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小人閑居為不善日記 |テロリストと透明人間――《輪るピングドラム》と《ジュラシック・パーク》|noirse

テロリストと透明人間――《輪るピングドラム》と《ジュラシック・パーク》
Terrorists and the Invisible Man――Penguindrum and Jurassic Park

Text by noirse

※《輪るピングドラム》、《ジュラシック・ワールド/新たなる支配者》、《ジュラシック・ワールド/炎の王国》、《ジュラシック・パーク》の内容に触れています

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前回の原稿を送ったあとに、安倍元首相狙撃事件が起きた。その後容疑者の家族がある宗教団体の信者であることが動機に関係していることが分かり、「政治と宗教」の報道はヒートアップする一方だ。

そんな中、《RE:cycle of the PENGUINDRUM [後編] 僕は君を愛してる》という映画を見に行った。2012年に放送されたアニメ《輪るピングドラム》の「10周年記念プロジェクト」で、先行して公開された《[前編] 君の列車は生存戦略》(2022)と同じように基本的にはTVシリーズの総集編だが、新しいアレンジも施されている。監督はTVシリーズと同じく幾原邦彦。大胆な発想と外連味に溢れた演出でカリスマ的な人気を誇る。

主人公は高倉家の三兄妹。親はおらず、冠葉と晶馬の兄弟の二人で、重い病気を患う妹・陽毬の面倒を見ている。ところが後半になって、三兄妹は実は血の繋がらない他人同士で、共にあるカルト教団に所属していた家の子供だったことが明かされる。愛情を持って三人を育てた高倉夫婦はカルトの幹部で、多くの犠牲者を出した「地下鉄テロ事件」の実行犯だった。

《ピンドラ》は当時風化しつつあったオウム事件を召喚し、罪と罰、救済など、簡単には解決できない問題をテーマに据えて高い評価を受けた。三兄妹には信仰心はないが、彼らの周囲には事件によって人生を狂わされてしまった人たちもいて、その責任を三人に追及していくなど、いわゆる「宗教二世問題」とも関係しており、今回の上映も、偶然ではあるがタイムリーだ。

しかし改めて見直すと、疑問に感じる点もあった。この作品には「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」という、有名なフレーズがある。これは作中に登場する「こどもブロイラー」にも関係している。親などから不要と判断された子供たちを処分する施設で、粉々に砕かれた彼らは「透明な存在」になってしまうらしい。この言葉、オウム事件の2年後に起きた神戸連続児童殺傷事件で、「少年A」が自らを「透明な存在」と表現したことを思い起こさせる。

「きっと何者にもなれない」という言葉には、人間の真実の一端を突く残酷さが凝縮されている。ところが今回の劇場版、大きく変わったのもここだった。桃果という作品上重要なキャラクターに、「きっと何者かになれるお前たちに告げる」と、少し変わったかたちで宣言させたのだ。

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「きっと何者にもなれない」という言葉には、反語的機能を与えられていたと考えていいだろう。寺山修司の有名な短歌、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし/身捨つるほどの祖国はありや」が、「身捨つるほどの祖国」など「ない」ことを示唆しているのと同じだ。自分のことを「透明な存在」だと感じているとしても、「きっと何者かになれる」という思いを込めて、あえて「何者にもなれない」と言わせていたはずだ。それは作品を見ても分かる。

今回直接的な表現に変えた理由は分からないが、この10年の社会の好まざるべき変化を考えると、反語などとまどろっこしい表現は取りやめ、もっと直接的に伝える必要があると考えたのかもしれない。

それ自体はいい。注目したいのは、「きっと何者かになれる」と言い放つ桃果という人物だ。彼女は作品の鍵となる存在で、何人かの追いつめられた人物を、無償の愛による行動で救済してきた。大きな愛で自分よりも他人を優先させる桃果を 見ていると、キリストやマリアのような聖人を想起してしまう。けれどそうなると、愛情を持って三兄妹を育てた一方で凄惨なテロを起こした高倉夫婦と桃果とを分かつのが何か、分からなくなってくる。

陽毬も冠葉と晶馬が起こした奇跡で生を取り戻すのだが、それも二人の愛によるものだ。幾原監督は《少女革命ウテナ》(1997)や《ユリ熊嵐》(2015)を見ても分かる通り、他者と強い関係を築いた者が世界を変える、もしくは救済されるという物語を紡ぎ続けてきた。

しかしそこまでの強い関係を他者と持てない者はどうすればいいのだろう。孤独な人間だってたくさんいる。彼らが苦しみから逃れたいとか、何かを変えたいと思ったときに他者が手を差し伸べてくれないのであれば、行き着く先はやはり宗教や、場合によってはカルトになってしまうのではないか。

《ピンドラ》においては、何者かになれるのか、それともなれないのかを決めるのは、結局のところ他者だ。もちろん自分で何かになれたと感じたとしても「自称○○」などといった思い込みかもしれないし、他者の承認は必要なのだろうが、それでも引っかかるのは、他者との関係を築くことのできない人は何者にもなれないのかという疑問だ。

