カデンツァ|ピーター・ゼルキンの「ま(間)」|丘山万里子

ピーター・ゼルキンの「ま(間)」

text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

プレスラーのモーツァルトを聴いている時(10/21)、P・ゼルキンの演奏(8/1)を想起した、と評に書いたが、そこにもう少し分け入ってみたい。
二人のモーツァルトは、まるで違った。
プレスラーを私は「これこそがモーツァルト」と言ったが、ゼルキンのそれは、では、何だったか。

父ルドルフの1979年来日時、76歳のベートーヴェン『アパショナータ』を、私は「自分の所在ばかりが気になる演奏とは無縁」で「音が私の指の下でこう弾いてくれと言うので、こう弾いただけです、と言っているような演奏」と感じ入っている。今回のプレスラーの演奏もそう、「全き自然」と書いた。
無論、年齢の熟成からくる境地でもあるが、1984年、息子ピーターの演奏に接し、父がそのように自身を熟成させ得た精神の基盤(古き良きヨーロッパ)は、彼が決して継承し得ないものであり、その“拠り所のなさ”がぴりぴり震え、むきだしになってこちらに触れてくるエキセントリックなベートーヴェンに、ひどく消耗した。
ナチスから逃れたルドルフと、ベトナム戦争に青春期を過ごしたピーターが背負う時代と文化について、どう言ったところで浅薄になる。
ヒッピー、ニュー・レリジョン、東洋志向、前衛性、チベット語「幸福」にちなむアンサンブル「Tashi」の活動などなど、彼を取り巻く時代のあれこれを背景に抽出されてくる音は、そのまま現代精神の混迷を問うように思えた。
「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」。

今回のピーターのモーツァルト、私は「武満みたいだ」と思いつつ聴いた。
端的に言えば、そこにあった時間感覚、「ま(間)」。
流れない、佇む、沈思する、ひとあしひとあし、なんなんだこのテンポ、うー、そこでそんなに溜めるかモーツァルトを、重苦しい、鬱陶しい、思わせぶり、自己耽溺・・・まあ、「存在の耐えられない“重さ”(軽さでない)」をまとう音の「持続」(と呼ぶかどうか)が提示され続けた、と言えよう。
モーツァルトのモーツァルト性とでもいうべきものをぶち壊し、ルーペで覗くようにフレーズを裁断、満員の聴衆が賛否真っ二つの異様な空気(休憩時)となったのは当然だろう。
私は賛でも否でもなく、ただ深く心を動かされた。武満を弾くみたいにモーツァルトを弾いてしまうこのピアニストに。

「武満みたい」については、2011年公演の記憶があった。
シェーンベルクを武満『フォー・アウェイ』に変更、「ピアノに向かったまま数分、じっと動かない。最初の音を聴衆が息を呑んで待つ。この種の作品を弾く時のゼルキンの儀式である。そしてーーーふっと鳴らされる音。掌で慈しむように、弾き始める。低音は深々と柔らかく、高音はクリスタルに輝き、その中間の音は泡立ってキラキラと踊る。さすが。武満の音楽にそっと寄り添い、或は優しく戯れる。」と書き、弾き終えた後の再びの沈黙と不動に瞑目、浸っている。
前後の儀式も含め、ピーターの創出したその世界に、彼の中にある「間」の感覚を私は感取したのだが、当夜のモーツァルトにもそれがあって、つまり私は、これはいわゆる西欧的時間感覚ではないから、モーツァルトでない、とも言えるが、でも彼が明らかに自分のものとしている「間」(生きた間、裁断じゃない、と私は受け取った)から紡がれるこれは、全く独自の、孤高、稀有というほかない音楽の姿だ、と思った。

西欧的時間と日本の「間」(間は空間も含むがここでは時間のみを)を図式化するのは安直と承知の上で、ピーターの「間」、その独自さをめぐりいろいろ考える。あれは何なのか?以下はそのメモ。

時間は人間が便宜上、計量的に概念化したものに過ぎない(時間感覚が風土・民族・言語によって異なるのはインドにでも行けば実感する。直線、波、螺旋、円環などなど)。
西洋音楽(いわゆるクラシック)は人間が適当な寸法で時の流れを切り取ってきて、「はじめ」から「終わり」に向け、明瞭な目的意識と共に音を配列し組み立て、作品という整合性を持った構築物を形成するものだ。
一方、日本音楽の「間」といえば、武満のこの言葉。
「一撥、一吹きの一音は論理を搬ぶ役割をなすためには、あまりに複雑であり、それ自体ですでに完結している。一音として完結し得るその音響の複雑性が、間という定量化できない力学的に緊張した無音の形而上的持続をうみだしたのである。」(『音、沈黙と測りあえるほどに』)
大学の「楽式論」講義で小倉朗氏からはこう教わった(名著『日本の耳』に詳しい)。
日本の音楽家たちはひたすら音を「思いわびる場」として音楽を伝承。一歩また一歩と進んで行く旋律はその緊張を確実にするために静まり返った水面のような静寂を必要とした。静寂をかき乱す一切の音は排除され、音はそのギリギリの節約により、厳しい点と線の音世界となった。「間」の感覚はその節約による緊張を張りつめた無音の時として具現した一形式である・・・。

