三善晃の声を聴く(14)遠方より無へ(Ⅲ)『ノエシス』の「異常な空想」|丘山万里子
(14)遠方より無へ(Ⅲ)『ノエシス』の「異常な空想」
Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
『ノエシス』(1978)について、『レオス』の改作を、との気持ちで長期間それを眺めていたものの、放棄したことは先述した。「かなり深みにはまった」その迷いとは、長く親しんだフランス実存主義と、未だ茫漠たる無空世界の間にあって、自分をどこに置くか、の問い。『王孫不帰』(1970)から『レクイエム』を挟んでのこの時期、彼のなかにずっとあった「ある一つの情感」、すなわち死者(母も含む)への情念(パトス)の切迫を、いかに音で「葬う」ことができようか、だったろう。
平たく言えば、「情」(パトス)に竿さす危うさからいったん身を引き「理知」(ロゴス)へと足を移す必要があったということで、このあたりのバランス感覚はいかにも三善らしい(パトス、ロゴスといった語彙は三善が使用)。サルトルの『存在と無』経由でフッサールの意識の現象学へ遡行した彼の目論見は、作品タイトルとなった「ノエシス」(意識作用)の音楽化(響きと持続)だ。
まずは、三善の自作解説を見よう。
「新作は定量記譜により、いくつかの楽器群が固有の持続をもちながら相互参加する関係を統合した。フルートとオーボエの、クラリネットの、金管の、弦の、それぞれの群、その他クローシュなど、個々の楽器の“音楽”は、音が(その空白を含めてアプリオリに)時間をもっている、という意味で私の存在感覚に属するが、志向性をもたない。フッサール流にこれをヒューレ(ママ)とするならば、それらが一個全体の持続のために(志向的に)存在しはじめるには、そのための契機あるいは生気を与えるノエシスが、やはり私の体験裡に、しかし対自的な意識作用として、つまり、異常な空想の体験として、なければならない。“迷い”と前述したが、それもかなり深みにはまったこの期間に、自己離脱的にこのノエシスが強められていったかと思われる。それは、いつも、そうしていたことなのかもしれないが。」(『遠方より無へ』p.161)
そもそも「ノエシス」という哲学用語も一般人には意味不明、解説も難解。この文章の前には、改作に「次第に心咎められ」、「全ての音が、それぞれのありようでそこにあり、そこから生まれる投企は別のところにある。その投企を追うことは、別の創作でしかない。迷いだった。」との記述がある。哲学的厳密考察はおき(私には無理)、荒っぽく眺めると、「投企」「対自的」「自己離脱」はサルトル、「志向性」「ヒュレー」「ノエシス」「意識作用」はフッサールといった具合に哲学用語が散りばめられており、三善の頭の中にこれらが「異常な空想」として飛び交っていたことが知れる。
それは、どんな音楽になったか?
たまたまこの8月(2026/8/8 尾高忠明指揮、東京都交響楽団@東京芸術劇場)に『ノエシス』実演があった。私は実演に接したことはなく、手元の書籍・楽譜・音源(初演録音1978/尾高指揮・東フィルなど)でこういう作品、的理解をしていたが、大きな衝撃を受けた。作品は音が楽譜に定着された時点で、自立した命をそこに宿す。尾高と都響が描き出す『ノエシス』の明晰かつ凛烈なドラマトゥルギーは三善の何たるか(というのもおかしいのだが)を確然と示し、意識作用云々の理屈など押し退け冴えざえと美しく、しかも、やはり『レオス』の流れを汲むもの、と聴こえたのだ。端的に言えば、冒頭と終尾に響くチェロ独奏が宿す世界がそれ。同時に「反戦三部作」のやはり都響一挙実演で(本稿第1回)、ふと浮かび上がる歌の欠片に三善の「声」を聴いた(同じ首席チェロ奏者)、そのことを思い出させた。
が、それはいったん傍に置き、本作におけるフッサール援用の要点を拾いつつ、三善の「異常な空想」模様を眺めてみたい。
以下、あくまで三善の『ノエシス』(作品と自作解説)を背景にしつつのフッサール理解とする。
【『ノエシス』とフッサール現象学】―ノエシス・ノエマ・ヒュレー