映画を見た翌日、秋葉原通り魔事件の犯人の死刑が執行された。ネットの掲示板でのトラブルに起因するこの事件も、「透明な存在」への耐えられなさが暴発したと考えることもできるだろう。

《少女革命ウテナ》に「世界を革命する力を」という有名なセリフがあるが、奈良の事件も秋葉原の事件も「この一撃で世界を変えたい」という追いつめられた心情を窺わせる。ひとりで何かを変えようとするのには、テロなどといった極端な手段しかないのだろうか。

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そのまた数日後、《ジュラシック・ワールド/新たなる支配者》を見てきた。《ジュラシック・パーク》(1993)から続く大ヒットシリーズの最新作にして「ジュラシック・ワールド」三部作の完結編だ。

第一作から見続けてきた人間としては色々と感慨深かったものの、テーマの踏み込みに関しては甘く感じられた。今回は第一作の原作者、マイケル・クライトンが意図していたテクノロジー・スリラーに回帰し、再び遺伝子操作への警鐘を鳴らしているのだが、逆に言えば30年前と同じ話を繰り返しているとも言え、古めかしい印象は否めない。「恐竜との共存」という結論は「ウィズコロナ」を意識してだろうが、優れた着眼というほどではない。

その点、シリーズ中でもっとも「攻めて」いたのは、前作《ジュラシック・ワールド/炎の王国》(2018)だった。恐竜再生に尽力した大富豪の孫娘メイジーという少女が登場するのだが、後半になって彼女は富豪の死んだ娘のクローンだったことが発覚する。メイジーは、最愛の娘を失った悲しみから富豪が「作った」代替品だったのだ。

アイデンティティ・クライシスに陥ったメイジーは、事故によって閉じ込められ、充満していくガスで死を待つしかない恐竜たちを見過ごすことができず、ゲートを解放して外界へ逃がしてしまう。遺伝子操作で生まれたという点でメイジーと恐竜たちは同じ境遇にあり、自らを重ねてしまったのだ。

メイジーの決断は世界を混乱の渦に突き落とすことになる。彼女に同情できる余地があるとしても、この行動には疑問を抱く人も多いだろう。けれどメイジーの判断には恐竜や自分への憐れみだけでなく、怒りの感情もあったように思う。何かの代わりとして作られた、代替の効く存在。生の根拠を失ったメイジーの行動は、自らを生んだ世界への復讐、テロだったとも解釈できる。

ところが新作《新たなる支配者》では、メイジーの怒りが燃え上がることはない。それどころか最後には彼女は世界の人々を救うかけがえのない存在であることが分かり、自らの居場所を見出していく。他者からの承認によって救われるという意味で、メイジーと《ピンドラ》の結論は同じだ。

ローンウルフ・テロリストが暴力的なテロに成功し世界の流れを捻じ曲げたとしても、それは本質的に「世界を革命」したことにはならない。異質なものが出逢い、混ざり合うことで世界は変わる。《ピンドラ》や《新たなる支配者》の、そうした意図は理解できる。しかし一人というのは、何も変えられないものなのだろうか。

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そこで思い出すのはシリーズの原点《ジュラシック・パーク》だ。劇中何度も恐竜が鳥類の祖先であることが言及されるのだが、これには意味がある。

映画の最後、生存者たちがヘリに乗り込み島を脱出する際に、主人公アランが海面を飛ぶペリカンを見下ろすシーンがある。アランは仕事が何より大事で、女性を遠ざけ子供も嫌い、他人と強い関係を築くことに対して臆病な人物として登場する。しかし初めて会った他人の子供たちと共にパークを逃げ延び、親子めいた関係を築くことで、アランは自分の殻を破るのも悪くないと感じ始める。恐竜そのものは滅亡したとしても鳥類に姿を変えて生き続けていることと、自らを重ね合わせているのだ。

結局アランは《新たなる支配者》で30年越しの恋を実らせ意中の人とくっつくのだが、わたしが好ましく感じていたのは《ジュラシックパークIII》(2001)での、孤独なままのアランだ。それはそうだろう、変わろうと思っても簡単にうまくいくわけではあるまい。そうした自分の頑なさを受け入れ、一人で生きていく。それもまたひとつの生きかただ。

自らを変えられなくてもいい。変わろうとする意志があれば十分だ。「きっと何者かになれる」という言葉は自信を付けてくれるかもしれないが、重圧にもなる。「何者にもなれ」なくてもいいのだ。少なくとも重圧に負けて、暴力に走るよりよっぽどいい。

《ピンドラ》でもうひとつ有名なフレーズに、「生存戦略」という言葉がある。何者かになんてなれなくてもいい。透明な存在だろうと、それがなんだというのか。重要なのは孤独であろうと何であろうと、したたかに生きていくための戦略を練り続けることではないだろうか。

(2022/8/15)

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noirse
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