Menu

評論|伊福部昭―独り立てる青鷺―4.『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』と戦争の刻印|齋藤俊夫

『協奏風交響曲』第1頁

4.『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』と戦争の刻印
4.Carving of War on “Symphony Concertante for Piano and Orchestra”.

Text by 齋藤俊夫(Toshio Saito)

戦争は、ありとあらゆるものに呪いの印を刻み込み、ありとあらゆるものをその呪いの刻印なしでは見られなくしてしまう。しかしてその刻印を目にした者が「ここに刻印あり」と言うことを阻む何かが――筆者の感覚では――今の日本には瀰漫している。日中戦争からアジア・太平洋戦争と伊福部昭とについても躊躇なしに「ここに刻印あり」と言うことはできない。だが、伊福部作品にも〈戦争の刻印〉は確かに押されているのだ。
本稿は伊福部昭『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』(以下『協奏風交響曲』と略)に押された〈戦争の刻印〉について論じる。

まず、『協奏風交響曲』作曲・初演前後の歴史的出来事と伊福部の個人的出来事を簡単にまとめた年表を見ていただきたい。

――――――――――

1937年2月18日 『土俗的三連画』作曲

1937年7月7日 盧溝橋事件勃発
1937年12月13日 南京陥落

1939年1月13日 『土俗的三連画』(放送)初演

1939年5月11日~9月15日 ノモンハン事件

1939年6月3日 「東京日日新聞」北海道版に伊福部が『協奏風交響曲』作曲中との記事が掲載される。(1)

1939年9月1日 第二次世界大戦勃発
1940年6月14日 パリ陥落

1940年7月7日 紀元二六〇〇年祝賀行事「大聖火祭」で伊福部作『交響舞曲 越天楽』が作曲者の指揮で初演される。

1940年7月28日 日本軍、南部仏印進駐開始

1940年9月10日 「北海タイムス」に、『協奏風交響曲』が完成し1940年に初演予定と書かれるが、初演は遅れることとなる(2)

1940年9月27日 日独伊三国同盟締結

1941年4月11日 伊福部、『交響舞曲 越天楽』振付担当の勇崎アイと結婚

1941年6月22日 独ソ戦開始
1941年12月8日 真珠湾攻撃

1942年3月3日 『協奏風交響曲』初演

1942年6月5日 ミッドウェー海戦

1942年12月12日 伊福部の次兄勲死去

1943年5月29日 アッツ島の日本軍全滅

1943年9月4日 『交響譚詩』(録音)初演

――――――――――

伊福部が『土俗的三連画』を完成させた後に『協奏風交響曲』を書き始めたと考え、また「北海タイムス」の記事が正確ならば、『協奏風交響曲』は早ければ1937年春から、遅くとも1940年9月10日までに作曲されたと想定される。
その間に日中戦争が本格化し、北では日本とソ連とのノモンハン事件で日本が敗北し、ヨーロッパではドイツにより第二次世界大戦が開始され、その電撃作戦でパリが陥落、日本も南部仏印進駐を開始しアジア・太平洋戦争になだれ込むこととなる。『協奏風交響曲』はこのような〈戦時〉まっただ中に書かれたと言える。

後年、伊福部は『協奏風交響曲』作曲当時を振り返ってこう述べている。

当時は、何かメカニックかつエネルギッシュな音楽を作りたいとの欲求を持っていましたから(略)。
メカニックというのは、なにしろあの頃は、極めて近代的な戦争を世界中でやっておりましたから……。そういう時代感情の表現として、別に戦争を礼讃するわけではないけれど、モダンな鉄と鋼の響きと民族的なエネルギーを結び付けられないかという想念にとらわれたのです。プロコフィエフやモソロフやオネゲルやヴァレーズの未来派的作品にも影響されていました。(略)
初演の1942年3月3日は、太平洋戦争の勃発から3ヶ月後で、ちょうど、北はアラスカ、西はマダガスカルでの日本軍の戦果が報道されていた日でした。早坂(文雄)君などと、日本もやるもんだなあと語り合った記憶があります。とにかく、ちょっといかれていたのですね。そのいかれた気分が、どうも音楽に反映したようで……。もっとも、第2楽章には、地が出てしまいましたけれども……(3)

『協奏風交響曲』を書いたのは、まだ戦争に負けるなんて思わない時ですね。(4)

