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パリ・東京雑感|方向を見失った英語教育|松浦茂長

方向を見失った英語教育
Erroneous Reforms in the Teaching of English

Text by 松浦茂長 (Shigenaga Matsuura)
Photos by 日本記者クラブ (Japanese Press Club)

教育の世界の出来事は、『不思議の国のアリス』を読むみたいな、超現実……ミステリー・ワールドだ。大学入試に共通一次が始まったと思ったら、センター試験に変わり、来年から共通テストに衣替えするという。その目玉が英語の喋りと作文、国語・数学の記述式試験だったが、土壇場ですべて潰れてしまった。手間の掛かるテストは民間業者に任せるというので、僻地の生徒や貧しい生徒は不利になる、不公平だと批判が集中。弁解する荻生田文科大臣が「身の丈に合わせてがんばって」と口を滑らしたため、民間試験の<名案>は葬り去られるハメになったのだ。
なぜ英語スピーキングの試験をしなければいけないのか、僕にはさっぱり分からなかったし、ましてや、業者テスト??さいわい日本記者クラブが、英語テストをめぐるシリーズの会見を企画してくれたので、にわか勉強してみた。

英語民間試験を活用するよう東大にも
圧力を掛けた下村博文元文科相

①言い出しっぺは下村博文氏。文科大臣だった2013年に、官邸で開かれた産業競争力会議で、民間試験を利用しようと言い出したらしい。下村氏は日本記者クラブで、当時の思いを披露した。
ある日、ノーベル生理学・医学賞の利根川進氏が大臣室にやって来て、入試改革は目標を間違えてはならないと、東大とシカゴ大を比べてこう言った。「シカゴ大からは120人ものノーベル生理学・医学賞受賞者が出たのに、東大からは一人も出ていない。入試の難しさから言えば、東大医学部の方がずっと上だ。シカゴ大は学生が大学に入ってどれだけ伸びる可能性があるか、卒業後どれだけ社会に貢献できそうかを判断して選ぶ。東大医学部を受験する学生は、日本一難しいからと言うだけの理由で挑戦するのであって、医者になりたいから受験する者はいない。」下村氏が東大医学部教授に確認したところ、教授も「本当に医者になりたくて入ったのは、多分一人か二人しかいないでしょう」と同意したそうだ。
実に良い話だ。シカゴ大学のように、受験者のなかから高い志と潜在能力のある者だけを選ぶ、そんな入試を目ざして改革するのなら大賛成だ。しかし、その高邁な目標と業者テストはどうつながるのだろう?話は唐突に「外国人とディベートすると太刀打ちできない。なぜなら中学、高校で<読む・聞く・話す・書く>の4技能を教えていなかったからだ」となり、スピーキングの業者テストへと飛躍する。

英語民間試験を開発した吉田研作教授

②スピーキングテスト擁護の中心人物は上智大学の吉田研作先生だ。吉田氏は民間テスト「TEAP」の開発者(つまり業界の利益につながる人)でもある。「英語教育の在り方に関する有識者会議」座長など沢山の審議会で活躍し、新しい学習指導要領をまとめたというから、文科省の英語教育・英語試験の構想はこの人の頭から生まれたとみて良さそうだ。
吉田氏はたっぷり1時間かけて、新指導要領の思想を披露してくれた。
「今の生徒は自己肯定感が低い。なぜ自信が持てないのか?いくら知識を詰め込んでも、知識だけで自信は生まれない。知識を活用することで自信がつく。理解していることをどう使うかを学ぶのが大切なのだ。」
具体的には、まず授業は英語でやらなければならない。生徒はテキストを英語で要約したり、グループでディスカッションしたり、授業を実際の英語コミュニケーションの場面にするという。「先生の英語が間違っていたら?」と心配になるが、吉田氏は、「高校の先生の英語力は格段に向上しているし、生徒の学力も向上している」と言い、右肩上がり一直線!の英語力調査のグラフを見せてくれた。
すでに59パーセントの高校では英語で授業しているし、4技能を駆使する<言語活動>を実行している高校も50パーセント。だからこの4技能をすべて入試で評価してやるべきだというのである。
ああ、もし僕が今高校生になって新指導要領の授業を受けたらどんな気持ちになるだろう?悪夢だ。僕は英語嫌いだったけれど、教科書の異国の話には魅力があった。先生も文学の楽しさを感じさせようと懸命だった。語学嫌いも夢中にさせる英語の時間、あんな授業は時代遅れなのだろうか?

