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新国立劇場オペラ『エレクトラ』(リヒャルト・シュトラウス作曲)|内野 儀

〈完結〉させないこと――新国立劇場《エレクトラ》とヨハネス・エラートの演出 |内野 儀
Not the Completion: New National Theatre’s Electra and Johhnes Johannes Erath’s Direction

2026年新国立劇場 オペラパレス
Opera Palace, New National Theatre
2026年7月2日、12日
2026/7/2, 7/12
Reviewed by 内野 儀(UCHINO Tadashi)
Photos by 堀田力丸 提供:新国立劇場

〈演奏・スタッフ〉
指揮:大野和士
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
合唱:新国立劇場合唱団
演出:ヨハネス・エラート
美術:ハイケ・シェーレ
衣裳:ノエル・ブランパン
照明:オラフ・フレーゼ
映像:ビビ・アベル

〈キャスト〉
クリテムネストラ:藤村実穂子
エレクトラ:アイレ・アッソーニ
クリソテミス:ヘドヴィグ・ハウゲルド
エギスト:工藤和真
オレスト:エギルス・シリンス
オレストの養育者:斉木健詞
クリテムネストラの腹心の侍女:中村真紀
クリテムネストラの裳裾持ちの女:杉山由紀
若い下僕:糸賀修平
年老いた下僕:河野鉄平
監視の女:森谷真理
第1の下女:金子美香
第2の下女:谷口睦美
第3の下女:清水華澄
第4の下女:髙橋絵理
第5の下女:田崎尚美Pho指揮:大野和士

 

新国立劇場が22年ぶりに《エレクトラ》を新制作した(2026年6月29日〜7月12日、全5回)。指揮は芸術監督・大野和士、演奏は東京フィルハーモニー交響楽団。演出は当劇場初登場のヨハネス・エラートである。ウィーン・フォルクスオーパーなどでヴァイオリン奏者を務め、ヴィリー・デッカーらの助手を経て演出に転じたという経歴をもつ。2012年にはオーストリア・グラーツ歌劇場で《エレクトラ》を演出し、王宮を精神病院へ置き換えた。今回の新制作はその再演ではない。だが、ホフマンスタールのテクストと親近性の強い精神分析的なアプローチへの関心は引き継がれ、19世紀末のユーゲントシュティールを思わせる館が、エレクトラの内的世界そのもののように構成されている。

この上演について本稿が注目するのは、「劇(ナラティヴ)を〈完結〉させない」という演出的選択である。ホフマンスタールの台本では、エレクトラは復讐の成就とともに、踊りの果てに〈くずおれる〉ことになっているが、この舞台では、〈くずおれる〉ことはない。アトレウス家の復讐の連鎖が断たれたのか、なお続くのかも、最後まで決定されない。何かは起こったが、何も終わってはいない――そのような終幕だったのである。

この〈非完結性〉は、単なる多義性の肯定ではない。舞台全体の構成によって、いわば〈演出の主張〉として提示される。中心にあるのは、舞台外の〈現実〉を明示しないことと、上下二層を隔てた人物たちの〈越境〉の運動である。前者は人物の出入りを決定的な出来事にせず、後者はある種の接触を成立させながら、同時に隔たりの感触を残すことになる。そして、終幕における劇の〈非完結性〉は、この二つの〈仕組み〉の積み重ねの上に置かれていることになる。

開演のかなり前から、客席には心臓の鼓動に似た音が脈打って聞こえる。紗幕の向こうには黒衣の女がうずくまり、時折身じろぐ。音楽が始まる瞬間、奥の壁面から、中折れ帽とフロックコート姿の男の輪郭に切り抜かれたパネルが前へ倒れ、壁にはその形の穴が残る。以後、下女たちは父アガメムノンの輪郭であるこの開口部から顔を出し、黒衣の女、即ちエレクトラを観察することになる。

このように、この家で他者を見る行為は、まず父の〈欠如〉に縁取られている。この枠が暗示するように、以下の105分は、客観的な王宮の出来事というより、エレクトラの内的世界として上演される。ただし、エラートは「すべてはエレクトラの妄想だ」と明示することで〈出来事性〉を無効化するわけではない。メタ的な枠は緩やかに維持されるので、いったん感知されると観客の意識からそれが消えることはない一方で、エレクトラの〈主観的世界〉であるとしても、その内部で起こる出来事の〈現実性〉までは取り消さないよう、ある種のバランスが保たれるのである。

