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新日本フィルハーモニー交響楽団 定期演奏会 すみだクラシックへの扉 第41回|齋藤俊夫

新日本フィルハーモニー交響楽団 定期演奏会 すみだクラシックへの扉 第41回
New Japan Philharmonic Orchestra SUMIDA TOBIRA of classic 2026-2027 Season #41

2026年7月4日 すみだトリフォニーホール
2026/7/4 Sumida Triphony Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by (C)大窪道治/写真提供:新日本フィルハーモニー交響楽団

<演奏>
指揮:藤岡幸夫
ヴァイオリン:木嶋真優(*)
コンサートマスター:崔文洙
新日本フィルハーモニー交響楽団

<曲目>
芥川也寸志:『交響管絃楽のための前奏曲』
伊福部昭:『ヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲(ヴァイオリン協奏曲第1番)』(*)
吉松隆:交響曲第3番 Op.75

 

今回の藤岡幸夫、木嶋真優、新日フィルの公演は、前半の芥川と伊福部における節度と中庸の美でこれまでの「筆者の」藤岡観を良い意味で覆し、後半の吉松でこれまでの「筆者の」藤岡観を良い意味で補強・推進・加速するものであった。

芥川也寸志『交響管絃楽のための前奏曲』の第1部、ヴィオラ、オーボエ、クラリネット、弦楽、オーケストラ、と旋律が受け渡されていくのは屏風絵が一扇、また一扇と開かれていくような感覚を覚える。その後のオーケストラによる変容的音楽は日本庭園の内を歩いて、その場所ごとに異なった景色を眺めるかのよう。その古代日本風情緒はメロディーも含めて早坂文雄を強く想起させる。
第2部のアレグロはこれぞ芥川サウンド!と膝を打つ快活さ。初期三部作『交響三章』『交響管絃楽のための音楽』『絃楽のためのトリプティーク』のアレグロは既に東京音楽学校(現東京芸術大学)卒業作品たる本作の時点で完成されていたのか、と興味深い。そのアレグロから一転しての優しいアンダンテもまた野村芳太郎映画作品などで聴こえてきたあの芥川サウンド。そこからアレグロ、アンダンテ、と楽想を転じながら、コーダでは一気に重く土俗的な伊福部昭的サウンドが襲いかかってきて終わりを迎える。第2部では序盤から伊福部昭『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』(1941)で使われた(これが日本初の?)手法、ピアノのトーン・クラスターが使用されていたことも注記したい。
藤岡幸夫の曲作りは過去の彼の芥川解釈――例えばCDにもなっている「芥川也寸志生誕100年記念コンサート」での『交響三章』第3楽章の終結部――のようにむやみやたらにオーケストラを焚きつけるのではなく、ジェントルな、それでいて芥川がこの曲に込めた熱量は失わない優れたレアリゼであった。

伊福部昭『ヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲』、かつて藤岡幸夫が伊福部作品の演奏会のプレトークで、「伊福部昭を演奏するとその後のオーケストラの音が下品になってしまって困る」といったことを言って、それを聞いた筆者が「伊福部昭が下品なのではなくあんたの耳と音が下品なのだ」といたく立腹したことがあるのだが、今回の演奏は全く「下品」ではなかった。
第1楽章冒頭のソロから前半部分を支配する木嶋真優のヴァイオリンの時点で筆者は呑まれた。なんと芯の太く、なんと野趣に富んだ、なんと力強い音、なんと伊福部的音であるか、と。伊福部昭の哀愁と「もののあはれ」が野性的な動勢(例えば木嶋のテンポ・ルバートの見事さよ!)の中で一体化している。このヴァイオリンは、ただ奏でるだけではなく、舞っている。荘厳で、厳粛な雰囲気の内に第1楽章は了。
第2楽章、ティンパニーのソロから木管楽器でメロディーを受け渡し、弦楽器が拍を刻み、その上でヴァイオリンが第1楽章よりさらに激しく舞う。第1楽章でもそうだったのだが、第2楽章でも打楽器群の強い拍打ちにより嫌でもこちらの心の臓の拍もまた高まる。これははるか古代、まだ戦いが儀式や祝祭と未可分であった頃の舞踊曲だ。オスティナートに継ぐオスティナートで音楽の脈動がクライマックスに達し、結末へと至る。素晴らしい。

後半の吉松隆交響曲第3番、少し前に筆者は仙台フィル・高関健によるこの作品の演奏で「批評ができない」というに等しいことを書いたのだが 今回は批評が確かに書ける。それは高関と藤岡のアプローチの根源的音楽観の相違によるものだ。
第1楽章、低音弦楽器から不協和音のイントロ、この時点で藤岡は「恥ずかしげもなく大仰にぶちかまして」いた。しばしの静寂の後、弦楽器群が激しく音を刻みつける。そして「ジャン!ジャジャジャジャジャン!」とまたしても叫ぶ。これらの叫び方に全く躊躇いがない。それが藤岡の吉松。ノリにまかせてぶちかます、その「若さ」、「やんちゃぶり」こそが吉松の音楽を光らせる。もちろん「吉松の鳥」たちのさえずりの可愛らしさも忘れてはいない。怒涛の進撃からフォルテシモ、そしてスビト・ピアノで静まってこの楽章は了。
第2楽章、「ポリリズム」ならぬ「鳥リズム」とでも言うべきアンサンブルの色彩美もまた吉松の武器。またジャズっぽい楽想にスイングの運動力があるのは藤岡ならではの吉松だ。全楽器が遊びまくるフリージャズのような場面を経て軽やかに密やかに了。
第3楽章、チェロのソリが狂おしく悶える。そこから綺麗だが、いや、綺麗だからこそ寂しく、悲しいかもしれない、静かな音楽が奏でられる。何かを強く訴え、抗うような強さもある。弦楽器で主題をごく弱音から徐々に徐々にクレッシェンド。その頂点で短調から長調に転じて、希望を持たせてデクレッシェンド。弦楽器が透明な調べを会場に行き渡らせて(チェレスタが愛らしい)了。
第4楽章、ここでもまた藤岡が「ぶちかまして」開始。弦楽器群が刻み、金管楽器がファンファーレを披露、打楽器が乱打。鳥っぽい吉松メロディーに鳥っぽいアンサンブル。一旦収束してアレルヤ主題が膨らんでいき、祝祭だ!祭りだ!全楽器がとにかく鳴らしまくる。この「恥ずかしげのなさ」、これぞ吉松だ。藤岡による吉松の真骨頂だ。藤岡跳ねる!オーケストラ全員が起立!全曲完!
藤岡による吉松隆は、言うならば「マンガ的」世界の音楽なのだ。若く、さらには子供っぽく、やんちゃなのだ。それでこそ吉松はこちらの心にぶつかってくる。先の高関健のレアリゼは吉松を「純文学的」に解釈してしまったがゆえの齟齬があった、そう筆者は今では解釈している。
プロの楽団員たちが再び取り戻した、アマチュア時代の無邪気で純真な熱意、その「青春」を今回の藤岡幸夫の吉松隆は描いてみせたのだ。

ただ、一つだけ言わせてもらいたいのは、「日本にもこんなすごい音楽があった!」というチラシの惹句は、あまりにも歴史修正主義的・国粋主義的な文言ではなかろうか。世界的に排外主義・自国第一主義が蔓延するこのような時勢だからこそ、もっと丁寧に言葉を選んでもらいたかった。

(2026/8/15)