ジャン・ロンドー チェンバロ・リサイタル|西村紗知
ルイ・クープラン生誕400年記念
ジャン・ロンドー チェンバロ・リサイタル
~デイヴィッド・レイ製作の初期フランス様式の楽器を使用して~
JEAN RONDEAU CEMBALO RECITAL ─Louis Couperin 400th Anniversary─
2026年3月25日 東京文化会館 リサイタルホール
2026/3/25 Tokyo Bunka Kaikan Recital Hall
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
写真提供:アレグロミュージック
<演奏> →foreign language
ジャン・ロンドー(チェンバロ)
<プログラム>
組曲 ニ調
ルイ・クープラン:
Prélude 1
Allemande 35
Courante 42
Courante 43
Sarabande 51
Canaries 52
Chaconne La Complaignante 57
エヌモン・ゴーティエ:メザンジョー氏のトンボー
組曲 ニ調
クープラン:
Duretez Fantaisie(不協和音のファンタジア)
Prélude 2
Allemande 58
Courante 59
Gaillarde 61
Chaconne 55
ジャン=アンリ・ダングルベール:シャンボニエール氏のトンボー
組曲 ト調
ジャック・シャンピオン・ド・シャンボニエール:Pavanne(LivreII)
クープラン:
Allemande 93
Courante 94
Sarabande 95
Chaconne 121
フランソワ・デュフォー:ブランロシェ氏のトンボー
●アンコール
クープラン:ブランロシェ氏のトンボー
舞台と客席ともに照明はぎりぎりまで落とされ、会場全体は荘厳な空気に包まれていた。内省的な面立ちで修行僧のような演奏者は、ラフな真っ黒の服装に身を包み、さながら霊安室のような舞台に現れ、お辞儀も早々に済ませ演奏に入ってゆく。これから始まるのは一種の儀礼であってサービスではない、と態度で示しているようだった。あなたも一緒に悼んでほしい、と。
気鋭のチェンバロ奏者、ジャン・ロンドー。昨年『ルイ・クープラン作品全集』(CD10巻+DVD1枚)をリリースし話題を呼んだ。この日のプログラムはそこから選曲され、「クープラン氏に寄せるトンボー」というタイトルが付されている。ニ調、ト調と、調性ごとに舞曲をまとめて組曲としている。ルイ・クープランの舞曲は組曲として残っているわけではないそうだが、今日ではこうするのが通例とのこと。
そしてロンドーは各組曲の締めくくりに、同じ調性の「トンボー(哀悼曲)」を置いた。トンボーの作曲者はルイ・クープランの同時代人だ。トンボーを捧げられた人々もまたみな音楽家で、16-17世紀のフランスにてリュートあるいはクラヴサンのための音楽を制作した人々がプログラムに名を並べていることになる。フランス音楽の礎を築いた彼らを悼み、その遺産を偲び、彼らの間の影響関係に想いを巡らせることのできるプログラムなのである。
また本公演は、初期フレンチ・チェンバロが演奏される数少ない機会であった。つまり、本プログラムに登場する人々が生きていた頃の型の楽器が演奏されたわけである。この楽器を目当てに駆け付けた人も多かったことだろう。
筆者は初期フレンチを聴くのは初めてで、演奏が始まるなり率直な驚きを禁じ得なかった。これは鍵盤楽器なのだろうか、リュートや、ひょっとしたらツィンバロンに近いのではないか。弦の増えたリュートを、横倒しにして鍵盤のメカニクスで操作できるようにした、そういう発想に基づいた楽器なのではないかとさえ思った。
アタックが柔らかで、ジャララ、というあのチェンバロ特有の金属音の尖った感じがしない。音に雑味がないと言えばよいのか、音をどれだけ重ねていっても濁らない。どこまでいっても純粋で美しいその響きに対して、~のような、と比喩をあてがうのをためらうほどだった。
曲の構造は、同時代のドイツの宮廷音楽とは、まったく異なる音楽理論体系のうちにあると感じる。最初の「Prélude 1」は、ルイ・クープランの技法で有名な、「プレリュード・ノン・ムジュレ」と言われる、拍節のない前奏曲である。即興的に分散和音が鳴らされ、上声部に単音のメロディーが据えられた構造をしていて、リュートと歌、この2つのパートを鍵盤楽器用にリダクションしたような印象を受ける。
