Menu

Books|語りと祈り|齋藤俊夫

Books|語りと祈り
姜信子(きょう・のぶこ/カン・シンジャ) 著
2023年1月16日刊
みすず書房

Text by 齋藤俊夫(Toshio Saito)

息苦しい。今のこの世界の何物もが。暴力と収奪の屠畜場と化したかのような国家権力と資本主義の下に生きていることがこれほどまでに空気のようなボンヤリとした無形で無味無臭のままに圧倒的な存在感をもって実感させられる時代はこれまでかつてあったのだろうか。
この無形無味無臭の暴力と権力に対抗するものとして著者が挙げるものがまずは「語り」である。国家という巨大な物語生成装置かつ記憶忘却装置に対して、名もなき小さな民たちの 耐え難い苦痛と苦難への怨念、虐げられし怒りと悲しみが時空を超えて行き交い受け継がれていく、小さき「声」の集積としての「語り」である。それはかつては日本全国を歩き回る山伏や比丘尼の説経、あるいは芸能者、大道芸人たる祭文がたりや瞽女(ごぜ)によって根茎のごとく口伝えで広がって行き、正典・オリジナルなき、それぞれが正しい「語り」として「歌われてきた」ものである。本書によれば「この世の物語は、名もなき民の「声」によって、「命」の記憶をつないでゆくために、書き換え、乗っ取られるためにある」(本書31頁)のであり、「みずからの声の中に宿る無数の死者たちの声、切り分けることなどできない無数のナニモノカたちの声を忘れた近代的な私たちは、近代を乗り越え、いまいちど世界を書き直すための声を取り戻すことができるだろうか?」(本書115頁)と今、近代・現代国家によって統御されている我々は問いかけられているのである。
さらに、近代・現代の、文字によって書かれた正典・オリジナル中心主義に対して著者は「人びとが声を手放し、文字に記憶を委ねたとき、人間と記憶の間にはなにか根本的な変化が起きるのではないか?」(本書143頁)とラディカルな問いかけを投げかける。そこには「歌」の力の根源にある「人間、さらには鳥獣虫魚草木の声」を自らの内からも外からも失わせつつある近代・現代国家への強烈な疑義申し立て、抵抗の精神、反旗を翻す「歌」の精神、「祈り」の心がこもっている。その「歌うたい」、「祈りて」として現れるのが水俣の渚から声を放ち続けた石牟礼道子、日本語の破壊を企み続けた在日朝鮮人の詩人金時鐘(キムシジョン)、ハンセン病という不可視の領域に追いやられることを拒絶した谺雄二である。さらに近代の始まりに当たって国家・資本によって捨てられ滅ぼされた足尾銅山をその足で巡る著者はこう言う「沈黙によって、裏切りによって、死者をもう一度殺すわけにはいかないのです」(本書203頁)と。
さらに、「確固たるアイデンティティを持つ「近代的個」の境、生死の境、進化論的な時空のありようを根底から揺さぶるもの」(本書133頁)として著者が想像するものが「来たるべきアニミズム、来たるべきアナキズム」である。人間も鳥獣虫魚草木と等しく無数の小さき神々として無数の中心を為してお互いの「声」「歌」を聴きあう存在同士である理想郷である。
「近代的個」の対極にある異形の「文学」としてある石牟礼道子の「じょろり」(浄瑠璃)を引き継いで著者は祭文語りを歌い語り伝え歩く。その著者が最後に宣言するのは

私は語りの旅にでます。
私はケモノになります。
私は「きちがひ」になります。(本書311頁)

という「それぞれの場所で声を放って物語り、歌って踊って穴を穿つケモノたちとの邂逅を切に願っている」(本書312頁)者の言葉。

我々はこの殺し殺される世界の中でケモノ、きちがひとして生きられるだろうか? 著者の語りと祈りに応えられるか、自らを問いかけられる著作である。

(2024/12/15)