上下二層に分かれた舞台空間の中央奥にはスクリーンを兼ねた壁面があり、その手前の主舞台的な中央部を包囲する高くなった回廊のうち左右の側廊には、白いカーテンが下がり、時おり波打ち、下手に一つ、上手に二つ、計三つのブランコがある。中央部の頭上にはシャンデリアが吊られ、床すれすれまで降下することもある。また、場面によって、三面鏡を模した装置、白いテーブル、寝椅子などがこの空間に置かれることになる。テディベアや人形、旧式のピンク電話などの小道具も場面によって配される。

エラートは稽古初日、「舞台上には本物のドアは存在しません。人々は登場したり退場したりするのではなく、どこかにずっと存在している」と語ったという(1)。「ドアがない」とは、エレクトラの内的世界にとって、舞台外へ通じる出入口が「外部」として機能しないということである。窓があって風がそよぐ物理的〈外〉があることは、白いカーテンが揺れることで示唆されはするが、それ以上でも以下でもない。他の人物が見えなくなっても、それはエレクトラの世界からの完全な退去にはならない。そもそも、この家で明確な開口部として示されるのは、冒頭で穿たれた父の形の穴だけである。

この外部の〈不在〉を支えるのが、登場と退場の扱いである。クリソテミスもクリテムネストラも、台本上の登場よりずっと早くから舞台にいる。エレクトラに至っては、指揮者より先に舞台上にいることは、すでに見たとおりである。エギストも本来の出番より早く夕食の席に着く。台本どおりの時点に到着する主要人物は、オレストだけなのだ。前倒しは登場から〈出来事性〉を奪い、退場にも演劇的な強調を与えない。出入りを平板にならすのは、舞台外に別の現実空間を立ち上げないための操作だという解釈が成り立つわけである。

《エレクトラ》では、一人が長く歌い、他者がそれを聴く場面がかなりの部分を占める。しかもシュトラウス自身は、激昂する音楽との対照として、演者の動きを最大限の単純さへ抑えるべきだと考えていたという。荒れ狂うのはオーケストラだけでよい、というのだ (2)

エラートは、この原則を場面によっては反転させてみせる。音楽にすでに書き込まれた劇へ、なお視覚的な〈声部〉を加えるのである。随所で、歌っていない人物の身体に、心理的な意味を担う動きが与えられる。たとえばエレクトラの長い歌唱の傍らで、クリソテミスは歩く。あるいは、エレクトラとクリテムネストラの〈対決〉は、三面鏡を模した装置を挟んで、主として舞台奥と手前の縦の線上で展開し、エレクトラとクリテムネストラが鏡像関係にあることを、視覚的に示し続ける。このように、エラート演出は、歌っていない時間の身体までを、独立した解釈の層として組織するのである。

台本にある若い下僕、年老いた下僕、オレストの養育者は、白塗りの道化たちとなり、本来登場しない場面にも存在し、時に黒子のようにも振る舞う。ブランコに乗る人物たちは、客席に横顔だけを見せて漕ぐ。背後のスクリーンには、波打ち際の映像や月の静止画なども流れつづける。ことほどさように、音楽に対して視覚が過剰になる危うさを、エラートはあえて引き受けるのである。視覚的な運動を絶やさないことは、内的世界を舞台上に持続させ、外部や決着を安易に立ち上げないための代償ともなる。

二つの空間的次元の分節が最も雄弁なのは、認知の場面である。ここでは、下段はエレクトラが身を置く現実に、上段は父や、当初は手の届かないオレストの領域に、おおむね対応している。僧形のオレストは、紗幕の向こう、上段の回廊に現れる。認知の瞬間、紗幕が走り去り、舞台は目の眩むような白い光に照らされる。

照明の転換と音楽の転換は、ここで正確に同期するが(3)、この頂点は別の角度から見ることもできる。視覚的な衝撃は、俳優の身体より、紗幕・映像・照明の転換に大きく依存しているからである。そのうえ、音楽が変イ長調の抒情へ転じるまさにそのときに、エレクトラが愛の言葉を注ぐ相手は、上段を動くオレスト本人ではなく、白塗りの道化である。オレストの現前は、まず別の像へとずらされている。それでも二人は最後に触れることにはなる。オレストが上段から身を伸ばし、下段のエレクトラに触れるのである。〈他者=外部の到来〉は、出入りとしてではなく、二つの次元の越境と接触として処理されている。

