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パリ・東京雑感|教皇に嫉妬するあまり〈神になった〉トランプ大統領 |松浦茂長

教皇に嫉妬するあまり〈神になった〉トランプ大統領 

Text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura) 

復活祭前夜、光の祭儀のロウソクに点火

アメリカにはクリスマスも復活祭も祝わない教会があるそうだ。聖書の記述そのままを守ろうとするファンダメンタリストと呼ばれる人たち、そのなかでも絶対的純粋を守る人たちからみると、復活祭は異教の春の祭と習合したいかがわしい祭なのである。『ニューヨークタイムズ』のコラムニスト、デイビッド・フレンチは、子供のころからファンダメンタリズムの伝統の中で育ったので、教会は復活祭なし。ひっそりと家庭でイエス・キリストの復活を祝ったと回想している。
だから、大学に行くまで、世間並の教会の儀式を知らなかったのだが、それがかえって幸いしたとフレンチは考える。深い意味が分からない子供時代でなく、大人になって経験したため、発見の驚きが大きかった。中でも、復活祭前夜の儀式が、かれに生涯忘れられない衝撃を与え、「その前と後では同じ自分ではない」と振りかえっている。
儀式は闇の中にはじまる。死の闇である。牧師が1本のロウソクに火をともす。闇をつらぬくひとつの光である。その火は、賛美の歌をうたう信者たちのロウソクにも移されていく。そして、深夜の長い儀式が終わるころ、会堂全体が光り輝く。フレンチは「そこにいるひとりひとりに、冒しがたい気品と尊厳がそなわった」と書いている。 

復活祭前夜の徹夜祭

実はぼくも3年前、パリの教会ではじめて復活祭前夜のミサに出た。実際にやってみると、細くて長いロウソクをまっすぐ持ち続けるのは、容易ではない。傾くと蠟がズボンに垂れそうになるし、油断すると服に火がつく。眠気と闘いながら、2時間ばかりロウソクと格闘した。苦労しただけに、「闇に光をもたらすのは容易ではない」と身にしみて学んだのかもしれない。ともかく忘れられない儀式だった。
それにしても、フレンチは、なぜこの学生時代の思い出を披露する気になったのか? もちろん、今のアメリカの闇があまりに深いからだ。 

アメリカは〈くすぶる灯心〉の国になってしまった。私たちは希望を感じとろうともがいている。私たちは目的を見つけようとしてもがいている。(デイビッド・フレンチ『私の人生を変えた光』〈ニューヨークタイムズ〉4月5日) 

傷つき希望が消えかかっている人びとをさす〈くすぶる灯心〉(イザヤ書42:3)。その火をもみ消しかねない大統領の存在に心を痛めつつ、こんな時こそあの夜の光を想起しよう――いま見えている現実がすべてではないこと、目に見える現実の彼方に、現在の苦悩、悲嘆など霞んでしまうほどの確かな存在が指し示されていることを想起しよう、と言いたいのだ。
深い闇に閉じ込められた若者たちのなかには、切実に光を、現実の彼方の確かな自己を模索する動きが見られるらしい。フレンチが教える大学のキャンパスでも、学生たちが、しきりと彼の信仰について質問するようになったといい、かれはそこに希望を托している。 

フレンチの記事が掲載された4月5日復活祭の1週間前、受難の主日(枝の主日)と呼ばれる日曜日に、ローマ教皇レオ十四世も、〈光〉を語った。
イエスは、かれを殺す計画が進行中のエルサレムに、子ロバに乗って入る。馬に乗った英雄的リーダーではなく、こっけいな入城だ。 

イエスのエルサレム入城(ジョット)

かれの周辺で戦争の準備が進んでいるとき、〈平和の王〉として登場するイエスを見つめましょう。人々が暴力に心をたかぶらせるただ中で、かれはあくまでも柔和です。人々が剣と棍棒を振りまわすただ中で、かれは人類への愛撫として自らを捧げます。闇が地を覆いつくそうとするとき、かれは世の光なのです。(中略)
戦争を拒否する神。戦争を正当化するためにかれを引き合いに出すことはできません。戦争をするものの祈りに、かれは耳を貸さず、祈りを拒絶してこう言われます。「君たちがいくら祈りをくり返しても無駄だ。私は祈りを聞かない。君たちの手は血だらけだから。(『イザヤ書』1:15(教皇レオ十四世、3月29日、受難の主日ミサ説教) 

アメリカのヘグセス国防長官が、この月「イエス・キリストの名によって」戦争勝利を祈るよう、アメリカ国民に呼びかけたばかり。トランプ政権の真剣な呼びかけに対し、「君たちの手は血だらけだから」祈っても無駄だと横やりを入れられては、たまったものではない。親分トランプが、教皇に猛然と噛みついた。 