理屈先行はいかんと思い、「間」を実感すべく、かつて鼓を習ったことがあるが(増本伎共子氏に頼み、ちゃんとした先生についた)、死ぬほど恐ろしい先生で、毎回大音声で怒鳴り散らされ涙目(西洋の拍、発声が体から抜けない。イヨッ、ハッの掛け声の腑抜け、間抜け!)。しばらくは耐えたものの、おさらい会に、などとなりその度、お金がかかるので心も懐も萎え、「間」の体感などには到底至らなかった(西洋音楽と違うことだけは身にしみてわかったが)。

「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」。
我々の「はじめ」について(『“間”の日本文化』剣持武彦著、参照)。
西欧の旧約聖書『創世記』はこう語る。
「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。」
「はじめに神は」と言っているから世界は神の創生なのだが、この「語り」は、人間が神という絶対者の介在によって「時」に「はじめ」を作った。時の流れに一つの点を打って、そこから人間の歴史を始めた、という宣言だ、と私は読む。時を人間の意識が囲いとったのである。
一方、我が『古事記』は。
「天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時、高天(たかま)の原に成れる神の名は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」
で、ポイントは2つある。
一つは「初めて」で、「初」とは、いつの間にかそのことがしみつく「そむ」を同一語源とし、自然発生的状況をあらわす。
また、神は天地の後発で、いつの間にかひらけた天地に神が「成った」、と、これも自然発生的。つまり、この「語り」では、天地も神も歴史の始まりも「いつの間にか自然に成る」のである。
『創世記』と『古事記』の相違は、人がこしらえるのと、自然に成る(人の意識が働かない)という点にあろうか。つまり、我と無我(なんと類型的な)。

いつの間にか成る、といえばすぐに頭に浮かぶのが、鎌倉時代の禅僧道元(日本最初の哲学者と私は思い、愛読)の言葉(『正法眼蔵』)。
「起時唯法起、この法起、かつて起を残すにあらず。このゆえに起は知覚にあらず。知見にあらず、これを不言我起という。」
法が起こると言っても、起という足跡を残すわけではなく、起は知覚知見の対象とはならず、従って知覚者としての我も起こらない(無我)。おのずからなるところに、因も意識も存在しない、と言ってしまおう。
さらに「時」については、
「いわゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。」
「有時みな尽事なり、有草有象ともに時なり。時々の時に尽有尽界あるなり。」
時がそのまま存在であり存在がことごとく時である。事物や事象があるということがすでに時であり、その時その時の時に、存在の全てを尽くし、世界の全体を尽くしている。
とは、一音一音が全てを尽くし(一音成仏)、おのずからなる次の音、みたいではないか(道元が喝破した「永遠の今」につながる思想だ)。

ピーターの「間」に戻る。
その時間感覚はアファナシエフやポゴレリッチとは違う、と私は思う。彼らの時間の歪曲(という言葉は適切でないかも知れぬが)・解体はあくまで西欧的だ。
ピーターのそれが日本的、などとは言わない(上記の乱雑なメモから推して知るべし)。
だが、その独特の「間」は、武満を愛奏し、そのスコアを愛する彼だからこそ、体得したものであろう、と私は思う。
それをモーツァルトに導入するのが適切かどうか。だた、彼はそうしたし、突き詰めてみると、そこに私は「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」という、いつかと同じピーターの問いを聴くのだ。
でも、「ぴりぴりする“拠り所のなさ”」は無く、その代わり、音を「思いわびる間」の静かな姿があって、その分、その問いは、かつての混迷する闇への問いでなく、むしろ光をふり仰いでの問い、となってたちあらわれ、そのことに私は深く心を動かされたのだ。
古希にしてその問いを手放さないピーター。
ルドルフを父に、アメリカを土壌に、価値・文化の複雑・多元・多層に切実に、深刻に、向き合い続けてきたのであろう彼。
それは、混淆する多様性に不寛容な今日世界において、一層深化、一条の光を示しているようにすら思える。
私にとってはそれこそが、ピーターの「モーツァルトでないモーツァルト」、その音楽の稀有、であった。

ところで、プレスラーとピーターは違った。でも、似ているところもあった。
「我執」(「我」でない)が感じられなかった、という点(私には、だ)。
その「我」と「我執」、「自然」と「作為」については、またいつか。
超演(何かを超えた)は、常にこのように、私たちを「問い」へといざなう。
いや、私を、妄想へといざなう。

(2017年12月15日)