Menu

Books|指先から旅をする|小石かつら

指先から旅をする
Around the World on My Fingertips

藤田真央 著
文藝春秋
2023年12月10日
2000円(税別)

Text by 小石かつら (Katsura Koishi)

 

25歳のピアニスト藤田真央が、2022年から『別冊文藝春秋』に語り下ろしとして「指先から旅をする」を連載している。本書は、その書籍化である。月2回のシリーズで、語り下ろしされたものから7つ、2023年から同シリーズ内で「語り」ではなく自ら執筆したエッセイを7つ、所収している。恩田陸との対談も、コンサート・マップも、コンサート一覧も、写真集かと思うくらいのたくさんの写真もあって、手元にあるだけでうれしくなるような本だ。

実を言えば、私は、この種の本は、ほとんど手に取らないか、手に取ったとしてもつまみ食いする程度にしか目を通さない。今回も、話題のピアニストだし、気になるし、ちょっと買ってみよう、くらいの気持ちだった。でも、ぐいぐい引き込まれた。「ただの」エッセイなのに。

コロナ禍が収束しきらない、2022年1月からの海外演奏ツアーの実態を知りたかったから?たぶん、その興味は、最初の7行で忘れてしまった。脳内で年齢計算をする。2022年1月ということは、23歳だ。大学を卒業したかどうかの年齢の若者が、1月26日の飛行機で羽田を出発して、28日にはフランス・ナントでベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を弾いて、6日後の2月3日にはロンドンでラフマニノフの《パガニーニーの主題による狂詩曲》を弾いて、4日後の2月7日には、イスラエルのテルアビブでモーツァルトのピアノ協奏曲第21番を弾いている。それも、7日から13日までの7日連続公演。そんなこと、スターピアニストなら当たり前。でも、それでも、私はクラクラした。普段、コンサートホールという演奏会場で、ピアニスト(演奏者)と対峙する私たち聴衆。私たちは、その時間の前後のことは知らない。その、演奏会と演奏会の間の時間のことが、紡がれる。もちろん、演奏会を振り返ってのことも。

藤田真央の語り下ろしは、テルアビブでの演奏会という場で、「演奏者と聴いてくださっている方が、同じ空間で繋がっていることを、肌身で体感できた」という「震えが止まらなくなるような感覚」を語るところから、始まった。語る著者と読む私が一体になる。

「孤高の音が一人ひとりの心に何かをさざめかせた場合に、人智を超えた一体感が生み出される——それは、一音たりとも無駄にせず、ひたむきに楽曲と向き合うという、途方もなく地道な行程の先に訪れるものだと思います」。

そして、演奏会と演奏会の間の時間。そこでの思索。
テルアビブから始まるのだから、宗教が横たわる。そして藤田の語りから、藤田にとってのそれは、音楽に思えた。「音楽の前では、嘘はつけない」と彼は言う。自分にとっての数あるリサイタルのひとつが、観客にとっては唯一の機会かもしれないと語るのだ。常に観客のことに思いを馳せる姿勢。これは、医者と患者に似ているな、と思った。医者にとっては一つの症例かもしれないけれど、患者にとっては唯一の命なのだという関係。教師と生徒だってそうだ。コロナ禍で「今年は仕方ないね」と教師が学校行事を中止する。けれど生徒にとっては、それは生涯で唯一の学校行事なのだ。この、痛々しいまでの「事実」を、藤田真央は観客と共有していて、それで、著者と読者は、また一体になる。まだ数ページしか進んでいないというのに。

音楽に真摯に向き合い、「唯一の機会」に全力投球しているというのに、彼のスケジュールは読んでいるだけでハラハラする。22年7月16日、「前日に打診」されてシフの代役でリサイタルを。その翌日に電話連絡を受けて、2日後の18日にアルゲリッチの代役でベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番を。9月の代役は、もっとスリリングだ。ジョージアのツィナンダリ音楽祭で9月2日から6日の演奏会を終えた直後に連絡をもらい、2日後の8日にドイツのドルトムント、11日にハンガリーのブダペストという2公演で、ユジャ・ワンの代役としてショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番。深夜0時の飛行機に乗り、翌朝8時にベルリン着。陸路ライプツィヒへ移動し、即練習してゲヴァントハウス管弦楽団とリハーサル。翌日はもう演奏会当日で、朝からドルトムントへ向かって本番は暗譜演奏したというのだから、驚異的だ。そして、「本番では、ピアノとオーケストラの演奏を受け渡すタイミングが阿吽の呼吸でピタリと一致して、ぞくぞくしました」だそうな。

山形での阪哲朗とのエピソードも素敵だ。カデンツァの3拍目にアクセントがあるところ、次の小節の1拍目を強調することに変更。すると、音楽が前へ前へと進み、より大きく捉えられ、曲の推進力が一気に増したとのこと。そんな大発見と喜びを、話して聞かせてくれる素直さに、また感動する。

と、感動することばかりが続くエッセイ集。以上は「語り下ろし」の部分なのだが、これが後半の「エッセイ」になると、ガラリと力強さが変わる。この変化にもびっくりした。「ですます調」から「である調」に変わっただけではない。細かい心の動きが、その動きに合わせてピタリと表現されていくのだ。

「私はアーリオ・オーリオ・ペペロンチーノを愛してやまない。(中略)ミラノの〈ココ・パッツォ〉で食べたペペロンチーノは(中略)とてもシンプルな味付けにもかかわらず、ニンニクが特別なのか、オリーブオイルが良質なのかわからないが、一口食べたらエネルギーが湧き、もう一口食べたら神秘を感じ、さらに一口食べると恍惚とする。あっという間にたいらげてしまったが、我々ピアニストも、どんなに素晴らしい音、解釈で演じようとも、また聴きに来たいと思ってもらえないと生きていけないのだ。そんな哲学を街の小さなイタリアンレストランのアーリオ・オーリオ・ペペロンチーノが教えてくれた。」

これをもって私の文章は終わりにしていいだろう。ユーモアと、愛と、真摯さと。そんな藤田真央は、今も『別冊文藝春秋』に連載し続けている。その継続がまた、すごい。

(2024/7/15)