小人閑居為不善日記|ソーシャル・ディスタンス・ゲーマーズ――「アマビエ」とタルコフスキー|noirse
ソーシャル・ディスタンス・ゲーマーズ――「アマビエ」とタルコフスキー
Cinema in the Pandemic――Amabie and Stalker
Text by noirse
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この連載、大半は新作映画を論じていくものだったが、ここ1ヶ月ほど映画館の営業自粛が続いており、それができない。状況が変わるまでは、「パンデミック下で映画を見る」という名目で過去の作品を取り上げていきたい。
といっても感染病やウイルス、パンデミックをテーマにした作品を扱うつもりはない。有用な情報もあるかもしれないが、それだけではおもしろくない。関連がなくてもいい。定評のある作品は何度見ても発見があるものだし、大きく社会が変わりつつある今なら、なおさら新しい観点が導き出されるかもしれない。
けれど今回はまず妖怪の話から始めたい。というと唐突だが、「アマビエ」についてだ。
COVID-19が広がり始めてから、SNSを中心にアマビエという妖怪がバズッた。江戸時代に肥後の海に現れ、「そのうち疫病が流行するので、その時はわたしの絵を描いて皆に見せよ」と告げたと言うものだが、図画は瓦版1枚しか残存しておらず、マイナーな妖怪だった。だがこの挿話をおもしろがったマンガ家や絵師がこぞってアマビエの絵をアップし、今ではグッズやお菓子まで作られている。
というとよくあるネットミームのようだが、これは民間伝承のプロセスの再現でもある。アマビエ自身は絵を見せれば疫病が治るとは一言も言っていないが、一部では疫病を駆逐する妖怪として理解されている。けれどそれも間違っているわけではなく、伝承や信仰、妖怪は、変節しつつ定着していくものなのだ。
民俗学者で妖怪研究の第一人者小松和彦によれば、妖怪とは「実際の現象に名前が付き表象されたもの」である。不可思議な現象が起きた時、当時の人は妖怪の仕業と考えて名称を与え、絵に描き、それが瓦版や絵巻物、草双紙として残っていった。
山に向かって大声を出すと反響して返ってくる。今では子供でも分かる理屈だが、昔は妖怪の仕業と解釈され、「山彦」や「木霊」などと名前が与えられた。そこからさらに様々な要素や属性が付与されたり、大岩や古木と結び付けられ信仰の対象になっていく。過去のヨーロッパでも疫病が死神として表象化されたが、これも日本ふうに解釈すれば妖怪の一種だろう。
とするとアマビエも、正当な流れのもとに甦ったと言えよう。少し違う点があるとすれば復活の舞台がネット上だったことくらいだが、それも目新しいわけではない。この冬に放送されたTVアニメ《虚構推理》(2020)は、「鋼人七瀬」という妖怪をネット上で生成/発現させ、それを成立させた条件を合理化/解体していくことで退治するという、妖怪の誕生と消滅のフローを正しく作品化してみせた。
《姑獲鳥の夏》(1994)などの京極夏彦作品を手本にしているのだろうが(原作者はミステリ作家の城平京)、放送中に同時進行でアマビエがバズッていたため、まるで《虚構推理》をなぞりつつ「復活」しているようで、なかなか得難い視聴経験となった。
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さて、今回見直したいのはアンドレイ・タルコフスキーの作品だ。一般的には難解な監督と目されているが、先月取り上げた《ブレードランナー 2049》(2017)でもタルコフスキーへのオマージュが見受けられるなど、現在進行形で各所に影響を与え続けている。
妖怪からタルコフスキー。唐突に話題が変わったようだが、両者には共通点がある。京極夏彦「京極堂シリーズ」の探偵役中禅寺秋彦は、事件の解決を行うことを「憑物落とし」と呼ぶ。非合理的な事件を合理化する過程をひとつの「儀式」と捉えているわけだ。これも独自の発想ではなく、たとえば呪術がそうで、一定の共同体の内部において儀式を行使すると「呪い」が成立するのは広く知られている。
妖怪の先駆的存在に、陰陽道の式神がある。術式によって鬼神を使役するというものだ。小松和彦は陰陽道の流れを汲む「いざなぎ流」の研究者でもあり、安倍晴明についての著書もある。中禅寺秋彦も陰陽師という設定だ。妖怪も儀式によって生成/消滅し得るものなのである。
けれど儀式は共同体内部で通用するに過ぎず、その前提が崩れると形骸化してしまう。それを鋭く映像化した作品として、大島渚の《儀式》(1971)がある。国家というシステムと日本のドメスティックな慣習との密接な関係をグロテスクに描き出し、同時に切り崩していく様は、大島の最高傑作と呼ぶにふさわしい。儀式自体の空虚さについては、《絞死刑》(1968)でもブラックに扱われている。
大島のように古い慣習を解体していく作品は、同時代には多く散見された。しかしアマビエの例に限らず、人間は容易には儀礼的慣習や素朴な宗教心から抜け出せるものではない。70年代以降の映画界における再魔術化の最大のバックラッシュが、タルコフスキーの晩年の作品、《ノスタルジア》(1983)と《サクリファイス》(1986)だった。
