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パリ・東京雑感|重い喜び、軽い喜び| 松浦茂長

重い喜び、軽い喜び
The Difference Between Happiness and Joy

Text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)

1年近く前、『ニューヨークタイムズ』のコラムニスト、デイヴィッド・ブルックスが書いた「幸福と喜びの違い」というエッセイが妙に気にかかっていた。新型コロナで世界中が苦しんでいる最中に、幸福とか喜びとかに気持が向けられるだろうか、とためらったが、日常の何気ない幸福を失った今のようなときこそ、かえって喜びを考えなおすチャンスかも知れないと、じっくり読み直してみた。

「幸福はたいがい自己の勝利から生まれ、喜びは自己の超越から生まれる。幸福は自己実現であり、喜びはあなたの心が他者の中にある時やって来る。おむつを取り替え、医者に連れて行き、不安な夜を重ね、キッチンでダンスし、裏庭でプレイし、一緒にテレビを見た長い年月。喜びは、あなたが差し出した無償の行為に対し、人生があなたに贈るプレゼントなのだ。」

映画『ある夏のリメイク』より

去年早稲田大学で、『ある夏のリメイク』という映画を作った二人の若い女性監督、セブリーヌ・アンジョルラスとマガリ・ブラガールを囲むシンポジウムがあった。映画は道行くフランス人に片っ端から「あなたは幸福ですか?」とインタビューし、そのうち何人かに幸福について語り合って貰うというドキュメンタリー。驚いたのは、ほぼ全員が「幸福」と答えていることだ。「なぜ幸福?」と聞くと、「良い天気だから」とか「病気ではないから」とか「不幸じゃないから」とか、答えは軽い。どうやら幸福といっても特別恵まれた人生を指すのではなく、大きな苦難がなければ<幸福>なのだ。日本政府の世論調査が「現在の生活に満足していますか?」と聞くのと同等かも知れない。去年の調査ではこの質問に日本人の73.8パーセントが「満足」と答えている。

フランス人の文学教授に、「幸福と喜びはどう違いますか」と聞くと、「幸福は物質的、喜びは精神的」と即座に答えた。でも、日本人は逆に、幸福を精神的、喜びを物質的に感じてはいないだろうか。宮沢賢治が「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と書いたとき、物質的幸福だけを思ってはいない。続けて「新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある/正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」(宮沢賢治『農民芸術概論綱要』)と書いているのだから、賢治は世界の全ての人の苦しみを自分の苦しみとして引き受けたのだ。だとすると、ブルックスが幸福を「自己実現」と定義したのと正反対で、むしろ「自己超越」=喜びの定義に近い。

どうやらヨーロッパの人が喜びと言う言葉を使うとき、僕らとはかなり違うものを感じているらしい。僕らの喜びよりずっと重いのだ。去年、パリの教会で復活祭の深夜ミサに出たときのこと。暗闇の会堂で、一人一人が手にしたロウソクの光を頼りに歌う長いパートが終わり、ぱっと照明が戻り、司祭が語り始めた。「復活のこの厳粛な喜びを……」司祭はgraveという形容詞を使った。(英語と発音は違うが意味は同じ)。重病とか深刻な危機とかに使う形容詞を喜びに使うのは僕には驚きだったが、フランス人にとっては不自然でないらしい。フランス語の喜びは厳粛でもあり、深刻でもあり、重大事でもあるのだから。
一昨年、喜びの深さに気づいたある経験について、メルキュール・デザールに書いた。一部を再録させて頂く。20代からヨーロッパと関わってきながら、70歳過ぎて初めて気づくなんて、恥ずかしい気がするが。

10年ほど前から、パリに来ると近所に住むお年寄りの神父、ポールさんに聖書の手ほどきをしてもらっていた。あるとき、イエスの「私は良い羊飼い」という言葉に触れ、ポールさんはエゼキエル預言書を読み始めた。「牧者が、その散っている羊とともにいるとき、群を心にかけているように、私(神)は、自分の羊を世話し、霧と闇の時に散ったところから、彼らを救い出す。……」。ポールさんはいつものように、抑揚のない淡々とした読み方だったが、次第に声がしめってきた。見ると目が潤んでいる。読むうちに、胸がいっぱいになり、抑えきれなくなったのだ。

そのとき、僕は意識しなかったが、ポールさんからあふれ出たものが、目に見えない川の流れのように僕の中に流れ込み、何かを変えてしまった。それが何だったか気付いたのは、ベートーヴェンの田園交響曲を聞いたときだった。嵐のあと野原に光が戻り、鳥がさえずる穏やかな情景を聞くうちに、今まで経験したことのない歓喜に捉えられた。歓喜と呼ぶにはあまりにも穏やかな、しかし圧倒的な強さで僕を包みこむ何か。「これだ!ポールさんが泣いたのはこれだったんだ」。自然が客体として向こうに美しく見える、というのではなく、全自然、宇宙全体が、輝き、満面の笑みを浮かべて迫ってくる。<自然は愛の仮象なのだ
好きな作曲家・演奏家との出会い|生まれ変わらなければ聞こえてこない

