Pick Up(2026/6/15)「篠原眞メモリアルコンサート」とCD「私の歴史的録音」をめぐって|髙久暁
「篠原眞メモリアルコンサート」とCD「私の歴史的録音」をめぐって
Text by 髙久 暁(Satoru Takaku): Guest
篠原眞(1931年12月10日・大阪~2024年3月3日・東京)が逝去して2年が経過した。追悼の催しが行われて然るべき時期と思われる。
7月4日の午後に北とぴあ・さくらホール(東京都北区)で「篠原眞メモリアルコンサート」を開催することになった。生前の作曲者が行うことのなかったオーケストラ作品による個展である(演奏:オーケストラ・トリプティーク、記念合唱団、指揮:水戸博之、監修:髙久暁、プロデュース:西耕一)。さらに演奏会に合わせてCD『私の歴史的録音 篠原 眞 前衛の探求』(以下『私の歴録音』)がスリーシェルズからリリースされる。
経費のかかるオーケストラ作品の演奏会をあえて行うのは、篠原のオーケストラ作品をまとめて演奏する機会がいつかは必要であると考えていたからだった。篠原の作品個展は日本では過去8回開催されてきたが、演奏されたのは室内楽や独奏曲や電子音響音楽に限られていた。篠原にとってオーケストラ曲は折々の時期に用いた音楽語法を集大成する場となっていたが、演奏の頻度はあまりに少なかった。
最後の完成作品1)が2021年に完成した《2つのオーケストラのためのフェノメナ(現象)》だったことも理由のひとつになるだろう。この作品を篠原は聴くことなく他界した。
CD『私の歴史的録音』は、篠原の持っていたオープンリール・テープから、これまで未公表だった作品の音源を含むテープが発見されたことが制作のきっかけとなった。ディスクのタイトルは、テープに「Meine historischen Aufnahmen」――ドイツ語で「私の歴史的録音」――と記された紙片が付されていたことに由来する。このテープには、伝説的なピアノの名手として知られた若き日の篠原の自作自演、生前の篠原が存在を明言しなかったパリのGRMこと音楽研究グループで制作されたミュージック・コンクレートの小曲2)、ミュンヘンにあったシーメンス社の電子音楽スタジオで制作された電子音楽の小曲3)ほかが収められていた。さらに篠原がたびたび自作のプレゼンテーションのレクチャーで作品例として紹介することのあったライブ音源や放送録音を収めたテープも発見された。若い世代の現代音楽の聴き手にとって篠原が「知られざる作曲家」となりつつある現在、これらの録音は世に問うべき価値があると判断した。
篠原は日本の作曲家として異例の生涯を過ごした。1954年にパリに留学して以来、逝去するまでの70年間ヨーロッパに拠点を持った。最も長く住んだのはユトレヒトで45年、次いで西ベルリンの11年であり、日本には東京と京都に住まいがあった。これら複数の拠点を持ちながら篠原は日欧で、また北米大陸やアジア諸国で作曲家として活躍した。
筆者が篠原と知り合ったのは今から40年近く前の1987年1月、東京で行われた作品個展のプログラム冊子に網羅的な作品リストとディスコグラフィを作成して掲載したことから始まった。篠原の活動にはいつでも関心を持ち、何かを頼まれたときにはできる限り応じていた。新作の楽譜を渡されれば演奏の心当たりを探したが、これは何よりも筆者が新作を音で聞きたかったからだった。とはいえ研究らしい研究を行ったとはいまだに言うことはできない。
以前、篠原の生涯と創作について概説的な文章を執筆したことがあった(髙久 暁「篠原 眞、その創作の概要と電子音響音楽の意義」、川崎弘二編著『篠原眞の電子音楽』、engine books、2012、pp. 98–117)。20世紀の間は作曲に没頭して作品の演奏に世界を駆け巡っていた篠原だったが、21世紀に入ると自身の創作史について語る機会が多くなった。誰しも当然であるが、訊き手が異なれば語られる内容にもおのずと差異が生まれる。篠原も訊き手に応じてさまざまな話題やニュアンスや深度を持つ語りを行った。そしてこれもまた当然であるが、過去を振り返るときの言説は生の一貫性を保つための語りとなる。今から思えば篠原は、自身にとって意味を持たないと見なした経験を捨象するか、ごく限定的に扱いながら創作歴を語っていた。篠原が外国での創作活動の中で、また生活の中から得た広範な経験を思えば、これはとても残念なことであった。
筆者が上述の文章を書いた2012年、篠原は80代を迎えていた。篠原はもともと寡作である。作品の生産のペースはますます緩やかになっていったが、新たな音楽語法としてさまざまな音程構造を持つトーン・クラスター(と作曲者は話していた)を用いるようになったことは注目すべきだろう。7月4日の演奏会で初演される最後の完成作品《2つのオーケストラのためのフェノメナ(現象)》もこの語法に基づいている。
2014年11月末、篠原はユトレヒトから東京の住まいに到着した。以後の篠原はユトレヒトの住まいに戻らなかった。戻るつもりがあったのかもしれないが、作品の演奏や初演に対応するなどして機を逸しているうちに自転車から転倒してしまい、療養せざるを得なくなった。とはいえ篠原は完全に自立した独居老人として不自由なく生活していた。ユトレヒトの家はソーシャルワーカーが定期的に見回りに来て、こまめに東京に郵便を転送していた。