この世界にひしめく「事物(モノ)現象(コト):事象」に対するにあたり、その「本質」を認知識別する人間の「意識」に分け入り、その事象の成り立つところを厳密な「学」として記述したのがフッサールの「現象学」(「事象そのものへ」(Zu den Sachen selbst))。フッサールはこれを「ノエシス (Noesis)」(意識作用)、「ノエマ(Noema)」(対象:事象)、「ヒュレー(Hyle) 」(素材)の3要素から解く。
「ヒュレー」とは人間の感覚器官(五感:視、聴、触、味、嗅)による感受で、それ自体は何ら意味を持たない「感覚的体験」(『イデーンⅠ−Ⅱ』p.91~93)。この諸体験を「生気づける“意味付与的な”(もしくは意味付与を本質的に内含するところの)一つの層」がそこには横たわっており、この層からノエマに向かう「志向性」(「意識は常に何ものかへ向かう」)が生じる。この志向性に基づき、バラバラな感覚的諸体験に何らかの意味を与え、統合・統一をはかるのが「ノエシス」(意識作用)で、この働きによって「ノエマ」(対象) が現出する、という図柄だ。
三善はこのヒュレーを、個々の楽器の持つ固有性(持続:時間を含む)とみなす。が、彼にとってフルート、オーボエ、クラリネット、クローシュなどなどの楽器は単なるヒュレー(素材)ではなく、「個々の楽器の“音楽”は、音が時間をもっている(その空白も含めてアプリオリに)という意味で自分の“存在感覚”に属する」。ここで存在感覚、とは三善の音への生理とでも言えようか。音に「輪郭」が見え、「イメージ」があり、「ポエジー」を感じる彼にとって、「楽器音」はすでにある種の志向性を含む。フッサールも感覚的体験がすでに意味を内包する場合もあるとしており(ex.上述引用「本質的に内含」)、私はこれを潜在的志向性(アプリオリ)を持つヒュレーと考える。この、潜在的志向性を持つヒュレー(楽器音)は、けれども、個から全体へ関連付け、統合する明確な一つの志向性は、持たない。個々の楽器の「音楽」(「音」ではない)が「一個全体の持続のために(志向的に)存在し始めるためには、そのための契機あるいは生気を与えるノエシスが、やはり私の体験裡に、しかし対自的な意識作用として、つまり、異常な空想の体験として、なければならない。」
つまりヒュレー(楽器音)が内包する潜在的志向性に基づき、一つの全体としての統合・総合体へと連関させるノエシスの作用は、自分の場合、どのような音楽表現としてノエマへと至りうるのか(象を結び得るか)、ということだ。
現象学は神の視点から人間の視点へと西欧精神世界が移行した時期の思潮・哲学の一つだが、その援用は、神にも仏にも依拠しない「根こそぎ喪失者」である三善が、今一度、人間の意識そのものを「凝視すべく」(眺めるのでなく)対自的に課した「自分の裡なる西欧(実存主義)」についての自己点検作業だったと言えよう(「自己離脱的にこのノエシスが強められていった」)。
【相関性と本質直感】
だが、上記3要素を下図とする意識の「作用」あるいは「働き」への着目は同時に、フッサール言うところの「相関性」(相互作用)や「本質直感」が何であるかをも、三善に示唆したに違いない。「ノエマ(相関項)と本質を混同してはならない。」(『イデーンⅢ』p.109)、「意識は精密に規定されえない流動する本質を有している。」(『イデーンⅡ―Ⅱ』p.151)、「本質感取は、原的に与える働きをする直感なのであり、本質をその“生身のありありとした”自己性において把握するものとなっているのである。」(『イデーンⅠ―Ⅰ』p.66)といった「本質」の絶対定立の否定、相互連関性(関係の網目)、流動性(変化する動態)、あるいは「生身のありありとした」(あるがままの)地平のイメージと「直感力」は、当時の三善の中の東洋的思惟とそのまま繋がるものであったろう。
フッサール現象学の持つこうした側面は、サルトル、メルロ=ポンティ、エマニュエル・レヴィナス、ジャック・デリダらを通し様々に展開されてゆくが、三善が1988年12人の対談者と行った対談集には彼らの名前・語彙がしばしば登場している(『現代の芸術視座を求めて 対話十二章〜三善晃対談集』1989)。また、ノエシス、ノエマ、ヒュレーが具体的に語られるシーンもあり、彼がどんなイメージをそこに抱いていたかが読み取れる。
