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評論|伊福部昭―独り立てる蒼鷺―10.長い冬の時代……ギター独奏曲|齋藤俊夫

10.長い冬の時代……ギター独奏曲
10.Long Winter…Guitar solo pieces

Text by 齋藤俊夫(Toshio Saito)

こんな夢を見た――古い日本家屋、囲炉裏端、外は深い雪、何も聴こえない、自分の斜に座っていた男がなんとは無しにギターを取り出し、爪弾き始める。ひどく寂しいアルペジオだ――。

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1961年10月9日、前回取り上げた『リトミカ・オスティナータ』初演後のおよそ15年間は、伊福部にとってまさに〈長い冬の時代〉であった。
以下、年表を示す1)

1961年昭和36年 2月9日『シレトコ半島の漁夫の歌』初演。4月合唱曲『北海道賛歌』(管絃楽伴奏)初演。10月9日『ピアノと管絃楽のためのリトミカ・オスティナータ』Pf:金井裕、上田仁指揮、東京交響楽団により初演。
1962年昭和37年 特に何もなし
1963年昭和38年 特に何もなし
1964年昭和39年 特に何もなし
1965年昭和40年 10月28日、母キワ死去。
1966年昭和41年 11月北海道大学合唱団委嘱によって『シレトコ半島の漁夫の歌』(合唱版)が初演
1967年昭和42年 ギター独奏曲『古代日本旋法に依る蹈歌』作曲。
1968年昭和43年 2月11日、ギター独奏曲『古代日本旋法に依る蹈歌』パリ国立放送で放送初演。『管絃楽法』(音楽之友社)上巻増補版と下巻刊行。
1969年昭和44年 2月10日、日比谷公会堂、若杉弘指揮、小林仁ピアノ、読売日本交響楽団にて『ピアノと管絃楽のためのリトミカ・オスティナータ』改訂版で再演。5月27日、ギター独奏曲『箜篌歌』、パリ・インターナショナル・コンテストで初演、コンテスト入選。
1970年昭和45年 大阪万国博覧会EXPO’70のパビリオン「三菱未来館・日本の自然と日本人の夢」の音楽を手がける。NHK-FM「現代の音楽」、「ギリヤーク族の音楽」に出演、8月22日放送。ギター独奏曲『ギターの為のトッカータ』初演。
1971年昭和46年 『ピアノと管絃楽のためのリトミカ・オスティナータ』現行版に改訂。『ヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲』現行版に改訂。
1972年昭和47年 3月30日、バレエ曲『日本二十六聖人』初演。11月21日、手塚幸紀指揮、東京佼成吹奏楽団により吹奏楽曲『ブーレスク風ロンド』初演。
1973年昭和48年 9月8日放送のNHK-FM「現代の音楽」で、vn徳永二男、石橋達也指揮、東京フィルハーモニー管絃楽団により『ヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲』現行版で演奏。10月5日、田村拓男指揮、日本音楽集団により邦楽器合奏曲『郢曲「鬢多々良」』初演。
1974年昭和49年 東京音楽大学作曲科教授就任。
1975年昭和50年 3月8日、長兄、宗夫死去。9月17日、vn黒沼ユリ子、山岡重信指揮、日本フィルにより『ヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲』現行版舞台初演。
1976年昭和51年 東京音楽大学学長就任。オーケストラとマリンバのための『ラウダ・コンチェルタータ』作曲。