「いかれた気分」とは、「戦争に負けるなんて思わない」、すなわち「戦争に勝てる」というしごく楽観的な気分としての「戦意」とも言えるだろう。
ここで歴史学者・荻野富士夫による日中戦争、アジア・太平洋戦争期の日本人の「戦意」についての研究に当たりたい。荻野は「一九三七年七月七日、盧溝橋事件を発端とする日中戦争の本格化は、一挙に「戦意」を急騰させた」(5)のだが、日中戦争の泥沼化につれて「一九四〇年から四一年の対米英開戦まで、次第に戦争倦怠・厭戦気分が高まり、「戦意」は漸減していった。それでも戦争倦怠・忌避が戦争支持・協力を上回ることはなく、「戦意」は[引用者注:日本国民全体の]八割から九割の水準で維持されていたと推測される」(6)と論じている。
その「戦意」がまた昂騰したのは1941年12月8日の真珠湾攻撃である。同じく荻野の著作から真珠湾攻撃翌日1941年12月9日の警保局保安課「開戦に伴う治安情勢(其ノ二)」を引くと「純忠愛国の熱情澎湃として全国に沸騰し、各地に於て戦勝、国威宣揚祈願祭、在郷軍人、学生、生徒の街頭行進、市町村民大会等の開催せらるる多く、国民は斉しく政府の剴切周到なる措置に対し全体的支持を表明すると共に、陸海軍の神速果敢なる作戦とその赫々たる戦果に感奮興起し、挙国一致体制益々強化せられたる感深し」(7)と、国民が熱狂的にアジア・太平洋戦争開戦を支持したことがわかる。
ただし『協奏風交響曲』作曲と初演の間の時期に真珠湾攻撃があった、つまり本作はアジア・太平洋戦争開戦以前に完成していたことには注意されたい。
もし1937年の盧溝橋事件以来国民の8割から9割の水準で維持されていたと推測される「戦意」が伊福部のものとして本作中に聴き取れるならば、それこそが本作に押された〈戦争の刻印〉となろう。

―――――――――

『協奏風交響曲』を概観してみよう。

第1楽章 Vivace maccanico.
譜例1に示す第1主題――これは後に1961年作曲の『ピアノと管絃楽のためのリトミカ・オスティナータ』第2主題として使われる――と、譜例2に示す第2主題――これは1954年作曲の『シンフォニア・タプカーラ』第1楽章第1主題として使われる――を中心に構築されているが、これらがほぼ展開・発展されず、楽器・音高・調を変えて、ピアノだけでなく管絃楽全体による協奏曲的に受け渡され反復される。


注目すべきは冒頭から拍を打つスネアドラムが全502小節中169小節と楽章全体の約3分の1小節で用いられているということである。このスネアの拍打ちにより、オーケストラ全体の縦の線が強迫的に揃えられ、また曲想が人間的・生物的な「リズミカル」なものというより「メカニカル」なものとなる。
このメカニカルなエネルギーはピアノのトーン・クラスターによっても醸成される(譜例3)。


また第262から305小節において、第1主題によるマーチ的、というより軍靴の足音に合わせるような、4分音符の拍に全楽器を揃えた部分も特筆すべきであろう。勇ましいが、その勇ましさが筆者には少々恐ろしく感じられ、そこに伊福部の「戦意」を聴き取る。

第2楽章 Lento con malinconia.
第1楽章の勇ましさとは正反対の寂寞としたレント。旋律はフリギア旋法(移動ドでミを第1音にした旋法)による。伊福部が「第2楽章には、地が出てしまいましたけれども……」と後年述べている通り、彼の感傷的な側面が現れている。

第3楽章 Allegro barbaro.
冒頭のクレッシェンドよりの主要主題から、全曲を通じて激烈なリズムが支配するこの楽章は、筆者が囃子言葉を当ててみた譜例4のように日本的な雰囲気、それも勝利を祝っての祭りのような雰囲気が漂う。ただし、それは「日本情緒」といったものではなく、もっと民俗的・土俗的で、発想標語にあるとおりバーバリックなエネルギーに満ちたものである。

第1楽章以上に強烈な、拳でのピアノのトーン・クラスターを伴う第79から第106小節(譜例5)がこの楽章でもっとも苛烈な意思を感じさせる。この部分はEisを第1音とするロクリア旋法(移動ド唱法でシを第1音とする旋法)とDisを第1音とするロクリア旋法で書かれており、前者ではEis, Fis, Gis, Ais, Cis, Dis の黒鍵が使われ、後者ではDis, Fis, Gis, Cis の黒鍵が使われている。楽章全体では黒鍵が使われるのは多くて同時に2つであるので、この第79から第106小節が調的にも際立って聴こえることとなる。さらに、拳でのピアノのトーン・クラスターなどが一体となって拍を刻むことにより、第1楽章の軍靴の足音をさらに大きくした、巨人が歩いているがごとき、勇ましさを超えた蛮勇が全体を支配する。