その中の一つ、多田美波(彫刻家)との対話を挙げておく(『現代の芸術視座を求めて』p.126~127)。
三善:素材が精製される過程では素材自身のルールに従うけれども、多田さんはそれを方向づけるのですから、素材にとって多田さんは契機となる。作品ができると、自然と作品とが契機を取り交わし合う。それを見る人は、その人の人生と天象の中での作品との出会いが契機になる。触発といってもいいけれども、当事者の転機のきっかけという意味で、契機でしょうね。ノエマとノエシスがずっとつながっていく。
素材はヒュレー。この素材について、多田は素材にも物にも人格のようなものがあり、「何か丸めて作って、自分の手の中でそれをつぶしてしまうことは非常に怖い。だから常にものを作りながらあっちへ置いておいて、途中でもこれに惚れ込むとか入り込むとかせず、常に対話しながら作っていかないと作品自体の性格、物の形ができてゆかない。」(要約)と述べており、これは前述のヒュレーに内在する潜在的志向性と言えよう。三善の「楽器音」と同じ存在感覚だ。かつ、全てが契機として働くその相互作用(対話)によって「志向性」(意味の付与・形)がおのずから発現し、その都度、ノエシス(働き)はノエマを形づくるが、そのノエシスとノエマもまたダイナミックな相関の連鎖として「ずっとつながってゆく」流動体、という螺旋の輪(輪廻とも言える)がここに見えてこよう。
このイメージこそ、本作に先立つ『シェーヌ』(1973)の鎖に他なるまい。ヒュレー・ノエシス・ノエマの3要素のいずれもが単体として分節されず、互いに撚り綯われつつ「流動する本質」の生成へと働き続けるさま。おそらく三善がフッサールから摘み取った「空想」(別に「異常」ではなかろう)は、これだ。フッサールは、想像力こそ「本質直感」だ、と言ってもいるし。
なお、多田は素材と自分との間の関係を「対話」と表現しているが、対談集での12人との対話はそれぞれの創造の場で創作家がいかにこれらの「関係」を意識しているかが自分の言葉で語られており、それを自己流に翻訳(解釈)する三善の「意識」が炙り出され非常に奥深いものとなっている。1988年の12ヶ月毎月1人ずつと対談したこの記録には、他者との会話の中に、三善がパリ留学からここまで歩いた道のりを振り返り、言語化し、自己確認する姿がはっきり見える。前回触れた井筒俊彦の「存在の絶対無分節的真相」の深淵、すなわち「深層意識」はフッサールの本質直感に重なろうし、三善はこの直感をさまざまに対談者と確認、いわば東西の「存在の地平」を模索している。
当時の『音楽芸術』編集者の用意したこの小さな船旅の前書き(ではないとの断りがあるが)末尾には、「対談という“楽譜”から、“ほんとの音”が立ち現れる予感…フッサールはこの快い緊張を名付けているだろうか」とある。
『ノエシス』とは、そういう位置にあるのだ。
この対談集については、後日、改めて触れよう。
にしても、どの時代であれ、その時代時代を先導する哲人とは、誰にとっても必要なことごとを、本人にとってのギリギリまで突き詰め書き尽くし、それを手にするそれぞれが、そこから自分に必要なターム、原理を引き出すことができるよう、そこここに無意識(深層意識)にこの本質直感の嘆息を「漏らしている」ように思う。全ての名作・名品がそうであるように。楽譜もむろん同じで、ゆえこそ実演がその都度それを開示し続けてゆくのだ。
【現象学と十二支縁起】
ことのついでに、このフッサールの現象学は第12回で紹介した仏教の理法、「十二支縁起」とほぼ重なることを指摘しておく。再度その縁起を引用するが、先に両者照合を大雑把にまとめると以下。
ノエマ:対象
ノエシス:心作用(行・識・名色)
ヒュレー:六処(五感でなく六感で、第六感は五感を超える本質直感)
志向性:触・受・愛(愛は執着で、理を超えた最大の志向性と言えよう)
かつ、これら十二要素が因果の連鎖であるとの認識(十二支縁起)は、フッサールの相互連関と本質流動、そのもの。 三善の「ノエマとノエシスがずっとつながっていく」とのイメージの仏教版と思ってよかろう。
