ウクライナへの祈り〜ウドヴィチェンコ・ヴァイオリン・リサイタル|能登原由美
ウクライナへの祈り〜ウドヴィチェンコ・ヴァイオリン・リサイタル|能登原由美 
Text and Photos by 能登原由美(Yumi Notohara)(1)
ウクライナ出身のヴァイオリニスト、ドミトロ・ウドヴィチェンコのリサイタルが、7月5日に広島で行われた。2023年のモントリオール国際音楽コンクール優勝に続き、翌年のエリザベート王妃国際コンクールでも第1位となるなど、数々のコンクールで最高位やそれに次ぐ賞を獲得した世界が注目する若手だ。日本でもすでに何度か公演を行い、高い評価を受けていた。広島での演奏会はこれが初めてというわけではないが(2)、日本のオーケストラとの初共演(3)で来日した今回、その合間を縫って再び同地で奏でることが急遽決まったとのことであった。
私が演奏会の情報を知ったのは、そのわずか1週間前のこと。友人が送ってくれた現地の新聞記事には、ウクライナ生まれの新進気鋭の奏者が、「激しい攻撃にさらされる故郷と広島への祈りを重ね、無伴奏の名曲を奏でる」とあった(4)。文末には、彼が貸与を受けているストラディヴァリウスの名器「ハギンス」とともに、「被爆ヴァイオリン」も使用すると書かれている。戦前から戦時中にかけて、広島の学校でヴァイオリンを教えたことで知られるロシア人奏者、セルゲイ・パルチコフが残した楽器である。ちょうどその日は別の仕事で現地にいる予定であったため、即座に行くことを決めた。
会場となった日本福音ルーテル広島教会は、市中心部の東に位置する。すぐ近くには京橋川が流れ、その対岸には比治山が鎮座する。戦前には陸軍の船舶砲兵団の司令部などが置かれ、また地元の人にもあまり知られていない陸軍墓地が一角を占める山だ。原爆投下の4年後にはアメリカの原爆傷害調査委員会(ABCC)が設置されたことでも知られる(5)。とはいえ、私が子供時代に聞かされていたのは、この山のお陰でその向こう側に広がる段原地区が原爆の熱線や爆風から守られたという話だけであった。加害と被害、戦争の両極面を抱えた広島の象徴的な場所ということを知ったのは、ずいぶん後になってからのことである。戦後50年近くが経つ頃、山を突き抜けるトンネルが建設され、終戦前の姿を留めていた段原の街も交通の利便性が高まったことで一挙に開発されたため、今ではその歴史を伝えるのは、山のあちこちに点在する遺構や慰霊碑だけとなった。
そのトンネルへと通じる大通り沿いに教会はあった。ここを訪れるのは初めてだ。そもそも、ここで時折音楽会が開かれていたことも全く知らなかった。もちろんコンサートホールではないのだから、こうした活動についてあまり知られていないとしても当然だろう。実際、今回の公演についても告知の時間が十分でなかったためばかりか、この施設自体があまり知られていなかったことも一因だろう、座席の半数ぐらいしか埋まっていなかった。けれども、祭壇に掲げられた十字架を背に演奏するウドヴィチェンコの姿を見ていると、比治山近くのこの教会で音楽を奏でること自体に大きな意味があるのだと思えた。
最初の2曲はいずれも無伴奏作品。バッハの《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番ハ長調BWV 1005》と、イザイの《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番 Op. 27, No. 3》(当初は第1番を予定していたが変更となった)。「ハギンス」の伸びやかな響きもさることながら、その指先、弓先を通じて丁寧に紡がれる音に、弾き手の誠実な人柄が現れている。が、イザイでは情動の激しい揺れを前面に押し出し、別の一面を見るようでもあった。ただ、いずれの作品においても常に中心部に向かっていくがごとく、圧倒的な求心力がある。それにより、こちらも内へ内へと意識が惹きつけられていく。これはおそらく奏者の根本にある感性、あるいは本性のようなものかもしれない。
当初の予定では、これらにシュニトケの作品を加えた「無伴奏ヴァイオリン・リサイタル」となるはずであったが、シュニトケの代わりにコルンゴルトによる《ヴァイオリン協奏曲ニ長調 Op. 35》(ピアノ伴奏版)がプログラミングされ、東京から急遽ピアニスト(川村紀子)が招かれたことが開演前に伝えられた。合わせる時間もほとんどなかったとのことだが、危うさを感じさせないアンサンブルには感嘆した。もっとも、教会に設置された小型のグランド・ピアノが相手であるだけに、ウドヴィチェンコは多少セーブしているようにも見えた。オーケストラとの共演であれば、もっと大きな語り口を見せていたかもしれない。
私が注目していたヴァイオリンはアンコールで登場した。ウドヴィチェンコは演奏前に簡単に英語でその楽器について紹介し演奏に臨んだ。曲目は再びバッハの「無伴奏ソナタ」から(6)。生でこの楽器の音を聴くのは初めてであったが、思っていたよりもはるかに艶やかで、彼の豊かな表現力を支えるのにそれほど難があるとは思えなかった。もちろん、弾き手がその楽器の可能性を押し広げていたというべきかもしれないが。
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終演後、主催者の計らいにより、楽屋で彼から少しだけ話を聞くことができた。「原爆を乗り越えた楽器であると同時に、自分の故国(homeland)と関わりをもつヴァイオリンを弾くことに共感を覚えます」。突然のインタビューの申し込みに快く応じてくれた27歳の若者は、演目の変更についてはあくまでテクニカルな問題だとしながらも、原爆を受けたこの土地で、戦禍をくぐり抜けてきた楽器を使用することについての思いを率直に語ってくれた。主催者の説明によれば、初来日の時に広島平和記念資料館を訪問したとのこと。2022年のロシアによる軍事侵攻によって破壊されたハルキウ出身の彼にとって、原爆で荒廃した街がそこに重なり、あるいはその後の復興の様子が希望と映ったのかもしれない。そればかりか、前回のリサイタルでは使用しなかった「自らと同じ土地から来た楽器」にも親近感を覚えているようであった。
