注目の一枚|マックス・デヴロー『レジスタンス』|齋藤俊夫
マックス・デヴロー『レジスタンス』
Max Devereaux “Resistance”
ALM Records/有限会社コジマ録音
2026年7月7日発売
Text by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
マックス・デヴロー:『レジスタンス』
作曲およびエレクトリック・ギター独奏によるリアライゼーション(2026)
(エレクトリック・ギター独奏による自作自演)
Resistance I: Tension
Resistance II: Duration
Resistance III: Friction
Resistance IV: Feedback
Resistance V: Constraint
現代においてレジスタンス=抵抗はいかにして可能なのか、とくに芸術によるレジスタンス=抵抗はいかにあるべきでいかにして可能なのか。
例えばそれは1969年、アメリカのウッドストックでのジミ・ヘンドリックスがアメリカ国歌『星条旗』をエレキギターの轟音で変奏した事例が芸術による抵抗の見事な一例だとも思える。
あるいはベルリンの壁崩壊直後の1989年ベルリンでの、バーンスタイン指揮によるベートーヴェンの第9番交響曲が「自由の歌」として数万人の観衆と共に歌われた時、芸術による抵抗が花開いたとも思える。
しかし、果たしてその「抵抗」は「本当の抵抗」となるのだろうか? 何にせよ「本当の~~」をつければその題材は「本当の~~」ではないかもしれない、と簡単に疑問に付して知的優位(?)に立てるという批評・言論術は知りながらも、筆者はここで「本当の抵抗」という言葉を、「現在の日本含む世界における全的な抵抗」たり得るのか、というごくナイーヴな意味であえて使いたい。
(筆者は治安維持法への何個目かの一里塚と見ている)日本の「国旗損壊罪法」に対して、ジミ・ヘンドリックスがアメリカ国歌『星条旗』を変奏したように国旗を変容させた「芸術」は、既にして日本では「罪」となるのは間違いないが、さらには国旗の変容が「罪」とならなかった場合をもって、日本政府の「寛容」を示すことにはならないだろうか。例えば東京都に現れたバンクシーの絵画が小池都知事によって「かわいい」と称賛されて彼女の手に抱かれたように、変容された国旗が「かわいい」と称賛されて政府のものとなることはないだろうか。権力の愚劣さは、権力をより強くさえするが、決してその力を弱めはしない。愚劣さは狡猾な強さと共存する。
人類史上に名を残すであろうほどの愚劣なるかの米国大統領ドナルド・トランプが、もしベルリンの壁崩壊を祝す演奏会に立ち会ったとして、彼は「自由の歌」を斉唱しなかったであろうか? ベートーヴェンの人類愛は人類の一人たるトランプをも包んで「自由」を「歓喜」する歌として響いたのではないだろうか? 彼は自分が「自由」を大声で語り、歌うことに何の疑問も抱かないであろう。彼は本当に自分が米国と世界を「自由」にしていると信じており、周りの人間、さらには米国民、そしてさらには全世界人民が自分の「自由」を憧憬するべきだ、と考えているであろう。それが権力の愚劣なる強さである。
その権力の愚劣なる強さへのレジスタンス=抵抗として、今回取り上げるマックス・デヴロー『レジスタンス』は存在する。ごく簡単な規則による図形楽譜(CDをかけながら読譜すれば解読するのは容易だ)による「物理的抵抗」「形式的抵抗」「方法論的抵抗」の3つを眼目として作曲されている。第4曲「フィードバック」のみエレキギターの轟音がうねるが、その他の曲はポツリポツリと単音が静寂と交代交代で鳴らされるのみ。そこから音楽的快楽・愉悦を得ようとするのは難しい。さらには、この一聴して不条理・無形式な音楽に「意味」を読み取ろうとすることも難しい。だが、その無快楽、不条理、無形式な音の群れにレジスタンス=抵抗の契機は宿る。快楽、条理、形式の求心的な力に対して、本作の無快楽、不条理、無形式の遠心的な力は、権力を権力たらしめる求心力への抵抗となる。権力に対して、没権力的無関心を決め込むのではなく、反権力的遠心力を発生させ、そこからレジスタンス=抵抗を始めようとする。それがこのマックス・デヴロー『レジスタンス』の「政治的」可能性だ。
全世界が狂っていく中でのレジスタンス=抵抗を試みようとする全ての音楽人にとって、本CDは一つの階(きざはし)となるだろう。
(2026/8/15)