パリ・東京雑感|誘惑vsセクシュアル・ハラスメント ドヌーブらの#MeToo批判|松浦茂長

誘惑vsセクシュアル・ハラスメント ドヌーブらの#MeToo批判

text by 松浦茂長(Shigenaga Matstuura)

「私たちは口説く自由を擁護する。それは性の自由に不可欠であるから」という冗談みたいなタイトルの投稿が『ルモンド』紙に載り、文書に署名した100人の女性の中にカトリーヌ・ドヌーブが入っていたので、世界的なニュースになった。
ハリウッドの映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインから性関係を強要されたという女優が続々と名乗りを上げたのをきっかけに、フランスでもセクハラ暴露の嵐が巻き起こっている。この#MeToo(フランスでは#BalanceTonPorcブタをたたき出せ)運動高揚のさなかに、ドヌーブらの投稿は「糾弾された男は、20年、30年前の<不謹慎な振る舞い>を告白し、許しを請うよう強制される。誰も彼もが検事か刑事になったみたいに、プライバシーの領域にずかずか侵入し、皆の前で告白しろと迫る。全体主義社会の空気……」と決めつけたのだから大変だ。「女性への侮辱!」「性暴力を当たり前と見なすのか!」など、猛烈な抗議の声があげられた。
ただ、『ルモンド』編集者によると、掲載後48時間に『ルモンド』に寄せられたメールは、「よく言ってくれた。ルモンドありがとう」「ドヌーブありがとう」など肯定的な意見がほとんどだったそうだ。『ルモンド』自体は#MeToo運動支持を掲げ、特別チームを編成して取り組んでいたのだから、編集方針に反する投稿を載せて感謝されるのは皮肉な話ではないか。メールを寄せたのは定期購読者、抗議の声はソーシャルネットワークが圧倒的だったので、『ルモンド』は、この奇妙な現象を「ソーシャルネットワーク愛好者と新聞読者の間に深い溝ができたことの表れ」と分析している。SNS派と新聞派では思考の波長が違うのだ。
ソーシャルネットワークでとりわけ激しい怒りがぶつけられたのは次の一節、「職場で部下を率い、男性との給料の差を許さない女性が、地下鉄でさわり魔にあっても動揺しないことは可能だ。痴漢は犯罪に違いないが、深刻な性的不幸の表れと見なし、やり過ごすこともできる」。この挑発的な主張の著者は、おそらく女性が「永遠の被害者の立場」にこだわるのを我慢できない過激なフェミニストだろう。被害に遭って深い傷を負った女性にとって残酷な言い方だ。この一節に限り、ドヌーブは被害者を傷つけて申し訳ないと謝罪し、100人の署名者の多くも「距離を置く」と弁解せざるを得なかった。

フラゴナール かんぬき

それにしても「口説く自由」とは一体何のこと?投稿の説明は難解だ。「哲学者ルーヴェン・オジアンは芸術創作に不可欠として、人を傷つける自由を擁護している。これにならって、私たちは性の自由に不可欠として、口説く自由を擁護しよう。言い寄られてノンという自由は、口説く自由なしには成り立たない。私たちは、この口説く自由に対し、犠牲者の役割に閉じこもることなしに、もっと別のやり方で答えるすべを知るべきだと考える」。

グルーズ 毀れた瓶

「口説く」と訳した元のフランス語importunerは「迷惑をかける」というような広い意味があり、少々の迷惑は大目に見る寛容さがなければ、性の自由は枯れ果てるといいたいのだろう。
難解なこの文章を読み解くのに、アメリカのキャンパスで何が起こっているかを知るのが役立ちそうだ。イスラム研究者として名高いオリビエ・ロワによると、アメリカの大学で展開されている反セクハラ・キャンペーンは倫理的アプローチではなく、権威主義的教育なのだそうだ。「性の新規範は、あたかも人間は自分でその問題を理解する能力を持たないという前提に立って作られたかのように、学生は振る舞いと発言についての新コードを覚え込まなければならない……。正しい性的振る舞いを身につけるため、こんな実習授業が必修となった。ジョンは立って身動きせずにサラに向かって<君の肩に右手を置いてもいい?>と聞き、明瞭かつ確実なイエスの回答が得られるのを待つ。次に<サラ、君の肩に左手を置いてもいい?>――明瞭、確実な回答……数日のセッションの後、彼らは結婚し、たくさんの子供ができる。」
性の新規範はフランスにも及んで、投稿に署名した作家の何人かは「性と愛について度の過ぎた表現を控えてほしい」とか「セクシスト的表現を避けて」とか「女主人公の被るトラウマを強調して」という注文を編集者から突きつけられたそうだ。
性のコード化の行き着く先は?「スウェーデンでは今年7月以降、明白な同意のない性関係は法律で禁止される。」「『眠りの森の美女』の王子が相手の承諾なしにキスするのはセクハラの疑いをもたれるから筋を手直しする。」「カルメンがドンホセを殺して幕になる。」……ジョークとしか思えないような実例だが、僕が去年テレビ中継で見た『カルメン』は、精神病院でうつ病患者(ドンホセ)治療のため、妻(ミカエラ)と病院スタッフ(カルメンその他)が患者の欲望を復活させる演劇療法を試みるという演出。文学も演劇も、いまは犠牲者の立場を最優先せざるを得ないというだけでなく、誘惑という言葉が理解不能になった。一つの文化が死にかけていることの表れなのだろう。

