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特別企画|2020年5月5日 コロナ禍に考えたこと|大田美佐子

2020年5月5日 コロナ禍に考えたこと

Reported by 大田美佐子(Misako Ohta)

[見える景色が変わる -行動変容と舞台芸術]
WHOがCOVID-19のパンデミックを宣言してから二ヶ月が過ぎた。まさに世界を巻き込んだ未知のウィルスとの闘いは、舞台芸術にも延期や中止などの深刻な影響を与えてきた。5月4日、日本では緊急事態宣言が31日に延長された。ウィルスとの長期戦を睨んだ「新しい生活様式」と「行動変容」では、「距離を取り」「歌は控えめにオンラインで」行うことが求められていて、収束のシナリオを描くのは難しい。パンデミック宣言後に「芸術は社会に必要なインフラであり、市民の生命維持に必要」といち早く支援を決定したドイツの文化大臣の言葉は、非常時にあって芸術家と社会との関係性のあり方を問うものとして鮮烈だった。(*1)

しかし、パンデミックでの細やかな生活への対処が地域の資源によって異なるように、文化行政の理念にも歴史的文化的背景があり、日本の文化のあり方が借り物でできるわけではない。見える景色がまたたく間に変わる現時点での発言は、時期尚早と感じる反面、今見えている景色を、ごく個人的な体験を交えて書き留めておきたい。その動機となったのは、感染拡大による医療崩壊を回避するため、刻々と情勢が変化するなかで行われている様々な音楽家、演劇人たちの提言や試みである。

[歴史が照らす光: グローバルが問いかけるもの]
パンデミックにより、制限された自由をどう捉え直せばいいのか。歴史を振り返る視点は示唆に富む。「パンデミックを生きる指針 – 歴史研究のアプローチ」(*2)という文章で、農業史研究の藤原辰史氏は、特にスペイン風邪と比較して、第一次世界大戦と現代のオーバーツーリズムでの人の移動、経済のグローバル化がもたらした富と貧困、その結果を論じた。そして「危機の時代にはこれまで隠されていた人間の卑しさと日常の危機が襲い試されている」と述べた。政治はなぜ、私たちの遠いところにあるのか? 誰がどのように新しい時代を作っていくのだろうか? 作曲家の坂本龍一氏は「歴史を振り返れば、どんな危機にあっても、人類はアートや音楽や詩を手放さなかった。表現者は自分たちの存在価値を確信し、自分を肥やす貴重な時間に使いたい」(*3)というメッセージを発したが、その言葉は、危機の時代に前を向く表現者の覚悟を滲ませた応援歌にも聞こえた。このような提言は、日々のニュースに一喜一憂するなかで、ビヨンド・コロナに向けた示唆に富む視点を与えてくれた。

[グローバルの意味、多様性に学ぶ]
グローバルは身の丈を過ぎた夢なのか? 個人的にはここ数年、特に音楽文化史をトランスナショナルに開いていく視点に関心をもってきた。「グローバル」かつ「ローカル」に、歴史記述の焦点を幾重にも合わせるなかで生まれる「対話」から、幾度かの渡航の機会を得た。昨春はニューオリンズの学会で、アメリカのコントラルトの歌手、マリアン・アンダーソンの1953年の来日公演(*4)について発表した。令和のはじまりには、戦後の記憶を追って家族でマリアナ諸島・サイパンに旅した。秋には大学の芸術教育と文化行政のプログラムの引率で、ウィーンを訪れた。そしてパンデミックが宣言されるひと月前には「グローバル・マーケット時代のクラシック音楽の境界を考える」(*5)というワークショップで、テネシー州ナッシュビルのヴァンダービルト大学に出かけていた。ヴァンダービルト大のワークショップは、まさに五大陸の研究者が直接的に集うこともひとつの目的であった。ブエノスアイレスの研究者はユダヤ系亡命作曲家の活動のアーカイブ化について、バンコック、ンスカ(ナイジェリア)、香港からは洋楽受容のトピックについて、それぞれのローカルな現場での多様なクラシック音楽の展開を発表した。ここで重要だったのは、史実だけでなく、直接的な対話を通して見えてくるクラシック音楽が生み出したダイナミズムである。その醍醐味をナッシュビルというアメリカの楽都で、あらためて感じることができた。