つまり、フッサールもブッダも同じところを見ており、言語こそ違え、「要素:支(枝の意)」「相互連関:縁起(因果)」についての認識は等しい。これが、根源的原理抽出の普遍、あるいは人類普遍の「叡智」ということではないか。三善がそれを直覚していた、と前回述べたのもそれだ。
根本的な愚かさ(無明)によって対象に向かう心作用(行)があり、対象に向かう心作用によって判断作用(識)があり、判断作用によってその対象としての名称とかたちあるもの(名色)があり、名称とかたちあるものによって六つの感覚器官(六処)があり、六つの感覚器官によって対象との接触(触)があり、接触によって感受(受)があり、感受によって欲望(愛)があり、欲望によって執着(取)があり、執着によって輪廻的な生存(有)があり、輪廻的な生存によって出生(生)があり、出生によって老いと死(老死)という憂い・悲しみ・苦しみ・嘆き・悩みが生ずる。このようにして、すべてのこの苦しみのあつまりが生起することになる。
もっとも、仏教はこうした人間の意識による世界分別認識作用こそが、人間の無明(無知)であり「苦」の元であるゆえ、「我」を滅せよ、「意識」を滅せよ、と説く。元凶は「我思う故に我あり」という人間の驕り高ぶった人間主義・世界観にある。したがって、世界を「我見」でなく「ありのままに」見よ、となるわけだ。ゆえ、ここに東西の「我」対「無我」の図式が浮かび出るわけだが、大事なのは二項対立の形ではなく、「“関係性”という“動態”への認識が共通すること」だ。それは西欧が「範」とするギリシア哲学も、アジアが「なんとなく共有」するインド・中国思想も同じ。全ての二元論は「有無」「表裏」「善悪」「正誤」「陰陽」のように同一事象が含む二面性(多面性というべきだが)を象徴するものでしかない。プラトンは「ヘテロ」を「異」(音)とみなしたが、「ヘテロ」を「異」を含む「多」として「同一」に包含する古代インド・中国思想も「同異」それ自体の認知(感覚的体験)は共通する。要はその事象に対するそれぞれの「態度」(弁別するか包摂するか)の違いであって、どちら側からこれを語るかは「使用言語」によるのではなかろうか。「ことわけ」(言分け・事分け)とはその意で、言語による世界の分節に他ならない。言語は、いわば同一真理・原理への根源的な「態度」を司り、文化を醸成する。ゆえこそ、三善は西欧語と日本語(日本語の複雑さは世界に類がない)の間で取るべき「態度」を「音化」することにその生涯を賭けた。
ここまで来れば、「遠方より無へ」の深甚遠大が見えてこよう。フッサールは時折、「音楽」あるいは「音」それ自体の存在顕現力に言及しているが、こうした嘆息の如き「漏れ」言葉を拾ってゆくと、「あるがまま」の同一地平が現れる。思惟する人(哲人)、あるいは創作家にとって、この世における人間存在(人間のありよう)の彼方・深淵とは、等しく「遠方より無へ」なのだ、と直感されるのではないか。そうしてそれが何より、三善の「音」に現前していることに、粛然とする。
* * *
【我が『ノエシス』の本性】
ようやく、『ノエシス』そのものに来た。
演奏時間は8分と『レオス』より短い。管弦打は4群に分かれ、これにチェレスタ、ハープ、ピアノが加わる。本作に重要な素材としての楽器群は画像で示す。
打楽器にチャンゴ、竹鳴子、貝鳴子、コンチキが入っていることに注目したい。別枠のチェレスタ、ハープ、ピアノも同様。これらは要所要所で絶大な効果を発揮する。
全体は17節に分かれ、(1)~(2)、(3)~(8)、(9)~(14)、(15)~(17) の4部に大別されよう。
Ⅰ:(1)~(2) 冒頭チェロppの保続音の上にハープ、ヴィブラフォンがひとひら舞い、すぐとフルート、クラリネット、チェレスタの幻想が上空に撒かれる。動き出す管弦打群。降ってくる音の煌めきや叫び。ピアノの打ち込みの鮮烈。と、ドドンffの炸裂。
Ⅱ:(3)~(8)そこからすっと身を潜め、貝鳴子、コンチキ(「lontano」の指示あり)が響く。仄溟い深海の揺らぎに多彩な管の透光が射し、高空に鳥が鋭く囀る。あるいは水底からあぶくがあわあわ立ちのぼり(ハープ等)、ふと浮かぶ弦の波。静謐なppp世界に瞑目沈潜……。
と、切り裂くようなダダダダンの衝撃と管の咆哮fff !