とはいえ、あとになってふと気づいた。あの楽器は厳密にいえば彼と同じ国から来たのではない。そうではなく、今まさに「敵国」となっているロシアからやってきたものだ。
そのヴァイオリンの来歴、とりわけその所有者であったパルチコフの数奇な運命については、すでに書籍などで紹介されている(7)。それによると、ロシア西部の貴族の家に生まれた彼は、ピアニストで音楽学校の校長でもあった母親を通じて幼い頃からヴァイオリンなど様々な楽器の素養を身につけていた。ただ軍人の家系でもあったことから、長じてロシア皇帝に仕える将校となった。が、1917年の革命によって故国を追われ、ハルビンを経由して日本へ逃れてきたのだった。
逃避行の最中に多くの身の回りのものを捨てて来たが、最後まで手放せなかったのがこのヴァイオリンであったという。しかもこの楽器のお陰で、言葉も通じない異国の地で家族を支えることができた。というのも、居住地として選んだ広島では当時、西洋の音楽や楽器がまだほとんど知られていなかったのである。最初は映画館の楽士として、その後は女学校(広島女学校、現在の広島女学院)に請われてヴァイオリンの指導から管弦楽の編成まで行うようになり、この小さな地方都市では馴染みの薄かった西洋音楽の普及に大きく貢献していくことになった。
1945年8月6日の原爆投下時、パルチコフは爆心地から2.5キロの地点にある自宅にいたが、幸いにも大きな傷を負うことはなく、瓦礫の中から見つけ出したヴァイオリンとともに、市の中心部から迫ってきた業火を逃れて避難した。戦後は家族とともに東京へ、その後アメリカへと移住する。同国ではロシア語教師として働いたが、退職後は再び日本から携えてきたあの楽器を使って子供達に音楽を教えていた。1969年、76歳で亡くなった。
持ち主とともに戦禍を潜り抜けてきたこのヴァイオリンが再び広島の地を踏んだのは、1986年のこと。娘の手により、パルチコフが長年音楽教師を務めた広島女学院に寄贈されたのである。当初は学院の歴史資料館に展示されているだけであったが、修復されて蘇り、2012年のコンサートで再び人々の前で美しい音色が披露された。以降、「パルチコフさんのヴァイオリン」として知られるようになる。これが、この楽器の今に至るまでの道のりだ。
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そのヴァイオリンの印象について尋ねた私に対し、ウドヴィチェンコは「これは精神的な問題なのですが」と前置きした上で、2度にわたり「故国(homeland)」という言葉を口にしながら自らとルーツが同じであることに共感すると話した。ただし、ここでの「故国」とは、ロシアやウクライナといった「国家」のことを指していたようには思えない。だからといって、両国は同じ一つの国だということが言いたいのか。いや、もちろん話はそう単純ではない。2024年のエリザベート国際コンクールでの優勝時に、審査員の一人であったロシアのヴァイオリニスト、ワディム・レーピンとの握手を避けたことがニュースとなり、その理由として、競技の最中も爆撃に晒されていた出身地ハルキウの惨状を前に複雑な胸の裡を明かしていたのだ(8)。とはいえ、この日の彼の口からは、そのような「国」や「地名」の違いや、「敵味方」といった意識を感じさせるものは微塵も出なかった。むしろ、その楽器が戦争を耐えて生き延びてきたという点に共感していたように思われる。実際、現在使用しているストラディヴァリウスを指しながら、18世紀のイタリアで製作されたそれらの楽器も様々な争いを潜り抜けて今ここに至っているのだと話してくれた。あるいは、故郷を離れたまま帰ることができないその境遇に自らを重ね合わせていたのかもしれない。10代半ばからその才能を伸ばすべくドイツで研鑽を積んでいる彼は、戦争が始まって以降、ウクライナに戻れば若い男性は出国できなくなってしまうため、帰国できない状況が続いていたのだ。
インタビューの終わりに、京都市立芸大の学生によるウクライナのためのチャリティー・コンサートの案内を見せた(右記)。戦禍を逃れて京都に避難している人々を支援するものだと趣旨を簡単に説明すると、感慨深げに眺めていた。とはいえ、日本語で書かれたその内容は読めないゆえ不要だろう。そのままカバンにしまおうとすると、そのチラシが欲しいと言ってきた。今日の演奏会は本人が強く望んだものだと主催者が説明していたのをふと思い出した。淡々と話す姿からは想像できないが、この日の演奏で感じた、内面へと向かっていく強い意志のようなものの正体を見た気がした。
帰ることのできない故郷への祈りが静かに伝わってきた。
(2026/8/15)
(1) 記事に掲載した写真は主催者の許可を得て能登原が撮影したもの。
(2) 2023年9月12日、広島市東区民文化センタースタジオで開催されたもの。
(3)ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第219回(2026年7月11日)。
(4) 『中国新聞』2026年6月27日付。
(5) 1975年に放射線影響研究所として改組。
(6) 《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番ト短調 BWV1001》だったと思うが定かではない。
(7) 西村文、廣谷明人、二口とみゑ『明子さんのピアノとパルチコフさんのヴァイオリン』(ガリバー・プロダクツ、2023年)。以下の内容は、同書をもとにまとめたもの。
(8) “Why Queen Elisabeth Competition’s 2024 Winner Declined Juror’s Hand Shake” THE VIOLIN CHANNEL, June 3 2024.