3月にはハーバード大の共同研究の仲間と占領期の米日音楽交流史について、ニューヨークで打ち合わせの予定があった。アメリカ建国の歴史を混合人種キャストで描き出したミュージカル『ハミルトン』と1940年代にクルト・ヴァイルがアメリカ人のライフスタイルの変遷を描き出したミュージカル『ラブ・ライフ』の舞台を観るのも渡航目的のひとつだった。毎日のようにブロードウェイやアメリカ政府のニュースを観て、渡航の判断に悩む日々が続いた。卒業演奏や卒業式が中止になった学生たちと同様、日々の報道に一喜一憂し、目に見えない感染症のリスクという現実をいまだ理解できない自分がいた。そして、3月の二週目には大学もブロードウェイも厳しい判断を下さざるを得ない状況になっていた。

[変化のなかで感じる新しい可能性]
目の前で次々と閉じていく物理的な国境は、舞台の世界でも同様だった。関西圏は、一昨年の豪雨被害でホールにも被害が出たが、昨年はフェニックス堺と東大阪芸術創造館が新たにオープンし、期待が高まっていた。フェニックス堺で年末年始に行われた、武満徹フェスティヴァルや市民とプロが協働する堺シティーオペラのアイーダも力の入った名企画、名舞台だった。東大阪芸術創造館で2月に開かれた関西二期会『カヴァレリア・ルスティカーナ』『パリアッチ』の二本立てが、私にとっての生の舞台の最後になった。今でも、お客さんが入った東大阪芸術創造館の熱気が忘れられない。3月6日には、びわ湖ホールでワーグナーの『神々の黄昏』が無観客で上演された(*6)。私にとっても観客のいない舞台の上演は初めての経験だった。インターネットで二日にわたって配信されたリング最終章は、「いかなる権力も自然には勝てない」ことを示唆しているように感じられ、まさに舞台人の魂の結晶でもあった。SNSを通じて知った、釜ヶ崎芸術大学を運営するNPO法人ココルームの食卓のうえで映し出されるワーグナーの『神々の黄昏』に、新しい可能性を感じた。自分の日常もまた、突き動かされる「生」を感じさせる舞台に支えられてきたことをあらためて思うと同時に、パンデミックが宣言されてからの舞台人の苦悩の深さを思う。

[想像する力、生命を守る力]
大きな空間であれ、小さな空間の親密な場であれ、そこに存在するあらゆるコミュニケーションのかたちを模索してきた表現者たちからは、メイン・メディアでは拾いきれない悲鳴が届いている。ミラノ在住の作曲家、杉山洋一さんが綴った日記「水牛のように – しもた屋之噺」(*7)では、残酷な現実と背中合わせの緊迫した日常を綴りつつ、歴史を冷静な目でみつめる精神の強さに息をのんだ。まるで戦時の作曲家たちの往復書簡を読んでいるようで、私自身は、杉山さんの文章に触れ、彼らの日記の重さを史料としてでなく、現実の問題として肌で実感した。ステージナタリーが連載した「その時、どう思い、何をしましたか」(*8)というインタビュー特集には、それぞれの表現者たちが受けた衝撃や戸惑い、怒りとともに、試行錯誤のなかで、演劇や音楽のかたちが生まれつつあることに光をみた思いがした。その後も、リモートでの合奏や合唱の試みや、仮設の映画館の試み(*9)など、様々な発想が生まれている。様々な場面を「イメージする力」はアーティスト本来の資質であるが、それを表現につなげていく真摯な姿に感じ入った。そして、あらゆる方向性を志向し、システムに飲み込まれない表現の多様な生命力に接し、私たちの社会はこれまでも歴史を記憶し、前に進む力を得てきたことを想起する。