ここ(5)~(7)の3節、pppに突如fffが轟くに至る前に置かれたいくつもの「Rit………」が語るものは。初聴であれば仰天するほどの裂け目の凄まじさこそ、おそらく三善が最も意識した時空の「間取り間合い」であったろう。持続とかなんとかでは言い表せない、言ってしまえば世界の裂け目、みたいなもの。それが突然、顔を出す。この3節をどう創るかで、勝負は決まろう。今回の尾高/都響実演は、そこが見事であった。
Ⅲ:(9)~(14)ここからが中盤で三善アレグロ(表記はないが)の打(チャンゴ等)の刻みが走る。
各楽器が類似音型をモザイク状に重ね、弦の重奏を底支えにぐんぐん分厚くなる響き。濁らず、痩せず。ダイナミックな躍動、管弦打音群の爆進クライマックス全群ffff頂点の果て、弦の低声旋律が空(くう)を這いつつ徐々の減衰……。
Ⅳ:(15)~(17) 終景1分ほどの静謐に冒頭チェロの保続音が回帰、末尾、ひそやかな弦ppp「ostinto」(オスティナート)に包まれ竹鳴子が響き、マリンバが風鐸のように鳴り、宙に掻き消える……。
それぞれの楽器群の発語発声、その音色音響の配置と重ね具合、時間設計の精緻、さらに香り立つ余情余白、そのドラマトゥルギーこそが三善の「意識作用」そのもの。各群をタイルのモザイク模様の如く嵌めてゆく手腕の精緻、楽器それぞれの象・時間をいかに縒り綯い一つの音楽的持続・総合体、はたまた三善独自の「美の結晶」となすか。西欧現象学を下敷きに日本の音素材(管打)と「間取り間合い」を仕込む、これが迷いの深みにはまった三善の応答、彼のノエシスであり、作曲家としての美学。
と、まとめるのはいささか安直にすぎよう。実音に接して私が得たのは、ある意味しょうもない「三善は三善」という実感だった。意識作用云々が頭の中でどう飛び交っていようが、とどのつまりそこに現れ出たのは彼の「本質直感」そのもの。そもそも創作にあって、本質直感と意識作用は分かち難い一つの生命体ではないか。フッサール用語引用本人解説に従っての絵解きは、やってみました、的な意味しか持つまい。各楽器の「間取り」や、(5)~(7) に際立つ「裂け目」置き(『レオス』にも顕著)に現れる三善の「間合い」は、対自というより即自(それ自体として在る)。つまるところ楽音に潜在する志向性を瞬時に掴み我が意識作用(働き)へと引っ張り込む、それら「一気の働き」で、その全体を司り統べるのは彼の「本質直感」だ、というのが私の結論。
ここで「間取り間合い」とは、すでに『王孫不帰』(男声合唱、ピアノと2人の打楽器奏者のための)での能の謡採用時における時空間での響きの配列・按配に現れているもの。計測・計量的な西欧書法とは異なるドラマトゥルギーの気息(息遣い)たる三善書法だ。彼は『ノエシス』をわざわざ定量記譜と断っているが、むしろ、「西欧的定量記譜にはしたけれど」との呟きと私には聞こえる。我がノエシスは、我がノエシスの「本性」を、『レオス』(ギリシア語の変形と流動の意)では「生死合一」ドラマとして、『ノエシス』では「ノエシス」ドラマとしてあからさまにしたわけで、同一路線上。三善解説の最後の一句「それは、いつも、そうしていたことなのかもしれないが。」との嘆息漏れは、まさにそれを物語るようだ。
が、本作を「ノエシス」と名付けた三善の意識(意味付与・言語化・連関)は、彼にとって必須の過程であったことは確かだろう。我が裡なる西欧を俎上に上げてこそ、我が裡なる日本が明らめられもしよう。その意味で、本作は「遠方より無へ」の結節的一瞥であり、その後の創作の一つの参照点となった。