第107から第108小節で短2度の不協和音が4度打ち鳴らされた後、ピアノソロが高音域で第79小節と同主題をリリカルに演奏するが、楽器が増えるのと比例して音楽がまた勇壮さを帯び、第153小節でトランペットがファンファーレ風のフレーズを高らかに奏する(譜例6)。このファンファーレは戦勝を祝っているのか、それとも吶喊(とっかん)の号令か。
煩瑣になるのでその後を省略するが、全楽器がスネアドラムの連打に合わせる第3楽章終結部(譜例7)まで、伊福部の音楽に満ちるエネルギーの源に筆者は彼の「戦意」を感じる。

譜例7『協奏風交響曲』第3楽章終結部

―――――――――

「世界の崇高さは新しい美によって増大されていることを、われわれは確認する。新しい美とは、つまりスピードの美である。蛇に似た大きな円筒で飾られた冷却器をもち、爆発音を発する競走用自動車や、まるで機関銃弾のようにうなりほえながら走る自動車は、たしかにサモトラシアの勝利よりももっと美しいにちがいない」(8)

1909年、詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティによる「未来主義創立宣言」(未来派宣言)の言葉である。「速力の美を唱え、機械の力動と騒音を讃え、熱狂的な愛国心、戦争、冒険などが現代を表現する」(9)としたこの芸術運動に伊福部も影響を受けたことは先述の彼のコメントのとおりである。『協奏風交響曲』中に聴こえるメカニカルなサウンド、不協和音、ピアノによるトーン・クラスターなど、旧来の〈音楽美〉に背き、それを破壊せんとするような騒音的音響は明らかに未来派的である。

指を真っ黒にした快活な放火者たちよ、さあ、やってくるのだ。そのとおり、こちらへ来て、始めたまえ、図書館の書棚に火をつけるのだ!運河の水を流して、美術館を水びたしにするのだ。ああなんという喜びなんだ、栄光に輝く古びた絵画が、破れて色あせ、水の上をあてもなく浮かんでは流れてゆくのを見るのは。さあ、つるはしを、斧を、そしてハンマーを取って、敬愛されている都市を情容赦なく打ち壊すのだ。(10)

だが、〈未来派宣言〉に含まれるこの破壊への衝動の終着点は最大の破壊行動たる〈戦争〉であり、それを遂行する〈ファシズム〉の礼賛であった。「彼ら(引用者注:未来派)の運動はファシズムの戦略にからめとられて、その破壊性のみ利用された。やがてそれはファシズムと組んだ体制的な破壊性となってしまった。」(11)政治と美意識の悪魔的融合体たるファシズムを準備したのは、伝統を破壊せんとする未来派という芸術運動だったのである。

「まだ戦争に負けるなんて思わな」かった伊福部は「戦意」を抱いていた。その「戦意」と一体となった未来派的音響を含んだ音楽、それがこの『協奏風交響曲』である。伊福部が未来派の音響と彼らの思想に何らの疑問を持たずに居続けたならば、彼もこの作品の延長線上に日本の戦争とファシズムを礼賛する音楽をものしていたかもしれない、筆者はそう考える。本作品に伊福部の「戦意」という〈戦争の刻印〉は確かに押されている。
その伊福部の「戦意」が大きくひしがれるのは1942年12月12日の伊福部の次兄勲死去という事件であった。次稿では亡き次兄に捧げられた伊福部の次作、『交響譚詩』を取り上げ、『協奏風交響曲』と『交響譚詩』に押された〈戦争の刻印〉の表裏について論じたい。

(2021/1/15)

(動画)『協奏風交響曲』指揮:大友直人、ピアノ:舘野泉、日本フィルハーモニー交響楽団

「伊福部昭―独り立てる青鷺」 (1)(2)(3)

(1)木部与巴仁『伊福部昭の音楽史』春秋社、2014年、92頁

(2)木部、前掲書、102頁。

(3)伊福部昭(文責:片山杜秀)「自作を語る」『伊福部昭の芸術5 協奏風交響曲/協奏風狂詩曲』ブックレット、6頁、King Record, KICC 179, 1997年。

(4)木部、前掲書、118頁

(5)荻野富士夫『「戦意」の推移――国民の戦争支持・協力』校倉書房、2014年、69頁。

(6)荻野、前掲書、76頁。

(7)荻野、前掲書、83頁。

(8)秋山邦晴『現代音楽をどう聴くか』晶文社、1973年、75頁。

(9)竹内敏雄編『美学事典 増補版』弘文堂、1974年、296頁。

(10)田之倉稔『イタリアのアヴァン・ギャルド――未来派からピランデルロへ』白水社、1981年、50-51頁。

(11)田之倉、前掲書、51-52頁。

使用楽譜:伊福部昭『ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲』浄書印刷譜、1997年。浄書者不明。明治学院大学付属日本近代音楽館所蔵。

参考録音:『伊福部昭の芸術5 協奏風交響曲/協奏風狂詩曲』King Record, KICC179, 1997年。