教皇レオは犯罪に対し弱腰、外交はひどいモノだ。(中略)イランが核兵器を持ってもOKと考える教皇など、わたしは欲しくない。アメリカがベネズエラを攻撃したのはひどい、と考える教皇など、わたしは欲しくない。(中略)合衆国大統領を批判する教皇などわたしは欲しくない。(中略)かれの名は教皇候補のどのリストにも載っていなかった。……もしわたしがホワイトハウスにいなかったら、レオはバチカンにいないだろう。(中略)レオは常識を身につけ、急進左翼におもねるのをやめ、政治家ではなく偉大な教皇となることに焦点を定め、もっとしっかりやるべきだ。Truth Socialへのトランプ大統領の投稿、4月13日) 

ご主人が召使いを叱りつけるみたいな、高飛車な物言い――トランプの人柄をこれほど赤裸々に表わした文章はそう多くはない。

教皇レオ十四世

平和主義がひろく受け入れられている日本社会では、教皇レオの戦争批判に異論はあまり出ないだろう。平和主義が軽蔑されるアメリカでも、教皇はよく言ってくれたと、支持する声が意外に多い。ただ、その根拠として、中世の大神学者トマス・アクィナスを持ち出して、「正しい戦争」の理論を参照するなど、イラン攻撃が悪い戦争である理由を論じなければならない。そのうえで、かくも「正義」からかけ離れた戦争を批判するのは、教会の指導者の義務であると、教皇を擁護するのである。トランプの反撃について、たとえばロス・ダウサットはこう決めつけている。 

批判に対する大統領の反応は、歴史上、教会と国家、教皇と帝国の間でくりかえされてきた通常のせめぎ合いの枠をあきらかに超えている。また、いつものトランプ流アブノーマルの範囲にもおさまらない。そうではなくて、私たちの前に突きつけられたのは、あからさまな冒瀆、瀆神である。ソーシャルメディアへの復活祭の投稿で、悪態をつき、暴力の脅しをかけ、アラーをたたえる当てこすりをしたあと、教皇レオ攻撃にエスカレートし、とうとうトランプ自身をイエス・キリストにしたてたAI画像を投稿するところまで行った。(ロス・ダウサット『トランプの冒瀆は悪い前兆である』〈ニューヨークタイムズ〉4月14日) 

教皇対トランプの記事を読むと、英語には冒瀆をさす言葉がなんてたくさんあるの!とため息が出る。ひとつの文にBlasphemy, ProfanationSacrilege……と並ぶと、ニュアンスの違いを日本語に移すのにはどうすれば良いか、頭を抱えてしまう。日本と欧米では「冒瀆」行為の重みがまったく違うのだ。
日本では、ご先祖様も百年もすれば、その土地を守る神さまになると民俗学者が書いていた。菅原道真だって神さまになって、そこらの天神様におさまっているし、徳川家康は日光に祀られている。「しろやぎさんから おてがみ ついた/ くろやぎさんたら よまずに たべた」を書いた詩人まど・みちおは、子供のころから家族に「神さま」と呼ばれていた。大人になってみちおが洗礼を受け、家族全員がクリスチャンになったとき「神さま」というあだ名をやめたとか。
だとすれば、トランプが生きながらキリストになったって、そんなにいきり立つことはない――と日本人なら感じるかもしれない。でも、アメリカ人とヨーロッパ人にとっては、たとえキリスト教信者でなくても、正気の沙汰とは思えない〈冒瀆〉である。 

トランプは2024年に銃で撃たれたもののかすり傷ですんで以来、本人も支持者も「神に選ばれた人類の指導者」とかたく信じるようになった。
トランプ支持者が制作したビデオ「神がトランプを創られた」を、かれのソーシャルメディアで見ることができる。冒頭は聖書『創世記』のパロディ風だ。 

画面は宇宙から俯瞰した地球に近づき、ナレーションが入る。

1946年6月14日、神はみずから計画された楽園を見下ろし、「世話する管理人が必要だ」と言われた。そのようにして神は、私たちのためにトランプを創造された。 

2分間あまり、トランプの偉大な人格、並外れた業績を最大限の賛辞とともに数え上げ、「かれは、人類の羊飼い(イエス・キリストは自分を羊飼いにたとえた)であり、かれは決してわれらを見捨てない。」と結ぶ。 

復活祭直前の4月1日、ホワイトハウス信仰局のポーラ・ホワイト・ケイン牧師は、トランプに向かって、「あなたはこれまでのどの大統領も及ばない、偉大な信仰の擁護者です」と持ち上げたうえで、かれと司法との衝突をイエス・キリストの受難物語になぞらえ、こう言った。「あなたは裏切られ、捕えられ、不正に告発されました。これらは、主イエス・キリストが私たちにお示しになった、周知のお手本です。」 