冷戦下の核戦争の恐怖の中、前者では「蝋燭に火をつけて温泉を渡り切る」こと、後者は犠牲を捧げることで、世界を救済できると主人公が信じ込む。客観的に見れば狂人の儀式だが、タルコフスキーの緻密で厳かな演出に魅入られた観客は、その「奇跡」を受け入れてしまうだろう。
簡単にいえば「信じる者は救われる」という映画なのだが、同時に一種の表現論にもなっている。作品とは作品世界を信じれば信じるほど楽しめるものだ。作品を最大限に享受するなら、非現実的なことが起きても否定してはいけない。もちろんあまりに説得力に欠けていれば難しいかもしれないが、それを感じさせないようにするのが演出家や俳優の仕事というものだ。
その点ではシュワルツェネッガーのアクション映画もタルコフスキーの「難解」な作品も変わらない。狂人のロジックにも説得力を与えるのがタルコフスキーの凄さだ。
それが特徴的に表れているのがSF作品《ストーカー》(1979)である。禁止区域「ゾーン」には望むものが手に入る部屋があると言われており、侵入者が後を絶たない。だがゾーンには独自のルールがあり、それに抵触すると命を落としてしまう。「ストーカー」はゾーンの案内役だ。
SFと言っても《ストーカー》のロケ地はありふれた野原や廃墟に終始しており、目を引くような装置やセットは皆無だ。タルコフスキーの演出が張り詰めた緊張感を与えるが、それでもごく普通の風景の中でストーカーたちが戦々恐々する様は、ともするといい大人がごっこ遊びに興じているようにも見えかねない。そこでもうひとつ、《ストーカー》を見直す上で外せない情報を加えたい。
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《ストーカー》完成の数年後にチェルノブイリ原発事故が発生し、本作の予見性が取り沙汰された。もちろんそれは考えすぎなのだが(そもそも《ストーカー》はストルガツキー兄弟《路傍のピクニック》の映画化だ)、事故と映画は強固に結び付いていき、チェルノブイリの立入禁止区域に侵入する者をストーカーと呼んだり、同地を舞台にした《S.T.A.L.K.E.R. SHADOW OF CHERNOBYL》(2007)というゲームが作られるようになった。
それを踏まえて《ストーカー》に立ち返ってみよう。ゾーンをとりまく風景は何気ないものだが、下手に動くと命の危険が生じる。これは現在の、パンデミック下の光景に似ていないだろうか。
COVID-19はドアノブや電車のつり革、エレベーターのボタンなどに付着する。何かに触れるたびに危険を感じ、また他人からも数メートルの距離を取り、ソーシャル・ディスタンスを意識しなくてはならない。けれどウイルスは不可視ゆえ、そこまで気を配ってもほとんどが無駄に終わっている可能性は高い。意味のない「儀式」を繰り返しているだけなのかもしれないのだ。
このストレスフルな状況、長丁場になるのは間違いない。意識を切り換えていかないと参ってしまうかもしれない。
《ストーカー》、見方によっては子供の遊びのようだと言ったが、これはけして悪い意味だけではない。難解と言われがちだが、童心に帰った気持ちで見ることもできるのだ。
2012年に、ゲーム研究者の井上明人が《ゲーミフィケーション》という本を刊行した。 ゲーミフィケーションとはざっくりと言えば、学習や仕事、生活にゲームの方法論を持ち込むことで、快適かつ遊びのように進めていけるというものだ。たとえば徒歩数が数値化されるアプリをスマートフォンにダウンロードすれば、健康の指標になり、ただ移動するだけでも楽しくなるだろう。
パンデミック下のストレスフルな生活も、割り切って「ゲームに興じている」ものとして、自らにゲーミフィケーションを課してみてはどうだろう。自らを映画やゲームの登場人物だとして対象化し、毎日をサヴァイブと置き換え、ひとつひとつの動作を意識して行動してみる。少しは気も紛れるのではないか。
井上明人も《#denkimeter》というゲームをリリースしている。これは東日本大震災後、節電をゲーミフィケーション化したものだった。ゲームは虚構だからか、放射線やウイルスのような不可視な存在と「相性がいい」。そしてタルコフスキーの映画もまた、宗教的かつ抽象的だからこそ、不可視な存在との親和性が高い。これらを貫くのが「儀式」なのだ。
ゲーミフィケーションはひとつの例に過ぎない。重要なのは現実を対象化することだ。現実は動かしようがなくとも、意識はスイッチ一つで変えることができる。ウイルスを動かしようのないものとしてのみと捉えるのかどうかはその人次第だ。意識を変えていくのなら、映画やゲームはその手助けに成り得る。そしてそれもまた、ひとつの「儀式」かもしれないのだ。
(2020/5/15)
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noirse
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