ゆえこそ、翌年の童歌「はないちもんめ」を歌う『詩篇』(1979/混声合唱と管弦楽)に跳べた。
* * *
母の死(1974)の前後を振り返ってみる。
おそらく「遠方より無へ」の橋梁は、『王孫不帰』(1970)でぼんやり感触された。この時期の管弦楽作品のみを追うと、『チェロ協奏曲』『レオス』『ノエシス』『アン・ソワ・ロアンタン(遠き我ながらに)』(1982) 『アン・パサン』(1986/ヴァイオリンとオーケストラのための)が並ぶ。『チェロ協奏曲』以降の西欧語タイトル4作は、「遠方より無へ」が示す「志向性」の器楽的音楽化。フランス実存主義の存在の地平を眺め渡す作業、ある意味サルトルの「存在と無」に重ねたものだったと思える。同時に、1995年『夏の散乱』から毎年書かれた交響四部作の下地ともなったのだ。
ちなみに『アン・ソワ・ロアンタン』は20分ほどの作品だが、全体の音景は実に壮大、スリリングだ。
冒頭、打楽器の震える星影月影のごとき澄んだ幻想からうねる低弦へ、響層の綾なす帯状圧に打ち込まれる打音、衝撃音、鐘音、やがての沈思……余韻嫋々世界。中盤の多彩多様から、終景、打の乱舞狂騒、グイグイ押し上げる弦管の大波ののち訪れる静安。なかでも中盤、管弦打楽器の変幻自在、とりわけ三善アクセント強調フレーズ、あるいは刻みと追い立て、要所に響き渡る鐘音が圧倒的で、『レオス』(生死合一)の上に『レクイエム』(死のカオス)をぶちまけたような一大音響ドラマトゥルギー。全33節中冒頭ほか数箇所、深い静寂から次景への歩みに「lontano」が記されている。
一応、三善の自作解説を初演プログラムから適宜拾っておく。「En-soi( 即自、pour-soiは対自 )であることを願いながら、かなえられようもない、しかし、願わないでは生きてゆかれないのがsoi(我)である、の意をlointain (遠き)という形容詞に込めた」。「自ら(みずから)」と「自ずから(おのずから)」の歌を聴き取ること、とも言っており、これが本作の構成要素。「曲はいくつかの proposition(命題)による対流」からできており、proposition が soiで、対流が en-soi。「対流」と言われれば、なるほど、と思うが、私はここに「遠き我」という三善の存在感覚のカオスと幻夢の交錯を見た、とだけ言っておく。
すでに『詩篇』(1979)を世に問い、反戦三部作最後の『響紋』(1984)を控えての本作は、スコアの整然も含め迷いなき筆走ぶり。『響紋』同年には、異様に際立つ合唱作品『田園に死す』があり、2年後に西欧語タイトルセット最後の『アン・パサン』が来る。こちらも初演の言葉を紹介しよう。「En passant」の意は「“通りすぎるもの”のために」。チェスで歩(ポーン)が対手の歩の横を斜めに“通り過ぎながら”殺してしまう手をいうそうだ。曰く、「人と人では、通り過ぎる人は通り過ぎない人に通り過ぎられ、通り過ぎない人は通り過ぎる人を通り過ぎる(中略)――通り過ぎることそのことが、今の私にはとても美しく見える。人の宿命としての En passant、は美の Texture かもしれない」。
曲の原理はチェスの駒の動きに似るとして、譜例があるので参照されたい。演奏時間15分、詳細は省くが、独奏ヴァイオリンの声が終始響き続ける。前作が「対流」であれば、こちらは独奏とオーケストラによる互いの「通過流」とでも言えようか。
「遠き我」「即自対自」「自らと自ずから」「人も時も通り過ぎるものは美しい」。これらから何を受け取り、その音楽から何を受け取るかはそれぞれ。が、一貫してそこに流れているのは、「遠方より無へ」の観想と私は思う。
