注目の1枚|篠原眞 私の歴史的録音 前衛の探求|齋藤俊夫
篠原眞 私の歴史的録音 前衛の探求
Makoto Shinohara Meine historischen Aufnahmen
スリーシェルズ
3SCD0083
2026年8月2日発売
制作:篠原眞作品普及会
Text by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
<収録曲>
(全て篠原眞作曲)
『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』(1958)
『ミュージック・コンクレートのための試作』(1960)
『電子音楽の習作』(1962)
『打楽器のためのアルテルナンス(交互)』(1962)
『ピアノのためのタンダンス(傾向)』(1963)
『テノール・リコーダーのためのフラグメンテ(断片)』(1968)
『オーケストラのためのヴィジョン(幻影)II』
『箏・打楽器・声のための「たゆたい」』(1972)
(ボーナストラック)『一人の打楽器奏者とテープのためのランコントゥル(出会い)』(1972)
なんと、孤独な、音楽で、あろうか……。筆者はこのCDを一聴して自分の心臓が雪女に掴まれたかのような心底冷たい思いを感じた。
篠原眞最晩年の、かのパンデミック下でのコンサートにおいて筆者が生演奏で直に聴き「神なき世界に生まれた宗教者(略)の慟哭とも言うべきパトスの激流を浴び」たと記した、篠原27歳時の作品『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』の時点で既に、彼が自己の音楽を徹底的に〈客観化〉する態度は現れていた。
音楽の客観化とは、その音楽をある人間(作曲家含む)の主観的な感情・好悪・心理に委ねることを許さず、それらから音楽を断ち切り、あくまで、ある音楽がただある音楽だけの存在とせんとすることを言う。篠原の音楽の厳しさ・美しさ、そして孤独はこの客観化への強烈な指向から立ち現れる。彫琢に次ぐ彫琢を重ねることにより、音楽の客観性は堅固となり、同時に音楽から主観的情緒・感情は排されていく。そのことにより、音楽をどんなに聴いてもその音楽に聴き手である我々が感情移入・自己同一化をすることは拒まれ、ただその峻厳たる音楽と自分とが断絶されて孤独に佇むしかなくなる。
『打楽器のためのアルテルナンス』『ピアノのためのタンダンス』『テノール・リコーダーのためのフラグメンテ』『オーケストラのためのヴィジョン(幻影)II』『箏・打楽器・声のための「たゆたい」』たちの強烈なフォルテの音、聴覚神経にかろうじて届くほどのピアノの音、どれもが孤独だ。これらの音楽をいくら聴いても、どこにも聴いている〈自分〉、そして奏でている〈彼ら=奏者〉さらには書いた〈彼=作曲者〉の主観が現れることはない。その孤独な音楽は、しかし〈寂しい〉音楽にはならない。寂しいという〈感情〉〈感覚〉はより〈人情的〉〈感情的〉なものだ。〈人間的〉なものだ。そのような〈人間的〉な主観的なものが篠原の極度に客観的な音楽とそれを聴く我々の間に介在する余地はない。篠原の音楽はただひたすらに〈そこにある〉ことで自足する。どこまでも美しく、孤独なまま、ただそこにある。そのことは、嬉しいことなのだろうか、あるいは寂しいことなのだろうか。それでも、筆者は彼と彼の音楽が在ってくれたことに絶えようもない喜びを感じ、感謝を思ってしまう。
ただし、この篠原の音楽の客観性という観点からして、會田瑞樹の打楽器ソロとテープによる『一人の打楽器奏者とテープのためのランコントゥル(出会い)』はいささか居心地が悪かった。會田の打楽器の腕は買うが、あまりにも感情的、つまり主観的な乱打絶叫は例えば石井眞木のアンサンブル曲ならば良いが、篠原眞にはそぐわないと言わせてもらいたい。
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