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東京都交響楽団第1049回定期演奏会Aシリーズ|齋藤俊夫

東京都交響楽団第1049回定期演奏会Aシリーズ
Tokyo Metropolitan Symphony Orchestra Subscription Concert No.1049 A Series

2026年8月8日 東京芸術劇場
2026/8/8 Tokyo Metropolitan Theatre
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by (c)Rikimaru Hotta/提供:東京都交響楽団

<演奏>
指揮:尾高忠明
ピアノ:北村朋幹(*)
コンサートマスター:山本友重
東京都交響楽団
<曲目>
三善晃:オーケストラのための『ノエシス』
松村禎三:『ピアノ協奏曲第2番』(*)
エルガー:『エニグマ変奏曲』

 

“無”と書いた軸を掛けても、何もなくなりません。“死”と書いた軸の場合は、何もかもなくなる。“無”ではなくならん。“死”ではなくなる!
井上靖『本覺坊遺文』より

本公演の前半2曲、三善晃『ノエシス』と松村禎三『ピアノ協奏曲第2番』に深く刻み込まれているのは、人間がそこから逃れることのできない「死」という事象であった。
6分ほどのごく短い作品ながら、三善の音楽の全ての要素が含まれていると言っても過言ではない『ノエシス』の、雷神か怨霊が乱れ狂い歌い狂うような音響に続く後奏の静けさ。その静けさを構成するのは、「死」だ。いや、乱れ歌う音響もまた「死」の体験を延長したものなのかもしれない。なんと苛烈な世界で三善は生きてきたのか。苛烈な世界で「死」を忘れることなく想いつつ、生き抜いた彼の美的倫理……ああ、過酷だ。あまりにも過酷すぎる。
松村禎三『ピアノ協奏曲第2番』、これもまた苛烈な音楽であった。松村の原体験に結核での長い療養生活があることは周知の事実だが、その生と死が紙一重となった体験を「凝視すること」を音楽体験に変換した「オスティナート(執拗な反復)」の楽想の恐ろしさ。師・伊福部昭の、生を肯定するたくましいオスティナートとは全く異なる、ひたすら「死とは何か」を念じ続ける強迫的なオスティナート。第1楽章序盤から結末まで、北村朋幹の澄み切ったピアノの音色が音楽に透徹した思索性を与え、またそのピアノを起点としてのオーケストラの響きを捌き切る尾高の指揮、それに応える都響の演奏、どこにも隙がない。隙がないということは松村オスティナートの強迫的音響が終始こちらの心の芯に刺さり、震わせ続けるということだ。なんたる音楽体験。
第2楽章に入り、冒頭からの静かな北村のピアノ独奏が厳しく、されど儚く、でも死を凝視する強い意志をもって。諸行無常という諦観とは無縁な、もっと力強い音楽。やがて始まるピアノのトレモロに生命力が宿り、そこからオーケストラとピアノの強靭な楽想が噴火する。これは生への意志か? 死への意志か? 全てをねじ伏せるような力強さ。だが最後(最期)は静寂の中へ、死へと落ちゆく。全てはそこに帰す、という厳然たる真実をこちらに突きつけて、終わる。

公演後半は、人類が2つの世界大戦を経験する以前のいわゆる「クラシック音楽」であるエルガー『エニグマ変奏曲』の美しさを、エルガーの世界的権威尾高忠明の指揮で聴くというなんとも贅沢なプログラムであった。
最初に憂いを帯びた主題が提示される時点で「あー、クラシック音楽は綺麗だ」とうっとりとさせられる。そこから典雅な第1変奏、無窮動的第2変奏、おどけた第3変奏……と進むそれぞれの音楽が実に「これでしかありえない」という確固たる構築性を持って組み立てられている。ヨーロッパの教会建築のような堂々たる荘厳かつ崇高な音楽が現前し、そこに筆者は音楽の持つ陽性な宗教的精神すら汲み取った。さらに、建築といってもガチガチに表面なや内部が固まることなく、生物的な柔軟さとしなやかさをも兼ね備えた有機的建築物である。第9変奏「ニムロッド」の優しく温かい音楽や、最終第14変奏の即興的ダイナミズムを持ちつつ完璧な構造を現実化したレアリゼなど、まさに尾高の独壇場ではないか。なんというか、「さすが世界レベルの権威だ」とぐうの音も出ないほどに心服させられた。

死を強く思わせる前半、優しく抱きしめてくれる後半、と対照的な音楽ながら、どちらも超一流の仕事を聴かせてもらった。尾高マエストロ、北村朋幹、都響、皆に心からの賛辞を。

(2026/9/15)