エレクトラの周囲の人物は、しばしば人形や代理像の側へ寄せられている。愛の言葉を受けとめた道化は、オレストが奥へ向かうと同時に、操り糸の切れた人形のように脱力する。残る道化たちも終盤、人形を抱えたまま二層の境の壁に凭れて動かない。オレストの死という虚報を確かめ合う場面でも、姉妹は向き合わず、あいだには旧式のピンク電話が使われる。この世界では、他者の現前は像や人形へ縮減され、言葉さえ対面ではなく装置を経由することが多々あるのだ。要するに、エレクトラの内的世界において、他者と直接出会うことの困難さが、執拗に反復されるのである

この視覚の密度を支えたのは、むろん歌手である。エレクトラ役のアイレ・アッソーニは、荒々しい身体運動のなかでも声の芯を失わず、父を回想する箇所と認知の場面では、硬質な声に柔らかな光を差し込ませた。藤村実穂子=クリテムネストラは、過剰な身振りに頼らず、沈鬱な声色と語の輪郭で母の恐怖と威厳を両立させる。ヘドヴィグ・ハウゲルドの明るく前へ出る声は、〈家庭〉を求めるクリソテミスの生への欲望を担い、絶え間ない身体運動にも柔軟に対応した。エギルス・シリンスのオレストは、太い声と静かな存在感を備えていて、演出はその英雄性を強調せず、姉との隔たりを保つ〈他者〉として位置づけていた。

大野和士と東京フィルは、多くの記名評では高く評価されている。もっとも、その評価はおおむね、難曲を手際よく捌いたという一点に集まっているようだ(4) 。私には、大野の設計の中心は、本作の特徴とされる大編成オーケストラの〈音の爆発〉そのものより、声を覆わない均衡と和声の明晰さにあったように思えた。作品は本来、三群のヴァイオリン、三群のヴィオラ、二群のチェロを含む巨大な弦楽と管楽器の編成を要求する。だが大野は、新国立劇場のピットで音を飽和させるより、各声部の輪郭を残す道を選んだように聞こえたのである。

さて、幕切れである。それまでの演出上の工夫は、ここに収斂する。まず、衣裳である。最後の二重唱へ向かうエレクトラは、「あの調べこそわが躰から あふれでたもの」(5) と歌うとき、フロックコートと中折れ帽――開幕とともに壁から倒れた父の像と同型であり、オレストに着せられた継承の衣裳――を身にまとっている。そして海を語る一節へ移るところで、それを自ら脱いでしまう。

父の衣裳をまとうとき、エレクトラは父との同一化、いいかえれば復讐者=父の継承者としての自己の完成に、最も近づく。だが、それを自らの手で脱ぐのである。着ないことと、着てから脱ぐことは違う。継承者になる可能性をいったん身に帯び、そのうえで手放すからこそ、その〈完成〉は宙づりのまま留め置かれるのである。

脱がれた衣裳には続きがある。姉妹の二重唱に入ると、道化が歩み出て、この黒い衣裳と、それまでクリソテミスが抱えていた純白の花嫁衣裳とを回収する。そして他の道化たちとともに、衣裳を手にしたまま眠りについてしまうのだ。

父と結びつく黒い衣裳と、結婚を示す白い衣裳。姉妹に用意されていた二つの役割――父の継承者と花嫁――が、当人たちの手を離れ、道化に抱え込まれて眠る。このとき、背後のスクリーンに映るもう一人のエレクトラもまた、帽子と斧を手放している。舞台上の身体と映像の分身は、ほぼ同じ瞬間に、継承と復讐の道具から手を離すのである。

そこに、殺されたはずのクリテムネストラが、椅子に座ったまま舞台を水平に横切る。死者が舞台から完全には排除されないことも、「劇(ナラティヴ)」の〈完結〉を拒む一つの身振りである。続いて、エレクトラは、奥の上段へ歩き出す。認知の場面では、オレストが上段から身を伸ばして下段の姉に触れた。ここで下段から上段へ越えていくのは、エレクトラのほうである。舞台奥にはアガメムノンと同じ装いの人物たちが立ち、そのさらに奥には、巨大なあの父の人型が浮かぶ。等身大の複製の群と、〈欠如〉の像。この越境の先に待つのは、触れることはできないが、その〈向こう〉=外部があるかもしれない、父の〈穴〉だけである。エレクトラはそこに向かって歩き、最後に客席へ向き直り、かすかに頷いた――ように見えた。終止の二撃とともに。

