新国立劇場 開場20周年記念特別公演 ベートーヴェン「フィデリオ」|平岡拓也

新国立劇場 開場20周年記念特別公演 ベートーヴェン「フィデリオ」

2018年5月20日 新国立劇場 オペラパレス
Reviewed by 平岡拓也(Takuya Hiraoka)
Photos by 寺司正彦/写真提供:新国立劇場

<演奏>
演出:カタリーナ・ワーグナー
ドラマトゥルク:ダニエル・ウェーバー
ドン・フェルナンド:黒田博(バリトン)
ドン・ピツァロ:ミヒャエル・クプファー=ラデツキー(バリトン)
フロレスタン:ステファン・グールド(テノール)
レオノーレ:リカルダ・メルベート(ソプラノ)
ロッコ:妻屋秀和(バス)
マルツェリーネ:石橋栄実(ソプラノ)
ジャキーノ:鈴木准(テノール)
囚人1:片寄純也(テノール)
囚人2:大沼徹(バリトン)
合唱:新国立劇場合唱団(合唱指揮:三澤洋史)
管弦楽:東京交響楽団
指揮:飯守泰次郎

<曲目>
ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」(全2幕/ドイツ語上演/字幕付)

 

新国立劇場が会場20周年の節目に放つ、同劇場2本目のプロダクションとなる『フィデリオ』は、バイロイト音楽祭総監督を務めるカタリーナ・ワーグナーの手に委ねられた。さて、一体どんな仕掛けが出てくるのか―と身構えて客席に座ったが、正直なところ第1幕は「これがカタリーナ?」と思うほどに穏健だった。しかし、いくつか嚥下し辛い要素も散りばめられていた。その点と点が第2幕では線を結び、恐るべき方向へ結実していったのである。演出家の強烈な自意識にあてられ、終演後の喝采とブーイングの対立を想像し、筆者は終幕の合唱を聴きながら胸が躍った。事実、客席は容認派と反対派で猛烈に割れた。

ピットから『フィデリオ』序曲が意気軒昂に響く間、既に舞台は露わになっており、人物も動いている。舞台は新国立劇場の装置を活かした3層構造をとり、物語は3階から始まる。ジャキーノの求婚をあしらうマルツェリーネ(ロッコの娘)はピンクの装いと花に包まれた中央の部屋で人形遊びに余念が無く、その左側の部屋ではレオノーレがまさにフィデリオへ変装すべく着替えを行う。隠し扉の向こうには政治犯として囚われている夫フロレスタンの肖像も掛けられている。右側の部屋は更に2層に分割され、上部には刑務所長ピツァロの部屋(彼はなんとレオノーレの肖像を隠している。政敵フロレスタンは恋敵でもあるのだ)、下部にはロッコとジャキーノの作業部屋がある。看守長とその部下である二人は、囚人たちから回収した服に入っている小銭を漁る。実に「卑しい」。囚人に外の空気を吸わせようという提案も彼らの「やりたい放題」の延長線上に置かれており、それがピツァロに発覚すると彼ら(マルツェリーネも含む)は所長率いる男たちに激しく殴打される。刑務所内の恐怖政治は徹底されているのだ。レオノーレはアリアを歌いながら彼への敵意を燃やし、壁に写るピツァロの影を何度もナイフで刺す。
2階は政治犯フロレスタンの独房(テーブルと椅子が与えられているので、ある程度厚遇されているのだろう)になっており、グールド演じる彼は第1幕から聴衆の前に姿を現している。彼はひどく憔悴しているが、壁に花や女性の絵を描いている。これらの絵は、上層階から地下牢に時折差し込む光の女性像(実際は人形遊びに堕するマルツェリーネ)に触発されたものだが、マルツェリーネらが先述の通り激しく痛めつけられた後は、多くの絵を消してしまう。無力なフロレスタンは女性による救済を信じ、それが打ち砕かれたことに絶望したのだ。なお、最下層に設けられた囚人の牢獄は非常に暗く、先述した合唱場面においても檻から少し出るのみだ。日の光とは到底無縁である。最後は次幕で直接対峙するフロレスタンとピツァロにスポットが当たり幕を閉じる。

