プロムナード|アメリカからドイツへ―わたしの〈音楽的〉経歴について |内野 儀
アメリカからドイツへ―私の〈音楽的〉経歴について
Text by 内野 儀 (UCHINO, Tadashi)
本誌のメンバーに加わらせていただいて半年以上が過ぎたが、「こいつはだれだ?」と思われている読者の方もおられるのではないか、と思い、プロムナードのコーナーで、自己紹介的な文章を書かせていただくことにした。
私の専門は日米現代演劇とか表象文化論とか書くことが多い。後者は、東京大学駒場キャンパスにできた学部と大学院にある学科・コースの名称(教養学部と大学院総合文化研究科)で、その分野の学会(表象文化論学会)が発足して20年という比較的新興の学問分野である。
経歴的には、さまざまな事情が重なって、大学院では人文科学研究科の英文学専攻というところにいて、修士論文は米国の劇作家ユージン・オニールを扱った。当時、英語教員であれば、修士だけでも大学の専任職があったので、指導教員に、修士論文がちゃんとした長い研究論文のもしかしたら最後になるのだから―今から思えば実に牧歌的な時代だった―2年で書けるなどと思うなとか言われ、修士課程を3年かけて修了後、そのまま岡山大学に英語教員として赴任した。1984年だから、40年以上前の話である。
高校時代まで楽器を演奏していたので、ほんとうは、大学でも文学部の美学芸術学に進んで音楽の勉強をしたかったのだが、父親から「好きなことは職業にしないほうがよい」というわかったようなわからないようなアドバイスをもらい、英文科に進んだために、なんとなくそっちの方向で、人生の道筋が決まっていった。
広島市で小学二年生から高校卒業までを過ごしたのだが、コンサートに行く習慣はなかった。たまたま同級生の父親が広島(市民)交響楽団の指揮者(井上一清氏)だったので、アマチュアからプロへ、というプロセスにあった同交響楽団の演奏会に数回行ったか行かなかったか。典型的な《クラシック少年》だったので、レコードは買い集めて、FMラジオのエアチェックもたくさんしていた。オーディオ機器にも凝っていた。
高校2年のとき、奨学金をいただいてアメリカ合衆国のロードアイランド州バーリントンに1年間のホームステイ留学をした(1974~75年)。「白人しか」いない典型的なニューイングランドの町だったが、ボストンに近いので、ボストン交響楽団の定期演奏会が州都プロビデンスで開かれるときに、ホストファミリーとでかけていったりした。ちょうど73年に、小澤征爾がボストン交響楽団の音楽監督になったところで、小澤さんの指揮による演奏会があり、ラヴェルの曲集のLPレコードジャケットを持参して、休憩時間に楽屋におしかけ、小澤さんにそのジャケットにサインしてもらったことがある。アメリカといえども東海岸でもあり、まだそれほど日本人が多くなかったこともあり、「君もここでがんばりなさい。ぼくもがんばるから」とかなんとか激励された記憶がある。
1977年の大学受験時には試験終了後、ちょうどカール・ベーム指揮ウィーン・フィルの演奏会が東京であったので、大金をはたいてNHKホールに聴きに行った。とはいえ、実際入学してからは、大してお金はなかったので、ライブのコンサートには行けなかった。大学オケでクラリネットを演奏していたが、才能もないし、予想外の体育会体質にたえかね、二年でやめてしまった。それでも、別の所属サークル―ESS(English Speaking Society)―の後輩から、NHK交響楽団の定期会員席枠を譲られたので―当時は、やめないかぎり、年度をまたいでも、同じ席で、定期演奏会の特定のシリーズ全てに行けたと思う―、それなりに通っていた。月一回だと思うが、何を聞いたかあまり覚えていない。
クラシック音楽への「ミーハーな思い」は、岡山大学就職(1984年)後もつづく。1986年に奨学金をもらってニューヨーク大学の大学院に通っていたときは、授業がきつくて、ほんとうにたまに、コンサートに行く程度だった。それでも、レナード・バーンスタイン:ニューヨーク・フィルのCDになっているマーラーの《復活》を聞いたことはよく覚えている。それだけでなく、1年住んでいたので、クラウス・テンシュテットやジュゼッペ・シノーポリ/ニューヨーク・フィルやゲオルク・ショルティ/シカゴ響のマーラーもあった。当時、マーラー演奏が、それまでのマニアック/コアなファン向けではなくミーハーというか一般受けする時代になりつつあったのだと思う。いずれにせよ、当時から、室内楽やソロの演奏会でもオペラでもなく、オーケストラのコンサートばかり行っていて、今もその傾向は変わらない。
岡山大学での勤務の都合もあり、ニューヨーク大学では学位を取ることもなく、1年で帰国した。岡山には、当時、プロのオーケストラはなかったと思うが、演劇鑑賞会のメンバーになって、主として新劇を見ていた。圧倒的な時差ボケというかアナクロニスムだった。学部時代には、大学キャンパスで野田秀樹が夢の遊眠社を率いて人気を博すのを横目で見ていたが、大学院に入るなり、今度はベケットとシェイクスピアの専門家である高橋康也先生に紹介されて、世界的な演出家・鈴木忠志の通訳の仕事をすることになり、いわゆるアングラ演劇に親しむことになった。その後、今度は岡山で、新劇である。小劇場→アングラ→新劇と、時代を逆行する演劇体験をしていたことになる。
