悪さ」26こそが、彼がかろうじて残すことのできた自己批判性ではないか。その、一見すれば毒にもならなさそうな猛毒の一矢は、無害化される装置の中で機能する術を失い、作品の奥で今もまだくすぶっているのだろう。

(2021/12/15)

関連記事:Pick Up(2021/12/15)|チェルフィッチュx藤倉大 with Klangforum Wien ワークインプログレス公演|齋藤俊夫

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1 KAAT神奈川芸術劇場プロデュース『未練の幽霊と怪物―「挫波」「敦賀」―』、2021年6月5日~26日、KAAT神奈川芸術劇場。

2 全国共同制作オペラ 團伊玖磨/歌劇『夕鶴』新演出、全1幕、2021年10月30日、東京芸術劇場。

3 ステージナタリー「つうを“資本主義を乗り越えた存在”として描く、岡田利規が挑むオペラ「夕鶴」」2021年9月28日。

4 チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム山』東京公演、2021年2月11日〜14日、あうるすぽっと。

5 chelfitsch「チェルフィッチュといっしょに半透明になってみよう」、2021年2月5日、YouTube配信。

6 チェルフィッチュの〈映像演劇〉『風景、世界、アクシデント、すべてこの部屋の外側の出来事』豊橋公演、2021年5月14日~21日、穂の国とよはし芸術劇場 PLAT。

7 岡田利規×湯浅永麻『わたしは幾つものナラティヴのバトルフィールド』ワーク・イン・プログレス、2021年3月20日~21日、彩の国さいたま芸術劇場。

8 TRIAD DANCE PROJECT「ダンスの系譜学」横浜トライアウト公演 岡田利規『瀕死の白鳥 その死の真相』、2021年8月21日~22日、Dance Base Yokohama(DaBY)。

9 岡田利規「国内ダンス留学 神戸」7 特別ワークショップ、2021年。

10 Japan Foundation, Japanisches Kulturinstitut, “160 Jahre Deutsch-Japanische Freundschaft“, Workshop „Imagination choreographiert“ mit OKADA Toshiki.

11 Akademie der Künste, „Portrait of a House. Valeska-Gert-Gastprofessur Toshiki Okada“, 2021.

12 チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム山』2021秋 欧州ツアー、2021年11月19日~21日(於Halle G im MuseumsQuartier)、11月27日~12月1日(於T2G – Théâtre de Gennevilliers)。

13 チェルフィッチュ×藤倉大 with Klangforum Wien「新作音楽劇 ワークインプログレス公演」2021年11月5日。

14 なお、本稿で触れていないが、岡田は2012年に初音ミク主演のオペラ『The End』(音楽:渋谷慶一郎)の台本を担当してもいた。

15 岡田利規「幽霊の生は大事な問題だ No ghost, no theatre.」セゾン文化財団ニュースレター『viewpoint』第77号、2016年12月。

16 Esther Boldt, „Super Premium Soft Double Vanilla Rich – Toshiki Okada parodiert bei Theater der Welt die Segnungen des Konsums. Tanz der Vergeblichkeit‟, Nachtkritik, 24. 5. 2014.

17 Petra Hallmayer, „Nō Theater – Toshiki Okada untersucht an den Münchner Kammerspielen Finanzkrise und Feminismusdebatte mit den Mitteln des traditionellen japanischen Theaters. Entschleunigung im U-Bahn-Netz‟, Nachtkritik, 18. 2. 2017.

18 ONTOMO「独特の言葉と所作が新感覚! 演劇作家、岡田利規のクラシックの取りこみ方」2018年7月1日。なお、書籍版のあとがきにも同様の記述がある。

19 Simon Strauss, „Traumspiel aus einem Land ohne Hoffnung‟, Frankfurter Allgemeinen Zeitung, 21.2.2017.

20 田中里奈「コンテンポラリーオペラ 「Plat Home」」2021年8月15日。

21 タイムアウト東京「STAGE CROSS TALK 第3回(後編):岡田利規(劇作家、演出家)×菅尾友(演出家)」2021年10月14日。

22 例えば、Regine Elzenheimer, Pause. Schweigen. Stille. Dramaturgien der Abwesenheit im postdramatischen Musik-Theater. Würzburg: Königshausen & Neumann, 2008; Ulrike Hartung, Postdramatisces Musiktheater, Würzburg: Königshausen & Neumann, 2020.

23 内野儀『「J演劇」の場所. トランスナショナルな移動性へ』東京大学出版会、2016年、p. 262.

24 同書, p. 263.

25 高山明『テアトロン』河出書房新社、2021年、p. 64-6.

26 制作記者会見における岡田利規の発言(ONTOMO「観客が「居心地の悪い」物語を~現代演劇の旗手・岡田利規が歌劇《夕鶴》を演出!」2021年10月15日。