まず1962年から1965年までのほぼ完全な音楽的空白期間(ただし映画音楽は1978年の熊井啓監督作『お吟さま』までコンスタントに手掛けていた)が目につく。伊福部48歳から51歳、創作家として成熟し、かつ活動的な年齢だったはずである。さらに見ると、1961年『リトミカ・オスティナータ』初演後、1976年の『ラウダ・コンチェルタータ』まで管絃楽の純音楽作品の新作が書かれなかったということに気付かされる。伊福部は300本になんなんとする映画音楽の超多作家ではあるが、純音楽作品については寡作家と言ってもよいだろう。それにしても、この〈冬の時代〉の寡作ぶりは彼の音楽史上で特筆に値する。何が彼をして音楽を書かしめなかったのだろうか?
伊福部にとっての冬の時代は、現在から顧みると彼より半世代ほど年下の作曲家たちによる現代音楽の最盛期であったと言えよう。湯浅譲二『ホワイト・ノイズのためのイコン』1966-67作曲、武満徹『ノヴェンバー・ステップス』1967年作曲、一柳慧『オペラ横尾忠則をうたう』1968年作曲、松村禎三『管弦楽のための前奏曲』1969年作曲、三善晃『レクイエム』1971年作曲、黛敏郎オペラ『金閣寺』1976年作曲、と、一部の作曲家のこの時期の代表作を挙げただけでも多士済々豪華絢爛な現代音楽シーンが浮かび上がってくる。
視点を現代音楽から少し広げて、この時代の社会史に向けると、1964年10月10日に開幕した東京オリンピック、1970年3月15に開会した大阪万国博覧会、1972年2月3日に開幕した札幌オリンピックという日本史上に残る大祭がまず目に入ってくる。これら日本社会史の日差しのあたる場所から目を逸らすと、安保闘争と学生運動という日は当たらずとも熱を発した歴史の流れが目に入ってくる。
これら日本現代音楽史、日本社会史から、伊福部冬の時代は彼の音楽が前衛音楽至上主義と相容れないものだったから、日本が突き進んだ文化文明の進歩主義を拒絶したから、と結論づけるのは誤ってはいないかもしれないが、たやすい結論であり、たやすいがゆえに浅い。ではより深い見地へはいかにしてたどり着けるであろうか。
筆者はここで伊福部冬の時代の始まりと同時期の1962年にシングルレコードデビューをし2)、1970年に解散した世界史的ロックグループ、ザ・ビートルズを伊福部と対照をなすものとして提示したい。

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何故伊福部を語るためにビートルズを持ち出さねばならないのか、という問いにたいして、それはビートルズが活動当時から今でもまだ〈世界〉的音楽家であるから、というのが返答になろう。
ここで言う世界の中にはもちろん日本も含まれる。1966年6月30日から7月2日、武道館での来日公演で数万人の聴衆を集めたのは1つの歴史的事件であり、1つの伝説である。
ビートルズにとっての世界を端的に示すのが、1969年6月25日に世界31カ国への同時宇宙中継番組”Our World Live”にイギリス代表として出演し、『愛こそは全て(All You Need is Love)』を演奏した事例とその歌の詞であろう3)

愛(Love) 愛 愛
愛 愛 愛
愛 愛 愛
やろうとしてできないものはない
歌おうとして歌えないものはない
言葉では言えなくたって、愛することはできるんだ
簡単なことさ
つくろうとしてつくれないものはない
救おうとして救えない人はいない
いまは何もできなくたって、いつか自分自身が見つかるよ
簡単なことさ
愛さえあればいい(All you need is love)
愛さえあればいい
愛さえあればいい
愛だけが足りない
学ぼうとして学べないものはない
見ようとして見えないものはない
いるべきところにいられないことはない
簡単なことさ4)

ビートルズの歌世界には愛が溢れている。だが、その世界の愛を分有できないもの、世界の愛からあぶれてしまったものはどうすればよいのだろうか?

文字通り世界を股にかけたビートルズの解散後まもなくに書かれた論集『ビートルズその後』で音楽評論家秋山邦晴はこう述べている。

ロックによる革命ともいえる非暴力的で哲学的な変化のようなものにビートルズは点火したのだといってもいいのだ。5)

では伊福部昭はどのように述べただろうか。

ジャズは聴きましたが、影響を受けるには至りませんでした。プレスリーやビートルズに対しては、好きも嫌いもなく、そもそも何の感情も抱けなかった……。6)

このコメントを伊福部の著作にある下記の記述で読み解くことも誤りではない。

私たちは、いかに音楽そのものの直接効果を聴くという即物的な態度をもったにしても、理解し感じ得ないということがあり得るのです。これもまた民族的な審美感の表れと見ることができるのです。7)

ビートルズの音楽を理解し感じ得ないのは伊福部の内にある民族的な審美感ゆえ、と上記の論に習えば考えることができる。だがこの民族表象には陥穽がある。この表象はともすれば個人ごとの地理的、世代的な差異を捨象してしまうのだ。もっとも、この民族性についての論はあくまで一般論と見なせて、本論第2回で論じた通り伊福部自身の中にある多民族的要素により、彼の音楽は複数の民族性を横断するものである。

再び秋山のビートルズ論に戻ろう。

ザ・ビートルズは、若者の世代にひとつの共通感覚、共通の精神の共同体としてのなにものかを成立させた存在であったのだ。いわば若者たちは、自分たちの共通する精神、共通の感覚をザ・ビートルズに発見し、ザ・ビートルズのなかに発見した。いいかえれば、ビートルズはその共同体のための心の伝達手段=コミュニケーション・メディアであったのだ。8)