ここまで来て終幕から遡ると、随所の視覚的な補筆が何のために働いていたかが理解できるようになる。歌わない身体を動かし、出入りをならし、背後に映像を流しつづけること――それらは、舞台に明確な外部をつくらず、劇を一つの決着へ回収しないための手立てだったのではないか。ただし、静止と沈黙が直ちに〈完結〉を意味するわけではない。ここでは静止も沈黙も、決着の身振りではなく、次の行為を欠いた宙づりとして用いられる。クリソテミスがその例である。大役を歌い切り、歌わない時間にも歩き、ブランコを漕いできたクリソテミスは、幕切れの宛先なき叫びのあと、何も与えられず、ただ見ているだけである。

そしてエレクトラは、せり上がった壁の前で父の群像に背を向け、客席へ顔を返す。105分にわたり声で劇場を占有してきた女に、最後に残されるのは、声を伴わない一瞥である。ホフマンスタールの台本が記す最後の身体は、踊りの果ての崩落である。エラートのエレクトラは、〈くずおれる〉ことはない。

〈くずおれる〉――それは台本において、死ではない。ト書きはそのあと「横たわったまま動かない」と記すだけで、エレクトラが死んだとは書かれていないのである(6)。それでも〈くずおれる〉は、復讐に生を費やし、その成就とともに力尽きる女という輪郭を与えるだろう。世紀末文化が繰り返し描いた〈過剰な女〉の、最も劇的な変奏の一つだったのである。生きているのか死んでいるのかが決まらないままでも、その身体はもう何も引き受けない。劇はそこで閉じることができる。エラートが取り除いたのは、この意味確定=〈完結性〉の装置なのである。

では、〈くずおれる〉ことがないことを通じて、演出家は何を言おうとしているのか。二つの分かりやすい答えは、どちらも十分ではないと思われる。一つは、「復讐の連鎖は終わらない」という読みである。もちろん、そう読むことはできる。だがそれだけでは、この舞台は誰もが知る命題の、ありふれた例解へと矮小化されてしまう。もう一つは、「犠牲者だから死なせない」という読みだ。「犠牲者は生き延びるべきだ」と結末を教訓化すれば、今度は救済の常套に落ちる。しかも「死なない強い女」という像は、〈過剰な女〉の類型を裏返しただけで、別の固定的な意味へエレクトラを閉じ込めかねない。

この演出の賭け金は、そのどちらでもない。〈くずおれる〉を外すのは、別の意味を代入するためではなく、意味が自動的に回収されるのを止めるためである。父の衣裳を着ては脱ぎ、母の殺害が成就しても勝者には確定されず、上段へ越えても触れる相手を失う――完成はことごとく一歩手前で留められる。そのぶん、生だけが終わらずに続いてしまう。続いてしまう生は、しかし何者かへと確定しない。復讐者か、犠牲者か、父の継承者か、その支配を離れる者か。〈くずおれる〉が与えていたはずの答えを、この舞台は最後まで与えないのだ。〈妄想〉の枠をあえて緩やかに張ったのも、そのためだったのだろう。これはただの〈妄想〉だと括ってしまえば、劇はそこで閉じる。括らないからこそ、宙づりは客席の側へこぼれ出すのである。

エレクトラが何に、あるいは誰に向かって振り返ったのかは、ついに定まらない。その問いを引き受ける場所に、観客はあの一瞥によって残されてしまうだけなのである。開演前に鳴っていた心音は、最後まで戻ってこなかった。

(2026/8/15) 

 

 

(1)「人間の罪と愛を描く――新国立劇場《エレクトラ》の世界を演出家ヨハネス・エラートが語る」、「ぶらあぼONLINE」、2026616日(稽古場レポート)、https://ebravo.jp/archives/211171。エラートの発言の引用は同記事による。 

(2)シュトラウス自身、晩年の随想「私のオペラの初演の思い出」(1942)で、「昂ぶった音楽とは対照的に演者の演技は最大限の単純さに限定されるべきであり(中略)舞台とピットで同時に荒れ狂うのは過剰で、それにはオーケストラだけで足りる」と記している。Richard Strauss, “Erinnerungen an die ersten Aufführungen meiner Opern,” in: ders., Betrachtungen und Erinnerungenhrsg. von Willi Schuh, Zürich: Atlantis, 1949. 引用は Malte Krasting, “Richard Strauss’ Elektra: The sound of crime and retribution,” Berliner Philharmoniker からの孫引きによる(翻訳は引用者、https://www.berliner-philharmoniker.de/en/stories/richard-strauss-elektra/)。 