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オリビエ・ロワはこう言う。「諸文化は男の暴力性を決して見落とさなかった。すべての文化は、その暴力性を方向付けたうえで正当化する戦略を発達させた。体面から誘惑まで、私たちの西欧社会は男らしさを社会化し、さらに美化することを知った。」
男らしさは荒々しさと同義語のように聞こえるが、文化は巧妙にそれを和らげる。半世紀も前のことだが、僕はフランスに留学して、男たちが男臭くない、むしろ女性的と言いたくなるくらい当たりが柔らかいのに驚いた。あれが暴力性を正当化する戦略の成果だったのだろう。
スイスのフリブールという小さな町の大学に移ったとき、同じ寮のイタリア人学生とよく散歩した。あるとき彼が「きれいな女性が来た。声をかけなければいけないけれど、この服では失礼だ。諦めよう」と無念の表情。ラテン文化では、女性への接近が、女性への敬意の表現に結びつけられ、<美化>されたのだ。イタリアに留学した歌手の岡部多喜子さんが、「イタリアの男性は女とみるとすぐ話しかけてくるけれど、ちっとも嫌らしくないのよ」と懐かしそうに話してくれたのも、<美化>の伝統が生きていた証拠だ。
パリ在住の岸惠子さんをレストランに招いたとき、隣のテーブルで一人で食べている男が岸さんに話しかけてくる。こちらは、「『エラン』という婦人雑誌を出すに当たって、創刊号はぜひ岸惠子特集にしたい。岸さんのマネージャーに断られたけれども、直接会って絶対引き受けさせろ」という東京からの命令だったから、真剣な顔で食事していたはずだが、隣人はお構いなし。アウラを放射する女性を見かけて声をかけなかったら非礼に当たるのだろう。

声をかける方もかけられる方も、その意味を取り違えない――文化的了解が成立する限り「口説く自由」が正当化される。フランス人はséduction誘惑という言葉が好きだ。日本語だと誘惑は女に使うことが多いが、フランス語のséductionは男に使うし、性的な意味でなく大統領の演説に陶酔したり、美しい音楽に魅了されたりするときも言う。文化の領域の語彙なのだ。
しかし、共通の文化了解が失われたとき、口説きはセクハラになる。
プリンストン大学のジョン・スコット名誉教授は「フランス人はジェンダー関係についてお堅いアメリカ人とは違うという説が古くから信奉されてきました。これはフランス人の考える誘惑と関係あります。セクシュアル・ハラスメントがジェンダー関係の言い換え(オルタナティブ)であるのと同じように、誘惑はジェンダー関係の言い換えなのです。」と言う。
フェミニズム研究家、アンジェ大学のクリスチーヌ・バール教授は「誘惑のフランス流理想化とともに、反フェミニズムは国のアイデンティティの一部とさえなっています。プロテスタント―アングロサクソン―フェミニストをひとくくりに<ピューリタニズム>と呼び、ピューリタニズムを敬遠し、距離を置こうとする願望はフランス人特に知識層にはアピールします。」と皮肉る。

いずれにしろ、たとえ文化によって荒ぶる男性性を和らげることに成功したとしても、正常の外にいる男の性犯罪を防ぐ役には立たない。深刻なセクハラに対し、文化は無力だ(フランスは日本よりはるかに性犯罪が多い)。そのうえフランスの女性ジャーナリストの記事を読むと、野暮と見られたくないから、クールな女でありたいから、いやな相手にノンと言えなかった例をいくつもあげている。ロマンティックを称揚するラテン文化は、所詮男性有利の仕掛けなのかもしれない。
とはいえ、女性の気持ちにあまりにも鈍感な日本の男尊女卑の空気が、職場のセクハラの土壌になっていることを考えれば、西欧騎士道以来の女性への敬意と思いやりの文化に全く学ぶべきところがないとは言い切れまい。

(2018年1月29日)