パリ・東京雑感|共和国英雄として葬られるシモーヌ・ヴェイユ| 松浦茂長

共和国英雄として葬られるシモーヌ・ヴェイユ          

text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)

シモーヌ・ヴェイユ

シモーヌ・ヴェイユがこれほどフランス人にとって大切な人だったとは知らなかった。亡くなった6月30日の夕方のテレビニュースは、時間を20分延長して、全編シモーヌ・ヴェイユ一色だったし、翌週ルイ14世が建てたアンバリッドで国葬。ここで別れの挨拶をしたマクロン大統領がヴェイユ夫妻をパンテオンに祀ると発表した。ルソー、ヴォルテール、ヴィクトル・ユゴー、キュリー夫妻たちとならぶ英雄として共和国の殿堂入りするわけだが、亡くなって1週間もたたないうちに決まったのには驚いた。しかも、メディアはこれを当然の決定として伝え、異論はまったく聞こえてこない。
逝去から葬儀までの6日間、フランス全体が、静かな高揚状態にあり、全国民が感動を共にした。このエモーショナルな一体感をどう呼んだらよいのだろう?尊敬、称賛、感嘆…どの言葉もぴったり当てはまらない。admirationという語が一番近そうだ。人間の限界を突き抜けた高貴と美を仰ぐとき、私たちの中に生じる晴れやかさ、解放感、魂の底からの喜びがadmirationである。人の死に<喜び>は冒涜的に聞こえるかもしれないが、インタビューされる市民は、涙を流しながら、実に晴れやかな表情だった。哲学者ガブリエル・マルセルが言うようにadmirationは、天が与えてくれる恩寵なのだ。

アンヴァリッドでの葬儀

何人かのフランス人に「シモーヌ・ヴェイユのように、右から左まですべての人に称賛される人は、ほかには誰ですか」と聞いてみたら、あれこれ候補を挙げてみて「ほかにはいない」という結論に落ち着いた。彼女は何が特別なのだろう?

新聞の見出し的に言えば、「20世紀ヨーロッパ史の3つの大きな節目の中心にいた女性」である。①ナチズム=アウシュビッツの生き残り。②女性解放=厚相として人工妊娠中絶を合法化。③ヨーロッパ統一=ヨーロッパ議会の初代議長。しかし、収容所で両親と兄を殺された人が、どうすればドイツを許す気持ちになれるのか?マクロン大統領は、弔辞のなかで、「シモーヌ・ヴェイユがドイツとドイツ人について厳しい言葉を口にしたことは一度もなかった」という近親の証言を紹介している。亡くなった日のニュース番組で、スタジオに招かれたバダンテール元法相(ユダヤ人)は、「どうやって彼女は、ドイツへの憎しみを抑えることが出来たのだろう。私は収容所に入れられなかったけれど、(父親が収容所で殺され)長い間ドイツに行く気持ちになれなかった。」と、シモーヌ・ヴェイユの意志力に敬服していた。彼女の伝記を書いたモーリス・サフランも、「この点がどうしても分からなかったので、何度も質問し、そのたびに当惑させられた。アウシュビッツから帰ったばかりで、なぜドイツとの和解を呼びかけることが出来たのか?私の問いに対し、シモーヌ・ヴェイユはいつも同じ答えしかしなかった。<私たちに選択の余地はありません。私たちは改めて一緒に生きなければならならないのです>」と、深い謎はついに解けなかったことを告白している。

ヨーロッパ議会の初代議長に

しかし、憎しみの克服は、アウシュビッツの記憶の克服を意味しない。シモーヌ・ヴェイユは2009年にサルコジ大統領からレジオンドヌール勲章を授与されたとき、「私が死ぬ日に考えるのはショアのことだと感じています」と語っている。腕に彫り込まれた78651という番号も生涯消そうとしなかった。
1944年4月、ニースに避難していたシモーヌと両親、兄、姉のジャコブ一家はドイツ兵に捕らえられ、女たち3人は家畜運搬列車でアウシュビッツに運ばれた。シモーヌは16歳だったが、ガス室送りにされないため18歳と偽り、列車の発着施設の工事をやらされた。その発着場に40万人のユダヤ人が運ばれ、ガス室に送り込まれたのである。
9か月後、ソ連軍が迫ってきたため、4万人を<死の行進>に出発させた。雪の中を70キロ歩いたあと、無蓋貨車でマウトハウゼンに運ばれ、そこから8日間飲まず食わずの移動。「私たちは貴重な飯盒を持っていたので、そこに雪を受けて飲むことが出来ました。私たちの列車がプラハの下町を通過したとき、町の人たちはまるで死体が積み重なったような光景にショックを受け、窓から私たちにパンを投げてくれました。」一行はベルゲンベルゼンで降ろされ、シモーヌの母はその春チフスで亡くなる。間もなく戦争が終わるが、父と兄は帰ってこなかった。