第2幕はフロレスタンのアリアに始まるが、様子がおかしい。彼は残しておいた少女像に天使の羽を書き加え、ついには床板を剥がして自ら墓穴を掘り始める。そして、ピツァロに命じられてフロレスタンの墓穴を掘るべくロッコとフィデリオが独房に降りてくる箇所から、ドラマは大胆に動き出す。フィデリオに男装しているレオノーレは力強く独房の柵を引き抜くが、作業中にカツラが取れてしまい突然狼狽する。それを見たロッコは驚き、またフロレスタンが壁に書いた少女像との酷似にも気づく。大臣の到着前にフロレスタンを亡き者にしようとするピツァロが現れると、フィデリオはすばやく夫に突きつけられたナイフを取り上げ、自らが妻レオノーレと宣言する(これは台本通り)のだが、大臣の到着を告げるトランペットが響くと形勢は逆転。ピツァロは易々とレオノーレからナイフを奪い返し、あっさりとフロレスタンの腹を刺す。夫婦の喜びを高らかに歌う二重唱(”O namenlose Freude”)は絶望の淵からの叫びとなり、続いて挿入される『レオノーレ』序曲第3番の最中にはレオノーレがピツァロに蹂躙された末、彼女も脇腹を刺される。二人の動きを封じたピツァロは序曲の演奏中に独房の入り口に石材を積み上げ、部屋そのものを封印して隠蔽を謀る。再度高らかに響くトランペットの何と虚しいことか。だがオペラはまだ続く。レオノーレとフロレスタンは封鎖された独房で手を取り合い、自分達の状況とは正反対の歌詞を最後まで歌うのだ。一方、フロレスタンに扮するため彼の外套を奪ったピツァロは、自室に駆け戻ってレオノーレの肖像をしばし見つめた後、最下層の牢獄に現れる。その隣にはご丁寧に偽レオノーレ(愛人か?)もいる。ロッコやジャキーノ、マルツェリーネは事勿れ主義で彼らに口出しをしない。偽の夫婦は囚人を牢から解放し、彼らの妻たちもその歓喜に合流する。そして舞台奥に突如現れた光の下へ群衆は進んでいくのだが、そこで何と再び牢が閉じられ、彼らはもろとも一網打尽にされてしまう。舞台中央では大臣ドン・フェルナンドと偽フロレスタンが対峙し、ほくそ笑んで幕。

何という救いのない舞台だろうか。フロレスタンが信じた「女性的なるものによる救済」、レオノーレが待ちわびた「大臣の到着」―これら「機械仕掛けの神(Deus ex machina)」による状況の好転一切がこの演出では否定される。それどころか、「神の裁きは正しい!」と高らかに歌う合唱までもが、最後には権力のもとになす術無く敗北するのだ。『トリスタン』『アイーダ』を思わせる箇所も織り交ぜ、21世紀の東京でこの舞台をカタリーナ・ワーグナーが創ったということを驚嘆と畏怖と共に筆者は受け止めたい。明快な勧善懲悪が描かれ、神を出演者総出で賛美して終わる理想主義的な『フィデリオ』を好む聴衆は、きっと強烈なブーイングを放ったに違いない。しかし考えてもみたい。現実の世界そして日本は、この『フィデリオ』で描かれた救いのない結末へと一歩ずつ進んではいないだろうか?カタリーナは「『フィデリオ』のテーマはどの時代にも起こりうること」と語る。幾層もの痛々しい裏切りは、聴衆みなが注目するオペラの結尾に向けて周到に展開された。ベートーヴェンの力強い音楽に陶酔しつつでもよい、悲惨な現実を直視せよ、目を背けてはならぬ―そう演出家は説いたのかもしれない。
新国立劇場合唱団、飯守泰次郎指揮する東響、そしてグールドやメルベートら一流の歌手による音楽面も水準以上だったが、流石に今回は舞台の力が強烈過ぎたのである。

(2018/6/15)