Menu

Books |MIT マサチューセッツ工科大学 音楽の授業 |大田美佐子  

MIT マサチューセッツ工科大学 音楽の授業

菅野恵理子 著
あさ出版
2020年9月20日出版
1800円

Text by 大田美佐子 (Misako Ohta)

音楽を学ぶ力: 技術革新にとって必要とされる人間理解

総合大学で音楽文化史の講義をはじめて20年近くになる。その間の大学改革の嵐で、気づけば総合大学から音楽実技や表現教育の担い手が減員。少子化で、教員採用数が僅少なことに加え、実際に中高等教育でも、受験科目にない芸術実技の分野、表現分野は年々肩身が狭くなるばかりのようだ。異なる指標を要する専門家集団のなかでも、ジェネラルな音楽の力は理解されにくいのが実情だ。

しかしながら、人生に視点を広げれば、音楽の力を実感する場面は多い。就学するまでは、情操教育や英才教育といっては盛んに音楽教室に通わせ、高齢になり言葉が不便になれば、デイサービスなどで歌を歌い、祭りの太鼓を叩いたりする。音楽の力を実感しつつ、一般に日本の教育システムでは、音楽との関わりは中抜け状態なのである。

日本の場合、中抜けの学校教育を埋めているのは、課外活動である。合唱やオーケストラ、吹奏楽など、大学の伝統ある音楽系のクラブ活動では、人文系学部の学生だけでなく、経済や理系など幅広い専攻の学生たちが豊かな音楽活動を展開している。玄人顔負けの音楽性を発揮する実力派のクラブも多く、定期演奏会は、クラブ活動で志望校を決めたい高校生らで賑わい、大学オーケストラに特化したファンの存在もある。楽器習得や音楽の学びには、人間の能力を発掘する秘めたる力があるという数多の科学的なエビデンスもあるが、実際に楽譜から音楽を立ち上げる学びのプロセスは、それ自体が試行錯誤に満ち創造性豊かな作業でもある。国際的な業績をあげる科学者にも音楽愛好者は多く、中にはプロ顔負けの奏者もいる。

さて、スーパーエリートを育てるアメリカの大学では、どのように音楽を教え、学ぶのか? ちなみに、本書の著者の前作は『ハーバード大学は音楽で人を育てる – 21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング, 2015)である。評者自身も、2013年からのハーバード大での研修で、現場のインターアクティブな大学・大学院教育の一端に触れたことがある。ハーバード大の音楽学部(i)はレナード・バーンスタインらも学び、ストラヴィンスキーらが講義したノートン・レクチャーシリーズは現在でも継続されている。実技はバークリー音楽大学やニューイングランド音楽院とのダブルディグリーが認められているが、音楽棟にあるペインホールという音楽ホールは20世紀初頭に建てられたもので、生の音楽に触れる機会も多い。貴重書が豊富な音楽アーカイブも充実し、アメリカ音楽史のゼミをもつキャロル・オージャ教授の演習では、ローリング・ストーンズ誌の編集者や、イディッシュ劇場の制作担当者、ガーシュウィンの研究者など、毎回現場経験豊富なゲストの話が、座学と絶妙なバランスで構成され心躍った。受講者の感性と考える力に働きかけるこの体験は、筆者自身の教育研究姿勢にも大きな影響を与えることになった。MITについても印象深い思い出がある。幼稚園の息子の友達の誕生会で自宅に招かれたところ、居間にある夥しい数のスコアのコレクションに驚いたことがあった。その子のお父さんは科学者で、幼少期に音楽のレッスンを受けたわけではないが、音楽が盛んなMITの環境に刺激され、MITのオーケストラ(1890年代創立)活動に参加し、指揮もするようになったという。近年、英米圏では音楽を専攻する学生がいかに社会に貢献し得るか、という議論が盛んで、ガーディアン紙にも音楽学習者の多岐にわたる能力の高さを称揚する記事が掲載された(ii)