しかし、あのときポールさんからあふれ出たものを、日本人は喜びと呼ぶだろうか?喜びでは軽すぎる。むしろ優しさでは?他者を思いやり、尽くす生き方から醸し出される無私の優しさ……慈愛、あるいは慈悲と呼んでも的外れでない。とすると、<喜>よりも<悲>の中に、日本人は深い優しさを感じ取っているのである。しかし、そうした慈悲に生きた人生へのプレゼントをヨーロッパでは喜びと呼んで来たのだ。
涙―優しさー喜びの切っても切れない連関をロマン・ロランは見事にくみ取っている。ベートーヴェンの『第九交響曲』終楽章、『歓喜の歌』が聞こえてくる瞬間だ。

「歓喜の主題が始めて現われようとする瞬間に、オーケストラは突如中止する。急な沈黙が来る。歓喜の歌の登場へ、この沈黙が一つの不思議な神々しい性格を与える。実際、この主題は一個の神ともいえるのである。超自然的な静けさをもってひろがりながら、歓喜は空から降りて来る。その軽やかな息のそよぎで、歓喜は悩みを愛撫する。苦悩から力を恢復して立ち上がる心の中へ喜びが辷り入るときに、それが与える第一の感銘は情愛の深さである。――『その優しい眼を見つめていると泣けて来る』とベートーヴェンの友が彼についていった感情を今ここにわれわれも感じさせられる。」(ロマン・ロラン『ベートーヴェンの生涯』)

ポールさんの涙が僕に<感染>するまでは、ベートーヴェンの泣けてくるような「優しい目」を感じ取ることはなかった。それまでは、涙―優しさ―喜びの連関に対する感性を持っていなかったのだ。
ベートーヴェンの晩年の弦楽四重奏曲は、一筋縄では行かない。しみじみと心に響く箇所があるかと思うと、妙に軽くすり抜けてしまう。全体がどうもしっくりしない。ところが、去年パリに置いてあるブッシュ・クァルテットのLPレコード(オリジナルはSP)を久しぶりに聞いて呆れてしまった。「なんだ、こんな簡単なことだったのか!」あの軽すぎて捉えどころのない音楽は、喜び一杯で自我の質量を失った無重力散歩。難解どころか、単純率直な心境の吐露だったのに、見当違いの聞き方をしていたのだ。演奏者がベートーヴェンの喜びを共有できれば、全ては呆れるほど簡単になる。音楽を外側からなぞると複雑奇怪な曲線に見えるものも、作曲者の魂の躍動に内側から入り込めば、一つの単純な運動として把握できる。1930年代のヨーロッパには、こんな喜びを理解し、表現する伝統が生きていたのである。アウシュビッツとヒロシマの狂気が、喜びを抹殺してしまったのか?(日本の高名なヴァイオリニストは、ラジオで「ベートーヴェン晩年の弦楽四重奏曲が難しいと言われるのは演奏が悪かったせいです。テクニックが進歩したので、現代の演奏で聞けばちっとも難解ではありません。」と解説していたけれど……。)

喜びについて、哲学者は何と言っているだろう?ベルクソンによると、人は生命の意味を正しく理解し、その天命を果たしたとき、喜びが与えられる。喜びとは、正しい生に対し、自然が与えるOKの確かなサイン。「喜びのあるところ、必ず創造がある」とベルクソンは言う。「子供を見つめる母親は喜ばずにいられない。なぜなら、子供は肉体的にも精神的にも彼女の創造なのだから。……生きて持続する作品を創造した芸術家は天にも登る喜びを経験する。」(ベルクソン『精神のエネルギー』)
晩年のベルクソンは、朝日が射すと電灯の光が薄れて見えるように、喜びの耀きによって快楽が色褪せたものになる人間社会を思い描き、「神秘家の直観が広く伝播し、生を混じりけのない単純明快な姿に変容させる――その単純さそのものが喜びに他ならない」(『道徳と宗教の二源泉』)と言う。「喜びとは生の単純さ」。ベートーヴェン晩年の弦楽四重奏曲を解き明かす鍵もこれだった。21世紀の私たちには、単純さも喜びも縁遠くなってしまったけれど、せめて古いレコードをかけて、失われたgraveな喜びの余香に与ろうではないか。疫病のニュースで暗くなりがちなこんなときこそ。

(2020年3月28日)