音楽というものが、これまで固定したひとにぎりの集団のものとなりがちであった存在を破壊して、もっと普遍的で、しかも個人的(パーソナル)な音楽としてのありようの新しい領域へとむかわせつつあるようにおもえる。9)

若者たちがビートルズのなかに発見した、共通する精神、共通の感覚は『愛こそは全て』では曲中で連呼される「愛」だと言えよう。愛を歌う音楽による共同体、確かにそれは人類にとって目指すに足る理想郷かもしれない。
だが、その音楽に共感できず、従って愛を分有できず、理想郷的共同体に入ることができない人間もいる。そう、ビートルズに何の感情も抱けなかったという、他ならぬ伊福部昭である。
伊福部の没ビートルズ的感性は、彼が滅びゆく民族・文化・世代に属していることに起因する。いや、滅びゆくという自動詞では語弊がある。滅ぼされゆく、と表現すべきであろう。ビートルズの「普遍的」な音楽的「共同体」によって抑圧・搾取され、滅亡の危機にある古き地方的民族・文化・世代、伊福部が自己をアイデンティファイしたのはそのようなものであった。

ところがビートルズはどん欲だった。意欲的であった。たえず新しい可能性をもとめてすすんでいった。しかも彼らは現代に存在するあらゆる音楽、過去に存在したさまざまな音楽から吸収するものは、どんどん身につけていった。(略)しかし彼らは、これまでのジャズがクラシックの名曲をアレンジしたり、素材としたりするのとまったく違って、まったく自由にあらゆるものをとりいれ、コンバインし、自分たちのロック・ミュージックをつくっていこうという危険をおかした10)

この「どん欲」さへの視点を変えて、「吸収」される側からビートルズを見ると、そこには「普遍性」を僭称する西洋資本主義・西洋文化産業の「どん欲」さが見えてくる。するとビートルズが高らかに歌った「愛」というものの像の焦点もブレはじめてしまう。
ビートルズの歌は高らかに歌われ、全世界の人々に広がっていく。しかしその「普遍的な」「愛」の輝かしい光は世界の影をかき消してしまう。伊福部が属したのはその影の部分であった。

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伊福部冬の時代、それは伊福部の属する影の世界が、世界の光によって急速にかき消されていく中で、自分が自分であることをか細い音で紡ごうとした時代であった。
この時期に書かれたギター独奏曲『古代日本旋法に依る蹈歌』『箜篌歌』『ギターの為のトッカータ』の言いようもない孤独感はビートルズの音楽と対照をなしている。ビートルズの音楽が万来の聴衆に向けて放射拡散されていくのに対し、伊福部のギター曲は〈孤〉から発せられて〈孤〉へと帰っていく。寂しさを癒やすのではなく、寂しさをそのまま味わうように音がそっと現れては消えていく。寂しく、優しく、厳しい、冬の音楽。その孤独な佇まいに言いようもない懐かしさを感じるのは筆者だけではあるまい。

1)年表は筆者が作成しウェブ上に公開している「伊福部昭データベース」(https://seesaawiki.jp/w/ballatasinfonica/)より一部を修正して転載した。
2)日本でのファーストシングルは1964年発売(福屋利信『ビートルズ都市論』幻冬舎新書、2010年、217-220頁)。
3)この番組は日本でも午前4~6時に放送された(『改訂増補新版ビートルズ事典』61頁)。
4)歌詞は里中哲彦、遠山修司『ビートルズが伝えたかったこと 歌詞の背景&誤訳の深層』秀和システム、2019年、173-177頁、によった。
5)秋山邦晴「ビートルズの遺産」、朝妻一郎、木崎義二、秋山邦晴『ビートルズその後』主婦と生活社、1971年、226頁。
6)伊福部昭、片山杜秀(インタビュアー)「伊福部昭 映画を語る」、片山杜秀責任編集『文藝別冊伊福部昭』河出書房新社、2014年、112-113頁。
7)伊福部昭『音楽入門』角川ソフィア文庫、2016年、154頁。
8)秋山、前掲書、218頁。
9)秋山、前掲書、228-229頁
10)秋山、前掲書、220頁

参考録音 ギター:西村洋、バロック・リュート:デボラ・ミンキン『伊福部昭 ギター・リュート作品集』FONTEC、FOCD9088。

動画
古代日本旋法に依る蹈歌 https://www.youtube.com/watch?v=ZdNJtZz-Gw4
箜篌歌 https://www.youtube.com/watch?v=Q8P5Pla8oBM
ギターの為のトッカータ https://www.youtube.com/watch?v=2BgY5CmT8-M

伊福部昭―独り立てる蒼鷺―バックナンバー

(2023/2/15)