小人閑居為不善日記|神と宇宙とカレーライス――遠藤賢司追悼|noirse

神と宇宙とカレーライス――遠藤賢司追悼

text by noirse

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昨年、ボブ・ディランがノーベル文学賞に選ばれた際、当初は明確な返事を出さなかったことを覚えているだろう。この態度、ノーベル賞になびかない姿勢だとファンは受け取り、「さすがディランだ」と嬉しげに語った。その後ディランは何ごともなかったかのように受賞に応じ、皆が祝福した。
だが、本心ではそう思わなかった人もいるはずだ。権威ある賞であっても、いや、だからこそ、最後まではねつけてほしいと、少しでも考えなかったろうか。

かつてのディランは反体制のシンボルで、宗教とも距離を置いていた。だが激動の60年代を通過し、40代を目前として、突然キリスト教に回心。ゴスペル・ミュージックに転向した。

ゴスペルというと、映画《天使にラブ・ソングを》のような、教会でのクワイアを連想するかもしれない。だが、キリストや神を讃え、教義を歌えば、それだけで広義のゴスペルとなる。
アメリカにはゴスペルを歌うヘヴィ・メタル・バンドやラッパーがたくさんいる。メタルやパンク、ヒップホップはキリスト教とは相性が悪い。だが、若いうちはどうしても過激なサウンドに惹かれるものだ。であれば、サウンドはメタルやラップだが、歌の中身を教義に基づいたものにすればいいのではないか。ひらたく言えばこういった仕組みだ。昔はコンテンポラリー・ゴスペルと呼んでいたが、今は概ねクリスチャン・ミュージックとカテゴリされていて、日本では知名度は低いが、アメリカでは巨大なシーンを築いている。

ディランのいわゆる「ゴスペル期」も同様だ。名うてのミュージシャンを呼び集め、レコーディングに打ち込んだ。ディランが目指したのは、若い頃に好んで聞いたR&Bをベースとした、それまでより幾分「黒い」サウンドだった。

ディランは既に若いと言える年齢ではなかったが、脂の乗り切った、充実した時期だった。70年代前半はあまり結果を出せず批判も浴びたが、その後《プラネット・ウェイヴズ》(1974)、《血の轍》(1975)、《欲望》(1976)と、今でも代表作と呼ばれる作品を連打し、ノリにノッていた。完成したゴスペル・アルバム第1弾《スロー・トレイン・カミング》(1979)もまずまずの評価を受け、今でも傑作と位置付けられている。

ディランは新作をひっさげて、精力的にツアーを廻った。今秋ディランは、未発表音源をふんだんに含んだ「ブートレグ・シリーズ」の最新版として、ゴスペル期の曲を集めた《Trouble No More》をリリース。収録されたライブ音源はどれも質が高く、ゴスペルへのディランの強い意欲を物語っている。

だがツアー先で待っていたのは、観客からのブーイングだった。キリスト教への帰依を説く歌詞が、「反権力」、「孤高のカリスマ」だったディランを好むファンには受け入れられなかったのだ。

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昨年、ツイッターを中心に、「音楽に政治を持ち込むか否か」という話題が駆け巡った。

発端は、フジロック・フェスティヴァルのイベントのひとつに、SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)の奥田愛基氏や、ジャーナリストの津田大介氏が登壇すると報じられたことから始まった。それに対して、音楽イベントに政治を持ち込まないでほしいという意見が巻き起こり、ミュージシャンは政治的発言を慎んでほしいなどという話にまで飛び火していった。

一方、音楽と政治は切り離すことはできない、歴史的に見てもそれは判然としているというような反論が寄せられた。前者は概ね現政権を支持しており、後者はリベラル派と見ていいだろう。意見は平行線を辿り、次第に忘れられていった。

さて、この議論、肝心なところですれ違いが起きているのが分かるだろうか。反論側の意見は、間違っていない。音楽はずっと政治と密接な関係にあった。また、ロックやフォーク、ブルースやヒップホップなど、大衆音楽の多くが、権力と対峙してきた歴史を持つ。「音楽に政治を持ち込む」以前に、音楽は常に政治的なものなのだ。

だが、「音楽に政治を持ち込まないでほしい」という人たちは、歴史的な経緯や物事の正否を問うているわけではない。感情の話をしているのだ。好きな音楽を楽しんでいるときくらい、政治の話をしないでほしいと言うわけだ。感情の話に対し歴史の話をぶつけても、すれ違うのが当然だろう。

その気持ちは分からなくもない。逆に考えてみよう。反体制的なスタンスで知られた音楽家が、突如権力側を肯定するような発言を繰り出し、そうした曲を作りだしたらどうだろうか。「音楽は政治的なものだ」と諭す人たちはすんなり受け入れられるのだろうか。少しでも、「音楽に政治を持ち込まないでほしい」とは思わないだろうか。

