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ジャン・ロンドー ~オール・バッハ・プログラム~ |秋元陽平

ジャン・ロンドー ~オール・バッハ・プログラム~ |秋元陽平
Jean Rondeau All Bach Program

王子ホール
Oji Hall
2026年3月26日
2026/3/26
Reviewed by秋元陽平(Yohei Akimoto)
Photos by ©︎王子ホール 撮影:藤本史昭

〈プログラム〉
J.S.バッハ
:プレリュード リュート組曲 ハ短調 BWV997より(J.ロンドー編)
:パルティータ 第2番 ハ短調 BWV826
:パルティータ 第4番 ニ長調 BWV828
:シャコンヌ 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004より(J.ロンドー編)

(アンコール J.S.バッハ:フランス組曲第4番変ホ長調BWV815より Allemande
フランソワ・クープラン:第6組曲より 第5番 神秘的なバリケード )

使用楽器:ヤン・カルスベック2000年作(オランダ)のジャーマン・モデル(ミートケ・モデル)

 

バッハの厳しさと自由――ジャズやポップス、ラテン音楽への数々のジャンルの、そしてシンセサイザーから大正琴まで数々の楽器への編曲を見ればわかる通り、バッハの音楽には、あらゆる状況で演奏する自由への誘いがある。他方で、特にわたしなどのアマチュアがいざチェンバロで演奏してみようとすると、そこには恣意的な解釈の余地の少ない、完成した音楽があるようにも感じられる。例えば同時代のフレンチであれば、ラモーにせよフランソワ・クープランにせよ、イネガルや装飾音、間の取り方ひとつで表現に大きな幅がでるが、バッハの場合、音楽の構成要素がきわめて緊密に織り合わされているので、そのような余白が相対的に小さい。こうして、バッハの音楽においては、作品の密度の高さと、内側から演奏家を突き動かす魅力との間で、身体にかなりの負荷がかかってくる。モダン・ピアノでそれをものともせずに独創に走る人々もいるが……。
いずれにせよ、ジャン・ロンドーのリサイタルは、こうしたバッハの厳しさと自由が、演奏家の身体の中で折り合ってゆくのを聴き取れる素晴らしい機会だった。照明は最低限、曲間の拍手はなし、終始沈思するようにして楽器に向かうロンドーのスタンスは、バッハの音楽を精読し再現するのを片方の極、また反対に自らの表現をバッハに託すのをもう片方の極とすると、ちょうどその中間にあり、かなり自由な振る舞いに見えて、絶えず作品からの返事を待っているような、対話する余白を作り出していく。
これは容易なことではない。チェンバロという楽器の表現として重要なのはアーティキュレーションと語りの律動だが、レチタティーヴォのように片手が歌うパッセージならともかく、無限に続くあやとりのように声部同士が絡み合い呼応するバッハ得意の音楽作りにおいては、バロック音楽の定形としての音形と結びついたアーティキュレーションや律動以外のものを入れづらい。
しかし、ロンドーというチェンバリストにはこれが可能なのである。彼は「いま、ここ」で音楽を生み出すために、自身の感性の横溢とバッハの楽譜を擦り合わせるようにして語り続ける。その際、二曲のパルティータのあいだも、意表を突く音価の滞留や、驚くべきパッセージの疾走をつうじて、呼吸をし、語る彼の音楽が確固として持続しているので、いささかも奇異なところがない。
また、チェンバロはモダン・ピアノ以上に鍵盤から指を「離す」ときに音の澄み濁りが定まるのだが、ロンドー自身の編曲による『シャコンヌ』のアルペッジョには本当に無数のニュアンスがあって、中でもリュートをかき鳴らすような大粒のアルペッジョには思わず耳を奪われる。チェンバロというのはどこか、リュートに憧れ、そこへの回帰を望んでいるようなところがあるのだろうか。ロンドー自身による編曲自体、技巧をひけらかすどころか、同じ音域で音が絡み合う際のざわめきに耳を澄ますことを要求する趣向になっていて、演奏家であると同時に「聴く人」でもある彼の繊細さを思わせる。そしてアンコールの『神秘的なバリケード』の透き通った響き! 少しでも鍵盤に余計な力を加えると高い倍音が消えてしまうチェンバロで、このような硝子の回廊を組み上げることができるとは。こうなるとフレンチ・プログラムに行けなかったことが心残りだ。

(2026/4/15)

関連評:ジャン・ロンドー チェンバロ・リサイタル|西村紗知