『チェロ協奏曲』の母なる海からここまで12年、「反戦三部作」と同じ年月であり重なりあうことを思うと、このあたりの三善の足取り、近づき遠のきの歩調の重さ深さには胸迫るものがある。この年月こそが、90年代の「交響四部作」、オペラ『遠い帆』の土台となったのである。
『ノエシス』を含む一連の創作を経て、「裡なる日本」が垣間見える『交響詩 連祷富士』(1988)、『魁響の譜』(1991)が現れる。とりわけ『魁響の譜』の背景にある空海思想は対談集でも語られており、いわば70〜80年代作品が「遠方より無へ」の一つの「弧」とも見えよう(空海については後に触れる)。
90年代「交響四部作」連作、『夏の散乱』(1995)『谺(こだま)つり星』(1996/チェロ協奏曲第2番)『霧の果実』(1997)『焉歌・波摘み』(1998)での『谺(こだま)つり星』の独奏チェロや、『焉歌・波摘み』の子守唄の流れもまた、もう一つの「弧」。
そうしてオペラ『遠い帆』がくる。
が、眼差しを大きく遠くひらくなら、「遠方より無へ」とは、文字通り「〜より〜へ」の志向性そのもの。働きそのもの。虹のように天空に架り、見る場所で見え方も異なり、現れ、消え、また現れ、また消え、の「弧」の無限の連なり、命(生死)と等しく、果てない連鎖、果てない架橋、果てない円環なのだ。
迷いにあって発した三善の真言「遠方より無へ」は、ゆえこそ、彼の生涯そのものにかかる果てなき虹の橋梁であった。
私に今、見えるのは、そんな眺め。
さらに。
En passant ― 人も時も通り過ぎる「そのとき何ごとが起ころうと起こるまいと、そこに何ものが残ろうと残るまいと、通り過ぎることそのことが、今の私にはとても美しく見える。」
私に今、聴こえるのは『遠い帆』の「運命という名の神」に選 ばれた六右衛門のこんな声。
「私たちはできるだけのことをした それが受け容れられようと 受け容れられまいと パーデレ それが何だと言うのか 後のことはあなたの愛の神が考えて下さるでしょう。」(『遠い帆』17.帰路)
* * *
このところ、実存主義だの現象学だの、形而上学に偏ったのは、この時期、三善がそのように「在った」から。
が、そうした抽象論の一方で、彼はその「気息書法」(と今は呼ぼう)あるいは「無空世界」を無論、邦楽器から確実に学びとってもいた。
次回はそこを見よう。
(2026/9/15)
参考資料)
◆書籍
『遠方より無へ』三善晃著 白水社 1979
『存在と無 現象学的存在論の試み』上下 サルトル 松浪信三郎訳 人文書院 1999
『意識と本質 精神的東洋を索めて』井筒俊彦 岩波書店 1983
『イデーンⅠ−Ⅰ』フッサール 渡辺二郎訳 みすず書房 1979
『イデーンⅠ−Ⅱ』フッサール 渡辺二郎訳 みすず書房 1984
『イデーンⅡ―Ⅱ』 同上 立松弘孝・榊原哲也訳 同上 2009
『イデーンⅢ』同上 渡辺二郎・千田義光訳 同上 2009
『フッサール・セレクション』 立松弘孝編 平凡社 2009
『現代の芸術視座を求めて 対話十二章〜三善晃対談集』音楽之友社 1989
『ブッダの言葉』中村元訳 ワイド版岩波文庫7 2007
◆楽譜
『レオス』 全音楽譜出版社 1976 レンタル
『ノエシス』 同上 1978
『アン・ソワ・ロアンタン』同上 レンタル
『アン・パサン』同上
◆CD
『三善晃の音楽』〜管弦楽曲と協奏曲・響きの世界・言葉の世界
カメラータ・トウキョウ CMCD-99036-8 2008
◆YouTube
『レオス』
『ノエシス』
『アン・ソワ・ロアンタン』