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ゴスペル期のディランは、ボーン・アゲイン・クリスチャンに改宗したとしばしば言われる。だがこれは正しくない。ボーン・アゲインとは、信仰のなかった者が、キリスト教徒として「新しく生まれる」ことを指す。この時期のディランは福音派で、どうもヴィンヤード教会(カリフォルニアを中心に展開した福音派教会)に出入りしていたらしい。

時はカーター政権期。リベラルな政策を推進していた民主党政権は、キリスト教右派からも強い批判に晒されていた。そこでレーガンは一計を案じ、中でも激しく民主党を攻撃していた福音派原理主義者のドン、ジェリー・ファルエルと手を組み、政権奪取に成功した。後年にはなるが、ジョージ・W・ブッシュ(父ブッシュ)も「ボーン・アゲイン」し、その結果大統領になれたと言われている。こういった状況を考えれば、リベラル派が多いディランのファンが、ディランの信仰を認め難かったことも分かるだろう。

だが、そもそもディランは、ファンが思い描くほど徹底したリベラル主義者なのだろうか。彼は多くのインタビューで、当時書いた曲がたまたま当時のリスナーにメッセージソングと受け止められただけで、本来意図したものではないと述べている。多少の誇張はあろうが、いかようにも解釈できるディランの歌詞を読むと、分からないでもない。

多少穿って言えば、そのときメッセージソングがウケるからそう仕向けて書いたというのがおおよそのところだろう。同じように、経済政策に失敗した民主党政権にウンザリしていた国民感情を敏感に察知し、盛り上がりを見せていた福音派に同調した音楽を、本能的に制作していた――という面もあるのではないだろうか。ディランは、その時々の時代の空気を、半歩早く予見していただけなのかもしれない。

ディランはロシア系移民の家に生まれたユダヤ教徒だったが、若い頃は伝説的な福音派伝道師ビリー・グラハムに夢中になり、60年代も、新約聖書のイメージを歌詞に折り込んでいる。思わぬ抵抗に直面したディランは、その後福音派教会から足を洗い、ユダヤ教に回帰したと見做されている。だが、未だに敬虔なキリスト教徒という説もある。

秘密主義者ゆえに実際のところは不透明だが、どちらでもよいのではないかという気もする。肝心なのは音楽であって、政治的にどうとか宗教がどうとかで判断すること、それ自体がおかしいのだ。

4

ディランの歌は、日本の若者にもギターを持たせ、フォーク・ムーブメントを形成していった。その中のひとりに、遠藤賢司がいた。

60年代後半の日本のフォークは、政治闘争的な色合いが強かった。遠藤賢司は、そうした政治的なシーンとは一線を引いていた。政治への意識が薄いわけではなく、むしろインタビューやステージでは饒舌だったが、楽曲に露骨に反映させることは慎重に避けた。

遠藤は「純音楽家」を標榜し、宇宙を音楽と対比させ、熱っぽく語った。だが彼の音楽は、大仰なアレンジを施し、壮大なサウンドスケープを構築するようなものではない。時代によってロックやパンク、テクノなど、様々なジャンルを渡り歩いてきたが、基本はアコギ1本の弾き語りにある。それも、シンプルなラブソングが多い。

〈カレーライス〉(1971)は、遠藤賢司の代表曲だ。おそらく同棲しているのであろうカップルの、ありふれた食卓の風景を描いている。
「君」が台所でカレーライスを作っている。「僕」はテレビを見ながら、出来上がるのを待っている。「君」が包丁で手を切って、「僕」は「ばかだな」と思う。

一方テレビで、「誰かがお腹を切った」ニュースが報じられる。言うまでもなく、前年に起きた三島由紀夫の切腹事件を指している。「政治の季節」を感じさせる展開だが、「僕」はのんきに「痛いだろうにねえ」と思う。革命を夢見る学生からすれば、なんとも切迫感のない歌だろう。

だが、重要なのは、「君」が「手を切った」点にある。これは当然、三島の切腹との対比となっている。もちろん包丁で手を切るのと切腹とでは大きく違う。同様に、のどかに食卓を囲むカップルと、皇国復興を夢見て蜂起を呼びかけ、失敗した文豪の間にも、大きな距離がある。

だがふたつは、まったく断絶しているわけではない。生活と政治は、必ず何処かで繋がっている。何処までが生活の領域で、何処からが政治の領土なのか、明確な線引きなどない。
切腹に至るまでの思いや痛みを完全に共有することは難しい。しかし誰しも、簡単な怪我くらいはする。台所で手を切ることの延長線上に、切腹という行為を、死に直面した者の感情を置き、思いを馳せ、想像することはできる。こういった、小さな世界と大きな世界を接続させる手際に、遠藤は非常に長けていた。

遠藤はこう言いたかったのではないか。声高に政治を謳う必要はない。身近な世界について歌うことこそ、「すべて」を歌うことなのではないかと。

遠藤賢司は、去る10月25日、70歳の人生を閉じた。病室でも新作の構想に余念がなかったという。

(2017年12月15日)

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noirse
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