[風化した時間に熱を取り戻す]
一方巷では、貴重な映像や舞台が無料のライブストリーミングで数多、解放されはじめている。意欲的な試みの一つとして素晴らしいと思いつつも、手に届かない「生」のインパクトを求めて、どこか冷めてしまっている自分がいる。そんな思いのまま、無料で配信された一本のライブを観た。身内のライブで恐縮だが、ミュンヘンを拠点に活動してきた音楽家の姉、大田麻佐子によるもので、「Haiku-la-vier」と題されたそのライブは、もとは5月にミュンヘンで上演される予定だったものだ。(*10)プログラムは、芭蕉や蕪村らの俳句とモーツァルト、宮城道雄、ショパン、ラヴェル、小山清茂、武満、クルターク、クープラン、バッハのピアノ作品とを組み合わせたもの。「俳句は自然と我々の間にあり、季語がある」という説明で、日独英で俳句を詠んだ後に、作品の既存のイメージに広がりが生まれる点が興味深かった。常時150名(のべ700名)ほどが参加したYou Tubeライブのチャットでは、リアルな反応を通して、国境を超えた聴衆の不思議な繋がりを感じたのも新鮮だった。ドイツではひと月に及ぶロックダウンの状態が続いていたが、ライブ配信を決めた理由と感想について次のように話してくれた。「次々と中止・延期が決まるコロナ冬眠のような状況のなか、季節を感じる俳句のプログラムで、風化してしまったコンサートにも、自分自身にも結末をつけたかったのです。結果的に、コロナのバキュームのような圧力にあらためて気づきました。そして、自然のなかで演奏できたことに感謝しています。」

舞台に立てずに心身疲弊している芸術家に共感し、その活動を支える方法は、ポスト・コロナの時代にも、グローバルに共通した課題になっていくだろう。その仕組みづくりは、チケットの売買から、芸術家をサポートする仕組みづくりまで、有事に備えて考えなければならないだろう。そして、社会全体として、経済がまわらず不寛容が吹き荒れる事態だからこそ、理性の力、言葉の力をあらためて見直したい。この状態を真摯に言語化し、記録していくことを心がけていくことにも意味はあると思う。せめて、コロナが収束した時に、ヴォルテールのカンディードが放った最後のセリフ「自分の畑を耕そう」と、前向きになれるだけの気力をすべての人が持てるために、自分に何ができるのかを考えていくためにも。

(2020/5/15)

  1. 中村真人氏のブログ「ベルリン中央駅」:「藤野一夫氏による論考『新型コロナ危機に対するドイツの文化施策』」
  2. 岩波新書編集部:藤原辰史:パンデミックを生きる指針――歴史研究のアプローチ
  3. 「ENCOUNT」編集部:坂本龍一「確実に世界は変わる」危機的状況下の文化・芸術、そして自身のこれから
  4. ライシャワー日本研究所:研究論文出版:「マリアン・アンダーソンの1953年の日本コンサート・ツアー:トランスナショナルな歴史」
  5. Vanderbilt News:Workshop to examine impact of global marketplace on Western classical music
  6. (本誌2020年4月15日号)緊急特別企画|びわ湖ホールプロデュースオペラ「ニーベルングの指環」第3日《神々の黄昏》|能登原由美
  7. 杉山洋一「水牛のように – しもた屋之噺(220)」
  8. ステージナタリー:そのとき、何を思い、何をしましたか? 第1回:劇作家、演出家、俳優、ダンサー、プロデューサーたちが語る──長い眠りについた劇場、そして舞台人たちの思い
  9. 合同会社 東風:仮設の映画館
  10.  http://www.masako-ohta.de/Aktuelles.html ライブは無料でyoutube配信されたが、投げ銭公演のようなかたちで、寄付を募る一文を掲載した。