Menu

山田和樹&東京芸術劇場 交響都市計画 水野修孝/『交響的変容』|齋藤俊夫

山田和樹&東京芸術劇場 交響都市計画 水野修孝/『交響的変容』
YAMADA Kazuki & Tokyo Metropolitan Theatre Harmonic City Project MIZUNO Shuko Symphonic Metamorphoses

2026/5/10 東京芸術劇場
2026/5/10 Tokyo Metropolitan Theatre, Concert Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by ©2/FaithCompany

<演奏>
指揮・プロデュース:山田和樹
管弦楽:読売日本交響楽団
合唱:東京混声合唱団、栗友会合唱団(合唱指揮:栗山文昭、碇山隆一郎)
太鼓:林英哲
ティンパニ:武藤厚志
ソプラノ:熊木夕茉
総合監修:水戸博之
賛助出演:東京音楽大学、青山学院大学グリーンハーモニー合唱団、慶應義塾大学混声合唱団楽友会、東京大学柏葉会合唱団

<曲目>
水野修孝:『交響的変容』
  第1部 テュッティの変容
  第2部 メロディーとハーモニーの変容
  第3部 ビートリズムの変容
(休憩45分)
  第4部 合唱とオーケストラの変容
    第1章
    第2章
    第3章
(休憩15分)
    第4章
    第5章
    第6章

 

大規模な編成の管弦楽団に大勢の合唱団、和太鼓とティンパニのソロ、およそ3時間半の演奏時間という圧倒的に巨大な――まさに太古の恐竜的な――水野修孝『交響的変容』、その全貌を聴き届けた後、筆者は暫く何も考えられないのと同時に、一体自分は何を聴いたのかを自分に問いかけ続けざるを得なかった。

何を聴いたのか、聴きながらひたすら書き続けたメモと記憶をもとにそれを記述することはある程度可能だろう。

第1部、クラスター、あるいはクラスター的和音による最弱音からのクレッシェンド、最弱音からのクレッシェンドを何回も繰り返して音楽は始まる。全楽器が絡まりあい荒ぶり身悶えする巨獣的オーケストラの迫力! それは先年に山田和樹が振った三善晃の管弦楽曲を想起させる……だが、三善の実存的投企ではなく、娯楽的なサービス精神を感じさせる……。突如打楽器がリズミカルに、軽快に浮かび上がると音楽全体もまた軽味を帯びてくることにある種軽薄な感覚さえ覚える。
第2部、まず弦楽器で奏でられる旋律が悲痛かつ美しく。そこに木管、金管が旋律の断片を散りばめる。旋律が哀調から快調へと変化していく……これは作曲者・演奏者ともにその旋律に絶対の自信がなければ不可能な技だ。さらに旋律が悲痛な表情を浮かべていき、さらには怒りの様相を呈していき、クレッシェンドして最大音量に達した後デクレッシェンドして消えゆく。
第3部、(筆者はあまり馴染みがないが)これはビッグバンド? 指揮者も跳ねれば器楽も跳ねる。よく鳴るよく弾むよく跳ぶでたしかに楽しいが、筆者としてはなにか面映ゆい、むず痒い。林英哲の和太鼓と武藤厚志のティンパニが丁々発止かつ真剣勝負を繰り広げる。サイコーに楽しい……でも、それで良いのだろうか?と筆者は聴きつつ悩まざるを得なかった。

第1~3部のここまででおよそ80分。45分間の休憩で持ってきた菓子パンと飲み物など補給してまだまだ続く長丁場に備える。

第4部から管弦楽に大編成の合唱が加わる。その第1章、主に弦楽器のグリッサンドと合唱のヴォカリーズが各声部で不協和に、地鳴りのようにくぐもったかと思うと高音でつんざくように、弱音から強音、また弱音へと蠢きつつ響き合う。やはり筆者はここに三善の影を聴かざるを得なかった。
第4部第2章、原爆への恐怖とプロテストを込めた歌詞と荒ぶり続ける管弦楽団、破裂するような最後まで……駄目だ、やはり三善晃の影が聴こえる。
第4部第3章、ヴォカリーズと管弦楽がここでも荒ぶり、絡まりあい、ミクロポリフォニーなどによる無限に感じられるほどの闘争劇が繰り広げられる。声はやがて絶叫と化し、時折現れる協和音はすぐに次の音とぶつかり合って不協和音を為す。弦も管も打も合唱も耳も割れよと轟音を放ち、合唱に歌詞(ここでも原爆へのプロテストが主題である)が現れても何を言っているのかもはやわからず、究極的な大音量が現出する。そこから次第に静まって「みんな苦しみもだえて死んだのだ」という歌詞がはっきりと聴こえてくる。管弦楽が無常観を漂わせる音を発し、さらには咎めの音を発する。チューブラー・ベルと管楽器が痛烈に鳴り響き、合唱がヴォカリーズを深々と虚空に浮かべて、この長大な章は終わる。