「Allemande 35」など、内声部に対位旋律が書かれているのが聞こえるが、ドイツ音楽で言うところのポリフォニーとは、まったく違う事情にあるものと思える。そもそも、この曲の主題はこれ、というふうに印象付けられるような主題が無いように思える。主題が繰り返し登場するような形式ではないのである。性格の異なる声部が絡み合って作品が発展していく、そういうものとしての声部はここにはないと思う。音楽は発展しない。何と言えばよいか、一つの円環が少し開き、再び閉じていく、といったぐらいの細やかさが音楽の実体なのである。
調性は長調と短調が短いスパンで切り替わり、五度圏で動くよりも、二度下や、三度上の調に落ち着く展開が多い。イディオムの手数は少なくワンパターンではある。しかしながら、「Sarabande 51」冒頭のaugコードが鳴るところや、「Duretez Fantaisie」の大胆な和声の推移など、聴いていてドキッとすることはあった。発展しない音楽だからといって、何も起こらないわけではないのである。
トンボーはいずれもゆっくりのテンポで、音の数は少なく、切々と率直に悲しみを歌い上げるようなものと感じた。その悲しみは個人的であると思う。音楽が複数の声から成ることは、トンボーという器楽曲ジャンルにおいては努めて回避されているのではないか、とも思った。
それでふと、音楽にとって自由とは何だったのだろう、と考える。なるべくたくさんの声を、一つの作品に含めていくことから、音楽の自由な表現への道は開けていったのではなかったのだろうか。多声部が発展していく音楽には、指揮者のような、声部全体を統べる主体を音楽に感じる。この全体を指揮するような主体は、ルイ・クープランとその影響関係にある作曲家たちの音楽には存在しないように思える。その不在ゆえの自由さを私はずっと感じていたような気がしている。
作品内部の発展、それから他の作品との差異化に、作曲家の手業を認めることは往々にしてある。結果的にその点が巧みな作曲家が残るようにして、歴史的には淘汰されていったのでもあろう。だがそれは、音楽の自由のためになったのか。自由な表現を本当の意味で獲得していったことになるのだろうか。
少なくとも内部の発展や外部との差異化という意味での自由なら、トンボーには要らない。それが二度と経験したくない、いや、経験しえない悲しみならば、なお。プレリュードやファンタジーや、舞曲の数々にとってもまた、本来そういう自由は要らなかったのではないか。この日の音楽にとっての自由は、悲しみは、いかなる追体験も不可能であるという事実を示している。
私たちはなぜ、たった一つの円環が動くだけのことに、留まることができなかったのだろう。私たちはどうしてこうなったのだろう。何かひどく、歴史の過ちを突き付けられたような気がしてならない。
(2026/4/15)
関連評:ジャン・ロンドー ~オール・バッハ・プログラム~ |秋元陽平
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<Artists>
Harpsichord: Jean Rondeau
<Program>
Suite en Ré
Louis Couperin(c1626-1661):
Prélude 1
Allemande 35
Courante 42
Courante 43
Sarabande 51
Canaries 52
Chaconne La Complaignante 57
Ennemond Gaultier, dit≪Gautier le Vieux≫(1575-1651):Tombeau de Mézengeau
Suite en Ré
Louis Couperin:
Duretez Fantaisie
Prélude 2
Allemande 58
Courante 59
Gaillarde 61
Chaconne 55
Jean-Henri D’Anglebert(1629-1691): Tombeau de Mr. De Chambonnières(Suite No.4 en ré majeur: VIII.)
Suite en Sol
Jacques Champion de Chambonnières(1602-1672):Pavanne(LivreII)
Louis Couperin:
Allemande 93
Courante 94
Sarabande 95
Chaconne 121
François Dufaut(1604-1672):Tombeau de Mr. De Blancrocher
Encore
Louis Couperin: Tombeau de Mr. De Blancrocher