岡山大学勤務の時代で、音楽関係で印象に残っているのは、ジュゼッペ・シノーポリ/フィルハーモニア管がマーラーの全曲演奏会をやったとき、大阪まで《千人の交響曲》を聴きに行ったことくらいだろうか。当時の同僚にはドイツ音楽が専門の三宅新三先生がいて、ドイツの歌劇場の《指環》引っ越し公演に大枚をはたいて東京まで聴きに行かれていたが、私はそこまではちょっと、という感じだった。
東京の大学に移ってからも、音楽をめぐる状況はあまり変わらず、劇評を雑誌メディアに書いたり、同人誌のたちあげに加わったりして、いわば本格的に演劇批評を開始し、同時に、学会発表をしたり、研究論文も多少なりとも書いていた。
その後、東大教養学部に移る(1992~2017年)が、アイデンティティとしては、アメリカ演劇の研究者で英語の教員で、演劇批評もやる人だった。1997年から1年間、再び奨学金をいただけたので、客員研究員としてニューヨーク大学大学院に通った。私の専門的には、パフォーマンス研究という新しい学問分野で、86年のときも97年も、その専攻に所属した。今回は研究員であったので、前回のような院生としての単位取得のプレッシャーもなく、日本に比べて格安だったオペラとコンサートにけっこう出かけた。クラウディオ・アバド:ウィーン・フィルが、マウリツィオ・ポリーニを独奏者として、ベートーヴェンの全交響曲と全ピアノ協奏曲を演奏するというシリーズのために、カーネギーホールに通ったことが、強烈な印象として、今も残っている。
演劇関係で、旧東ドイツの劇作家ハイナー・ミュラーが演出をしたバイロイトの《トリスタンとイゾルデ》はそれ以前の1995年に見る機会を得ていたが、その頃からドイツに行くことが徐々にではあるものの、増えはじめていた。ただしそれは、演劇批評活動の延長線上だった。いわゆる「演出家の時代」にあった当時のドイツでは、その後、《指環》の演出をバイロイトですることになるフランク・カストルフ率いるベルリンのフォルクスビューネ等々、現代演劇が輝いていたからだ。東西統一の複雑な余韻がまだ残っていた時代だった。
アメリカが本来のフィールドでブロードウェイやオフ(オフ)ブロードウェイの劇場に通う必要があったが、二度目の米国留学からの帰国後は、アメリカに行く回数が徐々に減っていき、ドイツだけでなく、米国以外のオセアニアやアジアの諸国に行く機会が増えていった。日本の現代演劇について英語で論文を書く機会が増えていて、招聘講演を依頼されることも多くなった。通訳不要で英語で最初から話す私のような存在が費用対効果を考えても、とても「便利」だったのだと思う。
そうこうするうちに、ベルリン自由大学で、演劇学者のエリカ=フィッシャー・リヒテが中心となった演劇学の研究所がたちあがり―期限付きではあるが―フェローとして給与も出て、英語ができればよいといううってつけの条件だったので、2015年8月、ベルリンに住むことにした(8月だったので、バイロイトでカストルフ演出の《指環》を見ることができた)。ただし、本務校の大型プロジェクトにかかわっていたため、本来ドイツに1年いられたはずだったが、半年強で帰国を強いられた。当時、ベルリンの代表的な公共劇場は、観光資源ということもあり、英語字幕を出すようになっていて、まずは劇場に通った。時間があるときには、ベルリン・フィルや州立歌劇場にも行った。
帰国後すぐの2017年に、東大から学習院女子大学(現在は学習院大学に統合)に公募で移った。私学では、国立大学(法人)的な「滅私奉公」の精神が全く必要ないことにカルチャーショックを受け、サバティカルが3年在籍しただけで取れるということにも驚いた。東大でもサバティカルはかろうじて確保されるようになっていたが、特に研究費のような予算が付くわけでもなく、ただ単に授業をしないでいい、というだけだったが、学習院女子大では研究費が受給できて、在外研究ができることにまだなっていた。
ベルリンかニューヨークか相当悩み、半年ずつとも考えたが、年齢的なことや米国の法外なインフレ状況があり、2023年、ベルリンで1年在外研究をすることに決めた。上記の研究所はすでに活動を休止していたが、ベルリン自由大学の演劇系の大学院に客員研究員として採用してもらった。とはいえ、かなり自由度が高かったので、滞在中は、オペラとコンサートを主に見て・聞いて回り、あいだに劇場に行くという前回とは逆転した生活を送った。2023年4月から2024年3月まで滞在し、オペラはたぶん60本くらいは見たと思う。
遙か昔に、上述の《トリスタンとイゾルデ》について「テアトロ」という演劇雑誌に劇評を書き、京都造形芸術大学(現、京都芸術大学)発行の「舞台芸術」の時評で、新国立劇場のキース・ウォーナー演出の《指環》について触れたことはあったが、それ以外で、音楽会評・オペラ評を書いたことはまったくなかった。ベルリン滞在時に、州立歌劇場からの要請で記事を書けといわれ、「artscape」というネットメディアにオペラについて書いたのが、たぶん真正面から音楽について書いた文章としては初めてだったはずだ(https://artscape.jp/article/9492/)。
そういうわけで、演奏会/オペラ公演評の作法をほぼ理解していないにもかかわらず、本誌執筆者のメンバーに迎えていただけたのは、大変にありがたいことだった。楽譜はもちろん読めるのだが、専門的に音楽学をおさめたわけではないので、いろいろと見当違いの評価をすることだろうと思う。長い目で見守っていただければ幸いである。
(2026/8/15)