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第36回芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会|齋藤俊夫

第36回芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会
The 36th Competition of Yasushi Akutagawa Suntory Award for Music Composition

2026年8月30日 サントリーホール
2026/8/30 Suntory Hall
Reiviewd by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 飯田耕治/提供:サントリーホール

<演奏>
指揮:阿部加奈子
新日本フィルハーモニー交響楽団
キーボード(石川作品):秋山友貴、天野由唯
ソプラノ(中橋作品):日野祐希
混声合唱(山本作品):東京混声合唱団
エレクトロニクス(石川作品、中橋作品):今井慎太郎
音響(石川作品、中橋作品):片桐健順

<曲目>
(第34回芥川也寸志サントリー作曲賞受賞記念サントリー芸術財団委嘱作品)
石川健人:『嗅覚受容体』2台のキーボードとオーケストラのための(2026、世界初演)
  I.Aggressive!
  II.Fluidly
(第36回芥川也寸志サントリー作曲賞候補作品)
中橋祐紀:『And I sole ear(そして私はただ唯一の耳となる)』(2025)
金田望:2群のオーケストラのための『肌と布の遊び』(2024)
山本哲也:『戸外の鳥たちへのトリビュート』合唱と室内オーケストラのための(2025)

第36回芥川也寸志サントリー作曲賞公開選考および表彰
選考委員:岸野末利加、桑原ゆう、佐藤聰明
司会:長木誠司

 

現在の現代音楽において最も問題・争点となるのは、調性如何ではなく、〈ポップであること如何〉だと筆者は見ている。ポップであることとは、必ずしもポピュラー音楽的要素を取り入れることではなく、現代音楽・前衛音楽がポップな形象を形作ることを是とするか否とするか、ということである。〈シリアス音楽〉という現代音楽の別名の語義とズレることを許すか許さないか、ということとも言える。
個人的な見解というか指向を述べさせていただければ、筆者は現代音楽がポップになることには大きな可能性があると見ている。西洋芸術(シリアス)音楽という西洋の民俗音楽の延長形としての現代音楽が、世界の音楽の多数派を占めているポピュラー音楽に吸収されていくことが現代音楽のポップ化であると捉えれば確かにそれは文化帝国主義的な事象であろう。だが、ポピュラー音楽を単一体として見るのではなく、多数の民俗音楽の複合体として見れば、現代音楽とポピュラー音楽は民俗音楽と民俗音楽の邂逅という可能性に満ちている。
あるいは、現代音楽が音楽的論理を突き抜けた先にポップな形を取らざるを得ないのであれば、それを〈シリアス〉という枷にはめて拒絶することはただの可能性の否定であり、時代に対する退行でしかないだろう。

枕が長くなったが、このように〈現代音楽〉と〈ポップさ〉についての考察をまず書かねばならなかったのは、本演奏会始まりの石川健人の委嘱新作『嗅覚受容体』の〈凄みのあるポップさ〉に当てられてしまったからである。第1楽章「Aggressive!」冒頭、キーボード2台がギクシャクとしたリズムでキャラキャラと光を放つ。その光がどんどん複雑に乱反射していくのに、次第に管弦楽が光点を押していく。キャラキャラと輝く音響はポップなのに、その甲高い笑い声は狂気すら感じさせ、恐ろしい。光を放つ各楽器の銘々が他の楽器の光を塗りつぶさないのは作品のエクリチュール、指揮者の采配、管弦楽団の技量ゆえであろう。キーボードとオーケストラがノイズ音を繰り返しクレッシェンドして第1楽章は了。
第2楽章「Fluidly」、弦楽器が透明な響きを広げるのにキーボードがジャラジャラと濁った音を撒き散らす。と、思っていたら弦楽器も奇っ怪、頓狂な音を放ち、キーボードは澄んだ音を発する。やがてキラキラしたエレクトロニクスと風か水のような弦楽器の中でキーボードと管楽器群が漂い、泳ぎ、蠢く。終盤、沢山のパートが時間差、音高差を伴って同型の上行パッセージを重ねまくり重ねまくり、音の物凄い飽和状態に至って、ゆっくりと各楽器の手数が少なくなっていって静かに収まっていき、さらに最弱音まで至って掻き消える。
オーケストラにキーボード、エレクトロニクスを加えての、輝かしいがギロリとした眼光炯々たる〈ポップさ〉、ここに芥川也寸志作曲賞受賞から改めて石川の音楽の未来を見ずにいられようか?

そして芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会であるが、〈ポップさ〉という観点からして、演奏された曲順から外れてまず金田望の作品を評したい。
『肌と布の遊び』、三宅一生の思想や仕事から着想を得たとのことだが、2群のオーケストラが衣、独奏ピアノが身体を表し、ピアノの可愛らしくさえあるフレーズに先導され、ピアノの周りに2群オーケストラがフワリ、フワリとたなびく。耳に聴こえるこの3者の音に加えて、3者のあいだの「空隙」に謎めいた音楽的感興がこみ上げる。ポップな触覚の音楽なれど、石川のギロリに対して、金田はフワリと、実に耳に優しく、心身を心地よく包んでくれる。筆者はファッションには皆目疎いが、こういうファッションは素敵だな、と素直に思った。

現代音楽における〈ポップさ〉とは離れた位置、言うなれば〈伝統的前衛現代音楽〉としてのアイデンティティを固持したのが中橋祐紀、山本哲也の作品であった。
しかし、〈伝統的前衛現代音楽〉という言葉を軽く使えるほど、この2人の音楽は易くない。

中橋祐紀『And I sole ear(そして私はただ唯一の耳となる)』、粘っこくおどろおどろしい弦楽器の上行グリッサンドに始まり……そこから楽想が完璧な連続曲線を描いて推移・展開していき、曲内の場面ごとの記述ができない。ウィーン表現主義が客観的構築性を極めることで主観的表現を可能にしたように、厳とした客観性を突き詰めた上で自らの主観に対峙し内攻する恐るべき現代音楽。ドストエフスキーの小説の登場人物の長大な台詞のように、果てること無く凄い求心力で筆者の魂を引きつけ続け、その力には文章で言う所の改行や改段落といった途切れがなかった。ソプラノ日野祐希の孤独な歌唱を味わいつつ、恐るべき音楽が書かれてしまったと愕然とした。

山本哲也『戸外の鳥たちへのトリビュート』、室内オーケストラの音による静寂が、音による自然を感じさせる。合唱も加わってのこの音楽による自然と我々人間との調和は確かに安らぎに満ちていた。ただ、静寂の中に浮かんだ筆者の耳には、その音楽に、いささか強めの言葉を使うならば、現代音楽的クリシェが潜んでいるとも感じた。この静寂と安らぎの中で今更〈新しいモノ〉を求めるのは野暮かもしれないが、筆者としては不満を抱いてしまったのは正直な感想だ。

プレイベントにも参加した疲れで選考会は遠慮して帰宅したが、選考会がとても熱かったと仄聞して惜しい気持ちだ。中橋祐紀の受賞は妥当だと思うが、他の2人が受賞しても不思議ではなかっただろう。現代音楽の可能性を確かめられた幸福な時間であった。

(2026/9/15)