そんな音楽の力を天下のMITは、どう活かしているのか、読者に「音楽の授業」の現場を体験させてくれるのが本書である。本書は7章(357頁)から構成される。それぞれの章で、音楽が媒介となり、主従相俟ってイノベーションの推進力となっていることがわかる。特にカリキュラムの詳細な記述と授業で扱う広範な曲目リストは、読者が授業を追体験できる楽しみと同時に、現役の教員にとっても参考になる。

第1章 なぜ科学と音楽がともに学ばれているのか
第2章 人間を知る・感じる
第3章 しくみを知る・創る
第4章 新しい関わり方を探究する
第5章 他者・他文化・他分野と融合する
第6章 MITの教育から探る、未来の世代に必要なこと
第7章 今・こことはるか未来を見据えて

まず、MITでは理系だけでなく、人文学を重視する。音楽産業と日本社会の変容を世界史的視座で分析した『Tokyo Boogie-Woogie』(Harvard University Press, 2017)の著者、永原宣さんなども歴史学部で教鞭をとる。人文学科は1930年代に創設され、1970年代には人文学、社会科学、芸術科目の必要性が認知され、現在のカリキュラムでも芸術科目はすべての学生に必修になっている。音楽学科を主専攻にする学生もいるが、すべての学生が副専攻を持ち、ダブルメジャーとして履修する者もいるという。

MITの音楽学部の分野領域は、「文化・歴史」「作曲・理論」「音楽テクノロジー」「演奏技術(パフォーマンス)」の四領域から構成されるが、たとえ音楽史であれ、すべての分野において、座学と実践が組み合わされた構造をもつ。エンジニアなど「ものづくりの精神」を尊ぶMITにとって、イノベーションには、多様で異質な世界の刺激が必要であり、音楽の授業は、イノベーションを起こす刺激と変化の源泉なのである。

授業の内容にフォーカスすると、必ずしも分野横断的で最先端の複雑なものを教えているわけではない。むしろ特筆すべきは、音楽経験のある学生もない学生も、それぞれのペースで学ぶことができる柔軟性をもち、古典と基礎を重んじ、本質的な学びに導くしかけである。楽曲分析や作曲の課題、音楽史を通じた時代や異文化の理解、そして、音楽の現場に直接足を運んでリポートをする実践的な課題。こういった音楽カリキュラムから見える学びの創造的なプロセスが、未来のものづくりに大きなインパクトを与えているのである。そして、この「音楽を学んでイノベーションが生まれる」カリキュラムの実現にとってもっとも重要なのは、学びのあり方をデザインするクリエイティブなスタッフ、そしてそのチーム力であることがインタビューによって明らかになる。まさしく大学の質は教員の質であることを実感させる。

「文学部解体- 大学の未来」という美学者の室井尚氏との対談のなかで、社会学者の吉見俊哉氏は「価値創造そのものに関わる学問、人文学は社会に役に立つ」ことを、積極的に主張する必要があると述べている。音楽はどのように役に立つことができるだろうか? 本書を読めば、答えは自ずから導き出される。自分の身体知に問い、多義性を受け入れ、未知の領域に踏み出し、異文化との出会いを創出する音楽の学び。「技術革新が進むほど、人間理解が求められる – これは一見矛盾しているように見えるかもしれないが、MITの最新カリキュラムには明らかにこの考えが反映されている」(7頁) 。音楽の学びは、AI全盛の時代に、人の「インテリジェンスとは何か」を鋭く問いかける。本書が投げかけるものは、エリート大学の素晴らしい授業の紹介にとどまらない。アフターコロナの社会の変化を見据え、生き抜いていくためにも重要な示唆を与えてくれる。

(i) ハーバード大学音楽学部のHP
https://music.fas.harvard.edu/about.shtml#

(ii)大学で音楽を学修した者は雇用市場に強い。ガーディアン紙 2013年10月11日
https://www.theguardian.com/education/2013/oct/11/music-students-employability?fbclid=IwAR1FhPjJ30PcxZZsAhXXAYt9np7JrMMe2n9ua9pBjHoy1GMgO01uWcX21RQ

(2020/10/15)