個人の活動のプロセスから生まれて蓄積されてゆく文書類をアーカイブと言うなら、篠原のアーカイブは京都と東京とユトレヒトにあった。生前整理が行われてもよいだろう。筆者は何度か篠原に進言を試みたが、篠原は聞き入れる様子がなかった。
パンデミックの時期に問題が持ち上がった。京都の家が取り壊されることになるという。篠原は重すぎるほどの腰を上げざるを得なくなった。事故の後遺症で左脚を引きずり気味に歩くようになっていた篠原は、もはや京都の家に赴いて片づけを行うことは叶わなかった。代わりに筆者が資料を「救出」するために京都に出向いた。篠原は並外れた記憶力と空間把握力で詳細な指示を与えた。パンデミック2年目の京都はひと気に乏しく静かだった。
次はユトレヒトの家だった。2022年8月に最初の作業が始まった。ソーシャルワーカーのK氏以外の人物が家に入るのは8年ぶりのこと、カレンダーは2014年11月のままだった。音楽関係の資料の置かれているラックからひとつひとつ資料を取り出し、中身を確かめて郵送用の箱に入れていると、隣のラックがきしんで自然に揺れ始め、あっという間に振動が大きくなって倒壊した。シャルル・ヴァランタン・アルカンが書棚から本を取り出そうとしたときに棚が崩れ、下敷きとなって亡くなったというエピソードが思い出された(この話は伝説である)。ユトレヒトの家は家具の配置や配線が緻密に組織されていて、篠原の音楽の緻密さに通じるものを感じさせた。整理と片づけが一応の終了を見たのは、篠原が逝去した後の2024年6月だった。
同じ年の8月には生前の篠原が「演奏保留作品」と定めていた《一人の打楽器奏者とテープのためのランコントゥル(出会い)》が會田瑞樹によって52年ぶりに演奏された。1972年にミュンヘン・オリンピックの委嘱作品として作曲された《ランコントゥル》は、ツトム・ヤマシタによって西ドイツの都市で数回演奏された後に「演奏保留」となっていた。この作品は非西洋地域(アフリカ、日本、インド、チベット、イラン、バリ島)の伝統音楽や民俗音楽のコラージュと、言葉のインストラクションに基づく打楽器奏者の即興演奏との「出会い」を主題とする。演奏と作品の境界が曖昧になることを危惧した篠原は作品をいわば「お蔵入り」させたのだった。
筆者は生前の篠原に《ランコントゥル》の演奏許可を何度となく求めたが、篠原は頑なだった。演奏保留が解除されたのは2023年の年末、すでに篠原は病床にあった。會田の素晴らしい演奏は、リリースされるCDのボーナストラックとして収録される。
篠原の作品が再定義・再解釈・再発見される意義を有していることは言うまでもない。「篠原眞メモリアルコンサート」の開催とCD「私の歴史的録音」のリリースが、篠原の音楽受容の転換を促すきっかけとなれば筆者の企図は果たされたことになるだろう。(文中敬称略)
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「篠原眞メモリアルコンサート」
2026年7月4日、14時開演(13時45分からプレトークあり)
北とぴあ・さくらホール(東京都北区、王子駅前)
演奏曲目(作曲年順):
オーケストラのためのロンド(1953)
バレエ音楽「夢殿」抜粋(1954)
オーケストラのためのソリチュード(孤独)(1961)
20弦楽器のためのリベレィション(解放)(1977)
オーケストラと混声合唱のための「夢路」(1992)世界初演
2つのオーケストラのためのフェノメナ(現象)(2021)世界初演
献唱:山田耕筰・篠原眞(編曲)《赤とんぼ》
一般席3000円(税込)、学生席1000円(税込)、teketで扱い
問い合わせ:1931mshinohara2024@gmail.com
CD「私の歴史的録音 篠原 眞 前衛の探求」
収録予定作品:
ヴァイオリンとピアノのためのソナタ(1958)
ミュージック・コンクレートの試作(1960)
電子音楽の習作(1962)
打楽器のためのアルテルナンス(交互)(スコアAEIOU)(1962)
ピアノのためのタンダンス(初版)(1963)
テノール・リコーダーのためのフラグメンテ(断片)(1968)
オーケストラのためのヴィジョン(幻影)Ⅱ(1970)
箏、打楽器、声のための「たゆたい」(1972)
一人の打楽器奏者とテープのためのランコントゥル(出会い)(1972)
問い合わせ:1931mshinohara2024@gmail.com
注:
1. 《2つのオーケストラのためのフェノメナ(現象)》完成後に、和歌をテキストとする4曲からなるピアノ伴奏歌曲が作曲されたが、未完のまま終わった。
2. 篠原は1959年から1960年にかけてGRMの研究生としてミュージック・コンクレートの研修を行った。
3. 篠原は1961年から1962年にかけてシーメンス社の電子音楽スタジオで電子音楽の研究を行った。