休憩15分間、いよいよこの巨大作品の核心に迫ると思うとワクワクせざるを得ない。

第4部第4章、多声部合唱による「キリエ エレイソン」、これもまた荒ぶる雄叫び。そして遂に! 合唱隊がいくつもの班に分かれて1階、2階、3階の客席通路を走って配置につき、それぞれの班に指揮者がつき、別々の歌をめいめい同時に歌ってこちらの認識能力をはるかに超えたポリスタイルの極致とも言える合唱体験が現れる! 管弦楽もポリスタイルのようでヴァーグナーなどが演奏されていたような気もする(ここは筆者にも自信がない)。何がなんだかわからないがとにかく凄いことは確かだ。この超多声部合唱は皆が追分節風ヴォカリーズに収斂していって穏やかで協和的な風情を醸し出し、静かに穏やかに終わりを迎えた。
第4部第5章、法華経、聖歌のアニュス・デイ、クレド、ヴォカリーズなどが合唱によって順に歌われていく。現代音楽的技法は鳴りを潜めるが、大規模な管弦楽と合唱が超弱音から超強音までのものすごいダイナミックレンジで物量攻めを仕掛けてきて、さすがにこちらの聴覚神経が疲労で痺れてくる。オルガンが突如大音量で鳴り響くなど、何か禍々しさと神々しさの入り混じった不気味な崇高体験を味わう。
第4部第6章、読経のようで、したがって黛敏郎的とも言える法華経に始まる。ミサ通常文、ゲーテの『ファウスト』、マーラー交響曲第8番、そしてここでもヴォカリーズと、様々な素材が現れては移り変わっていく。ここまで来ると作曲者が歌詞に込めた願いはもはやどうでもよくって、ただ鳴り響く音に自分を委ねて陶然とするしかなくなってくる。あまりにも巨大すぎるのだ。強音の「ジャン!」で終わるのか?と思ったが、その後でデクレッシェンドしてまたクレッシェンドして「ジャン!」、またデクレッシェンド……が延々と続き、どうやって終わるのかと思っていたが、やがて静かに消え去るように全曲が終わった。
万雷の拍手。

水野修孝の自我が乗り移った音楽が、山田和樹ら再現者、さらに聴衆を巻き込んでどんどん膨れ上がり巨大化していく、自我の間主観的巨大化運動の儀式であった、と筆者は本演奏会を捉えた。東京芸術劇場はただの演奏会場ではなく、宗教的な儀式の場となっていた。
だが同時に、その巨大な音楽の其処此処に水野の「個」としての顔ではなく、誰の顔でもないのっぺらぼうの「衆」の顔が現れていたことに、筆者は躊躇いを覚える。全曲に匂う三善晃の音楽、第3部のビッグバンド的音楽、第4部第4章の追分節風の所は柴田南雄『追分節考』を思い出さずにはいられない、第4部第5、6章の法華経は黛敏郎的だ。こういった細かな他作曲家との類似点をあげつらうだけでなく、その巨大さに圧倒されつつも、「これが水野修孝だ」というユニークな=唯一の、それだけで作曲者の音楽精神が読み取れる、言わば必殺の楽想がどこにも聴き取れなかったように筆者には思えるのだ。現代という「何でも許容される時代」に「これこそが自分がやりたい音楽だ」と言うことをやめ、「自分は何でもできます」と言ってしまっては、少なくとも筆者の思う現代の作曲家像とは異なっている。
ある音楽を作曲する、という営為は「恋愛」や「結婚」というアナロジーで捉えられないだろうか? すなわち、誰も彼もを愛するのではなく、無限の人間の中のたった一人の恋人を選び、その恋人を伴侶として添い遂げる、そういった営為こそが作曲なのではないだろうか? そのためには、たった一つの音楽を、どこまでも、どこをとっても「たった一つのもの」として磨き上げねばならないのではないだろうか。
巨大な本作全体を、水野修孝も、山田和樹や演奏者たちも、筆者含む聴衆全員も愛したことは間違いないだろう。それでも、本作の「どこ」を愛したかと問われると返答に窮する。この作品は巨大で偉大な作品だが、本当の愛を見失ってしまった作品なのではないだろうか。筆者は寂しい気持ちでそんなことを考えてしまう。

(2026/6/15)