(3)山崎浩太郎「新国立劇場オペラ『エレクトラ』 演出と管弦楽が有機的につながる」日本経済新聞電子版、2026716日。山崎は、エレクトラがオレストを認める瞬間の暗転と白い照明、管弦楽が《ばらの騎士》を思わせる甘美へ転じる一瞬を、演出と音楽の連動の頂点として記述している。 

(4)大野と東京フィルをめぐっては、Yukiko Kishinamiは、シュトラウスのオペラのなかでも指折りの強大で轟然たる響きを要求する作品を、東京フィルがよく捌いたと述べ、終盤のワーグナー的な展開の出来を称える。Mika Inouchiは、やや速めのテンポ、声部の均衡、スペクタクルより感情の陰影を聴き取っている。深瀬満は、複雑なスコアを手際よく処理して引き出した熱いドラマを評価の中心に置いている。前掲の山崎評は、演出と管弦楽の連動をこそ頂点に挙げている。いずれも演奏を高く評価しており、賛否が分かれているわけではない。(Yukiko Kishinami, “A hole in the heart: Johannes Erath’s new Elektra grips Tokyo,” Bachtrack, 30 June 2026 ( https://bachtrack.com/de_DE/review-elektra-erath-ono-asszonyi-new-national-theatre-tokyo-june-2026)
; Mika Inouchi, “Johannes Erath firma una ‘Elektra’ intimista en el NNTT,” Ópera Actual, 3 July 2026 (https://www.operaactual.com/critica/johannes-erath-firma-una-elektra-intimista-en-el-nntt/); 深瀬満「速リポ 新国立劇場2025/2026シーズン リヒャルト・シュトラウス『エレクトラ』(新制作)」、「毎日クラシックナビ」、2026年6月30日、https://classicnavi.jp/newsflash/post-43146/)。

(5) リブレットからの引用は広瀬大介訳・著の『オペラ対訳×分析ハンドブック リヒャルト・シュトラウス 楽劇 エレクトラ』アルテスパブリッシング、2023による。以下同様。

(6)ト書きは「くずおれる」、続けて「横たわったまま動かない」と記すのみである。ただしホフマンスタール自身は、戯曲成立をめぐる日記で、最後の一撃とともにエレクトラの生が流れ出るさまを、女王に受精させた雄蜂が刺針とともに内臓と生命を失う姿に譬えており、結末を死として構想していたという。(Sara E. Jackson, “Night of the Living Dead: Electra,1903, https://www.stagingdecadence.com/blog/elektra-1903 からの孫引き。Jacksonの書誌では、以下の通り:Hugo von Hofmannsthal, Sämtliche WerkeKritische Ausgabe, Bd. 7: Dramen 5, hrsg. von Klaus E. Bohnenkamp und Mathias Mayer, Frankfurt a.M.: S. Fischer, 1997, 309-400)。 山形治江の公演プログラム・エッセイ(「エレクトラ劇の変貌」~ギリシャ悲劇からホフマンスタール劇へ~)によれば、1903年の舞台版初演時の劇評も、多くはこれを死として受け取っていたという。なお、山形はまた、オペラにおいて、エレクトラが〈くずおれる〉ことがない演出けっして珍しくないことも指摘している。

CREATIVE TEAM

Conductor: ONO Kazushi
Production: Johannes ERATH
Set Design: Heike SCHEELE
Costume Design: Noëlle BLANCPAIN
Lighting Design: Olaf FREESE
Video Design: Bibi ABEL

CAST

Klytämnestra: FUJIMURA Mihoko
Elektra: Aile ASSZONYI
Chrysothemis: Hedvig HAUGERUD
Aegisth: KUDO Kazuma
Orest: Egils SILINS
Der Pfleger des Orest: SAIKI KenjiDie Vertraute: NAKAMURA Maki
Die Schleppträgerin: SUGIYAMA Yuki
Ein junger Diener: ITOGA Shuhei
Ein alter Diener: KONO Teppei
Die Aufseherin: MORIYA Mari
Erste Magd: KANEKO Mika
Zweite Magd: TANIGUCHI Mutsumi
Dritte Magd: SHIMIZU Kasumi
Vierte Magd: TAKAHASHI Eri
Fünfte Magd: TASAKI Naomi

Chorus: New National Theatre Chorus
Orchestra: Tokyo Philharmonic