こんな調子で、トランプの周辺は、限りなくイエスに似た指導者としてかれを崇めてきたので、おだてに弱いトランプは、自分をイエスだと思い込んだ。『キリストに倣いて』という中世のベストセラーがあるのだから、イエスそっくりに生きようというのなら、それは冒瀆でも何でもない。困ったことに、イエス・キリストを手本として、できる限り似たものになるという信仰の理想と、イエス・キリストになる、言いかえれば自分が「神になる」神格化との間に、途方もない違いがあることがトランプには分からなかった。冒瀆と非難されても、かれには何のことかピンとこない。
MAGAと呼ばれるトランプ主義者たちは、両手から神秘な光を発し、病人を治療するトランプ=キリスト画像に感激したのだろうか? トランプを神に選ばれた指導者とかたく信じているとしても、かれらの一部は、トランプを神格化するところまではついていけなかった。たとえば、右翼の人気コメンテーター、キャム・ヒグビーは「わたしはトランプを支持している。かれのために1日に8時間費やして、擁護したくらいだ。でも冒瀆は支持しない」と投稿している
冒頭にご紹介したデイビッド・フレンチは、トランプ=キリスト画像に深刻な危険を感じとって、新たなコラムを書いている。 

思考実験として、あなたご自身考えてみてはいかが? もし大統領が、自分は神の目的を果たす使命を帯びていると信じ込んだら、どうふるまうだろう? 大統領の権力はここまでとされていた枠を超えて、権力の拡大をはかるのではないだろうか? なにしろ、かれは神の使命を遂行しているのだから。いや、おそらくかれは自分を神と似たものと考える? この言葉を文字にするのは耐えがたいが、トランプが投稿した画像が意味するのはまさしくそれ、神と同類ということだ。
かれは、自分の判断だけで、自分の命令だけで勝手に戦争を始められると思わないだろうか?(戦争を宣言する権限は議会にあるとする項目をふくむ)憲法第一条も、全能の神の意志のまえに、何ほどのものか?
そして、このような男は、アメリカのクリスチャンの心と精神をつかみ尽くそうとするから、宗教上のライバルに嫉妬しないだろうか? トランプが公然と教皇レオ十四世とカトリック教会に闘いを挑んだのは、かれの神的権威意識と切り離して理解することはできない。(デイビッド・フレンチ『大統領に神権があるとは、気がつかなかった』〈ニューヨークタイムズ〉4月19日) 

大統領の〈神権〉!
そもそもトランプにとって神とはどんな存在なのだろう? たとえ「神に使命を託された」と表現したとしても、神への畏敬と忠実はない。トランプの〈神〉は、彼が好き勝手をやるための口実程度の重みしかない。本音は、もともと「自分が神」なのだ。
いま、地球上で民主主義が後退し、強権支配が優勢になり、二つ目三つ目の大きな戦争が起こるのを目撃すると、どうしても第二次大戦前夜とくらべたくなる。ナチズムの心理を研究したエーリッヒ・フロムによると、ヒトラーのイデオロギーには「無力な存在を支配する力をえたいという欲望とならんで、圧倒的に強い力に服従し、自己を絶滅したいという欲望が存在する」(『自由からの逃走』)。ヒトラー自身、「永遠の審判」「永遠の摂理」「運命」「必然」への服従を愛し、自分が神になろうとは考えなかったのだ。 

自分が神になるには、神を殺さなければならない。宗教の死である。21世紀の強権主義は、プーチンもトランプも宗教を表看板にかかげるけれど、その中味は神なきニヒリズムなのである。
エマニュエル・トッドはアメリカは「宗教ゼロ」の状態になったと診断している。 

この(イランとの)戦争の根本には、こちらも昨年2月に話したように米国社会の崩壊、具体的には『宗教ゼロ』の状態があります。かつて社会を統合していた道徳的・精神的な規律や価値観が失われ、退廃や空虚さの中で、まるで破壊や殺戮(さつりく)そのものを楽しむかのような『虚無主義(ニヒリズム)』が広がっています。(エマニュエル・トッド『近づく第三の敗北 トランプ帝国化 狂気の虚無主義』〈朝日新聞〉4月9日) 

ニヒリズムは大きなビジョンには関心がない。イランをどんな国にしたいのか、未来はどうなっても同じこと。今の瞬間の破壊それ自体に熱中するのである。次の瞬間はまた別の(キューバ?グリーンランド?)破壊に熱中すればよい。ヒトラーが壮大な世界像を夢想したのと対照的に、トランプの破壊は刹那主義だ。
トランプ=キリスト像は、ニヒルな21世紀ファシズムを象徴するイコンなのかもしれない。 

(2026/5/15