若林かをり フルーティッシモ!plus|齋藤俊夫

若林かをり フルーティッシモ!plus

2019年2月1日 すみだトリフォニー小ホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 三浦興一/写真提供:すみだトリフォニーホール

〈演奏〉
フルート、バス・フルート(*):若林かをり(全ての曲目を演奏)
エレクトロニクス(**):有馬純寿
合唱:ヴォクスマーナ(指揮:西川竜太)(***)

〈曲目〉
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ:『ソナタ イ短調 Wq.132/H562』(1747年)
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ/サルヴァトーレ・シャリーノ編『トッカータとフーガ ニ短調 BWV565』~独奏フルートのための推敲版~(1703-1707/1993)
サルヴァトーレ・シャリーノ:『フェニキアのイメージ』~増幅されたフルートのための~(2000)(**)
ペロティヌス:『祝福されたる子よ』~フルートとエレクトロニクスによるバージョン~(1220頃)(**)
スティーヴ・ライヒ:『ヴァーモント・カウンターポイント』~フルートと多重録音されたフルートのための~(1982)(**)
ルイジ・ノーノ『息づく清澄』~小さな合唱、バス・フルート、ライヴ・エレクトロニクスのための~(1980-83)(*)(**)(***)

 

2015年から年2回のペースで現代音楽中心のリサイタル「フルーティッシモ!」シリーズを続けてきた若林かをりが、今回は日本現代音楽界の達人たち、エレクトロニクスの有馬純寿と声楽の西川竜太率いるヴォクスマーナと組んでの、フルートリサイタルを超えた驚異のプログラムに挑んだ。

まずはC・P・E・バッハの、時代の音楽がバロック音楽の様式から古典派の様式へと移り変わる時期、すなわち、バロック終期のギャラント様式から、より感情的な前古典派の多感様式に移る時期の音楽である。
バロック的な音の形式美と、古典派的な音の感情美、どちらの方が良いの悪いのと語るのは面白くない。若林の面白さは、前者の部分で重量が限りなくゼロに近い軽やかさで美しい幾何学紋様を描き、後者の部分でしっとりと心を歌いあげ、そしてこの2つの間の、ある種のズレを自分のフルートの可憐さで繋ぐことに成功している所にある。フルートの、そして若林の音の美しさをまずは知る。

シャリーノがフルート独奏用に編曲した、J・S・バッハのあまりにも有名な『トッカータとフーガ ニ短調 BWV565』、冒頭から、そのスケールはフルートではなくパイプオルガン並みであった。音量、音色、フレージング、そしてシャリーノが指定した重音奏法など全てが実に大きく、重い。なのに、主題、自由声部、アルペジオが特殊奏法などあらゆる技術を駆使して自由自在に響き渡る。
通常のオルガンで聴くこの作品からは大伽藍を見上げるような美を感じるが、今回の若林が奏したフルート版は、巨人にのしかかられるような圧倒的な力に満ちていた。超高速とゲネラルパウゼと重音奏法が矢継ぎ早に襲いかかり、最後の短三和音の重音奏法のレの音が鳴り響いた時、舞台上の若林かをりの現実には小さな姿が幻視のように大きく見えた。

フルートの特殊奏法の微細な音をエレクトロニクスで増幅して聴かせる、シャリーノ『フェニキアのイメージ』は、顕微鏡で見る世界とでも言い得るか。顕微鏡で見るのは何も癌細胞のプレパラートやミジンコなどだけではない。道路のアスファルトの表面のような無生物かつ自然なものを拡大すると見える世界、その緻密かつ複雑な「小さな世界の大きさ」を音楽で見たような気がした。

ぐっと時代を遡って1220年頃のペロティヌス(ペロタン)によるカトリックの典礼での行列歌(コンドゥクトゥス)『祝福されたる子よ』は、現代(もしくは近代以降)の堅苦しい清らかな教会からは失われた民俗的・土俗的な感触が強く、それゆえに血の通った祈りが聴こえてくる心地がした。

そして夏から有馬純寿と共に特訓と合宿を繰り返して今回の全10パートを若林が自分で演奏し録音したという(2018年12月1日の同ホールでのレクチャーより)ライヒ『ヴァーモント・カウンターポイント』の、なんというライヴ感!
筆者はこの作品をCDで愛聴していたが、それとは全く異次元の音楽。ライヒのミニマル・ミュージックはオプ・アートや錯視に喩えられることがあるが、いや、それどころではない。ライヴのみが作り得る、音による宇宙的スケールの魔術的遠近法。ズラリと並んだスピーカーから湧き出すのは星雲か、その中を行く若林は超光速の宇宙船か。濁りや乱れが一切ないまま全パートがビシリとキマって終演した時、圧倒的な感動が会場内から溢れるのを感じた。喝采。

休憩挟んで、若林、ヴォクスマーナ、有馬によるノーノの大作『息づく清澄』、これもまたCDとは全く異なるライヴ体験であった。
バス・フルートとエレクトロニクスの協働はバス・フルート単体、もしくはフルートとエレクトロニクスによるそれとは全く異なり、会場に深淵の闇を作り出す。その闇の中でヴォクスマーナの声(こちらもエレクトロニクス使用)が光を放ち……いや、そんな単純なものではない。会場が闇と光との区別が不明瞭になる異空間――そこでは、無神論を通過した上での宗教心とでも言い得るものが自ずから湧いてくる――になったのだ。有馬による音の位置移動も相当に怖いものであり、恐ろしくかつ敬い、気が遠くなりそうで覚醒させられる、曰く言い難い神秘的かつ秘教的な約40分間であった。

人間の生活世界から、微視的世界、また宇宙、神、さらには無神まで、音のパースペクティヴが無限に広がる壮大にして偉大な演奏会であった。

(2019/3/15)