クロード・シャブロル監督の『主婦マリーがしたこと』という映画があった。第二次大戦中のフランスの田舎が舞台で、隣の女性の妊娠中絶を手伝ってやった主婦が、堕胎の腕に自信をもち、やがて闇の仕事で稼ぐ魅力にとりつかれ、最後は死刑になる。実際ギロチンにかけられたマリー=ルイーズ・ジローをモデルにしたストーリーだ。
中絶に対する拒否感は戦後も強く、僕が駆け出し報道部員だった1970年代はじめのフランスの新聞雑誌には、金のあるフランス人がイギリスやオランダで手術を受ける話、中絶のためのチャーター便の話など、日本人には理解しにくい記事があふれていたのを思い出す。
1974年、若きジスカール=デスタン大統領は、中絶合法化を決断し、シモーヌ・ヴェイユに白羽の矢を立てる。友人の家に夕食に招かれていた最中、首相官邸に呼び出され、「(シラク首相から)厚生大臣として入閣してほしいと言われました。でも私は司法が専門で、健康や病気は門外漢です。散々迷った末、<とんでもないことに首を突っ込もうとしている、馬鹿なことをしでかすだろう>と自問自答しながら、引き受けました」と回想している。当時議会は男性議員481人に対し女性議員は9人。女性大臣は1947年以来初めて。しかもシモーヌ・ヴェイユは議員でないから、議会討論の経験もない。
彼女が中絶法を提出すると知って、友人の中には絶交したり、口を利くのを拒否したりする者も多かった。社会の空気がそんなだったから、議場での攻撃は、彼女が恐れたよりはるかに激烈で、「ナチよりひどい」とか「焼却炉に胎児を投げ込むような」といったユダヤ人虐殺を連想させる汚い言葉まで浴びせかけられた。アウシュビッツの生き残りに向かって<お前のやることはナチの悪行より悪い>と決めつけるほどの憎悪を、シモーヌ・ヴェイユはどう受け止めただろう。机に突っ伏して泣いているように見える写真があるけれど、彼女は泣いたと認めないそうだ。ヴェイユ厚相は、女性には自分の体を自由にする権利がある、といったフェミニズムの主張は避け、毎年30万の闇の堕胎が行われ、法と乖離した現実を直視するよう訴えた。「演壇に立つ彼女の勇気と品位のおかげで、法案は可決された」とジスカール=デスタン元大統領は回顧している。
有名な議会演説は「進んで中絶する女性は一人もいない」に始まり、女たちの「恥辱」「孤独」「匿名性」に触れ、「いまこの抑圧的法律の改正に反対する人たちのうち、いったい何人が苦境に陥った女性の支援に心を砕いているでしょう。いったい何人が、独身の若い母親が最も必要としている思いやりと精神的支援を与えることができるでしょう。」と、きれいごとを言う男たちの偽善を糾弾している。マクロン大統領の弔辞は「彼女はしばしば最も強い者に牙を剝き、弱い者にはいつも優しかった。彼女が女性を擁護したのは、彼女たちが女性だからではない。男の力によって彼女たちが辱められているからです。」と、シモーヌ・ヴェイユのフェミニズムを定義している。

まだうら若い司法官時代の仕事ぶりも、他人の苦しみを敏感に感じ取り、放置しておけない彼女の資質を示している。1960年代はじめ、アルジェリア戦争が続いているときに、法相のもとで刑務所を担当し、独立運動の女性テロリストたちが、フランス管理下のアルジェリアの刑務所で、拷問、強姦、栄養失調などの虐待を受けているのを見た。一般市民がテロで殺され、憎しみと恐怖が渦巻いている中で、テロリストの人権を守るには?シモーヌ・ヴェイユは、保守的政府と粘り強い戦いを続け、彼女たちをフランスの刑務所に移し、さらに、死刑判決を受けた囚人500人もフランスに移送するのに成功した。いまのヨーロッパで、テロの結果あっという間にイスラム教徒への敵意が広まったのを考えると、それよりはるかに血なまぐさいアルジェリア戦争のさなか、フランス人の敵意の的であるテロリストの人権擁護がいかに困難な戦いだったかが想像できる。
アルジェリアのブーテフリカ大統領は、彼女が亡くなったとき、心のこもった長いメッセージを発表し「アルジェリア国民はその凄惨な国家的悲劇のとき、この偉大な女性が我々に親しく近づき、連帯してくれたことを忘れない」と、感謝している。

振り返ってみると、シモーヌ・ヴェイユは時代より何歩も先を歩いてきた。社会にはその準備がなく、世論はしばしば彼女に敵対したが、正しいのはいつも彼女の方だった。「常に真実の道をさし示した彼女の内的羅針盤は何だったのか?決して間違った戦いをしないということが、どうして可能だったのか?」とマクロン大統領は問い、「その秘密は、かくも根源的な悪の専制を、人生の初めに経験したことの中にある」言った。悪の深淵に落とされた人だけに見える真実がきっとあるのだ。

アンヴァリッドでの葬儀

(『重力と恩寵』などで知られる哲学者シモーヌ・ヴェイユとは別人です)
(2017年7月30日)