『検証 迷走する英語入試』を書いた
南風原朝和名誉教授

③東大教育学部の学部長を務めた南風原朝和先生は、民間テストに反対で、『検証 迷走する英語入試』という本まで書いている。高校から大学への「接続」を改善する会議の委員だったから、入試改革の事情は裏までご存じのはずだ。南風原氏はまず東大大学院生のメールを紹介した。イギリスで演劇を学び、外国人と結婚した後、東大大学院に入った女性だそうだ。
「英語民間試験の活用は単純に『日本人はいつまでたっても、英語が喋れない。国際社会なのに恥ずかしい』というある意味、ばくぜんとした感情の焦りから出てきた対応策ではないかと思います。私も同じような気持を抱いて海外で仕事をすることになりましたが、英語を話すのが当たり前の環境になりますと、会話は意外に楽にできます。日常会話ならばあまり時間をかけずともできるようになり、気にしていた発音や文法は完璧である必要がなく、むしろ英語はコミュケーションツールだということが分かってくると、英語はあまり勉強しなくなり、英語への抵抗感はそうとう薄まります。もしかしたら日本の英語教育を変えようとしている人たちは、日本人にこのレベルを求めているのではないかと思います。
しかし、この状態で帰国して、日本の大学院に入った私は、今とても英語で苦しんでいます。それはブロークンイングリッシュならば喋れるが、アカデミックな英語文を読んだり書いたりすることが出来ないという点です。単語も知らないし、文法もめちゃくちゃ。英語は話せるが、書けない/読めないです。これだと結局、グローバルなアカデミック環境では太刀打ちできません。」
パリに暮らす日本人を観察すると、このメールの正しさがよく分かる。フランス人と結婚し何十年もパリで暮らす日本女性の家に招かれたとき、食卓の会話を上手にリードする流ちょうなフランス語に「さすが年季が入っている」と感嘆したが、彼女自身は「フランス語が出来ない」とこぼす。日常会話のフランス語から知的コミュニケーションのフランス語の間には想像以上に大きなギャップがあるのだ。サラリーマン生活を終え、85歳でフランス語の著書を出した三嶋愛子さん(フランスの大学で教材に採用されたと言うから、完璧なフランス語なのだ)や、フランス語で小説を読む会をやっている奇特な女性(フランス女性と結婚し営業マンとして現地社員を圧倒する業績を上げたベテランも勉強に来る)もいるけれど、新聞すら読まない人も多い。僕もフランス人からメールが来るとつい面倒で後まわしにし、できれば電話で答えたくなる。文法の間違いが気になるからだ。

下村氏が求める英語能力は、学問やビジネスの世界で、外国人と対等にコミュニケーションするレベルの語学力であり、日常会話の達人を育てることではないはずだ。ところが、民間テストで目途とされるCEFRのA2レベルなるものは「簡単で日常的な範囲なら、身近で日常の事柄について、単純で直接的な情報交換に応じることができる」と、全くの日常英語。南風原氏は「大学学習で必要とされる英語とは関係ない」と批判する。
では、知的コミュニケーションの英語を身につけるにはどうしたら良いか。赤ちゃんが自然に言葉を習得する母語の場合は、耳から入る言葉から文法規則まで身につくのだが、外国語の学習は全く違う。英語という言語のルールを意識して学ばなければならない。同時通訳の草分け鳥飼玖美子さんは「4技能の土台は読解力」と言う。「読むことによって、単語の使い方や文章の組み立てを学び、それをもとに書くことを学ぶと、聞いてわかるようになる。そして話せるようになるのです。」(『朝日新聞』11月18日)
教育学の権威と英語の達人のまっとうな意見が無視され、珍奇な仮説が採用されたのはなぜだろう?友人の仏文学者は「こんなことをやっていると、国力が低下する」と嘆いていた。

スピーキングテストのパイオニア羽藤由美教授

④京都工芸繊維大学の羽藤由美教授は英語スピーキングテストを開発し、数年前から学内の試験に使っている。この分野のパイオニアなのだから、共通テストにスピーキングを入れるのは大歓迎かと思ったら、正反対。スピーキングテストがなぜ難しいか、業者に丸投げするとどれほど不公平なテストになるか、情熱的に語ってくれた。問題を熟知する専門家の研究に耳を傾けない役所と政治家に対する怒りと焦り、気持が高ぶって、ときに泣いているようにさえ聞こえた。
民間テストを使うことについて「大学には確実に圧力がかかりました。私たちは自分の良心と学問的見識に基づいて自由に判断することは出来なかった。理性や知性は通用しなかったです。」と、恐ろしいことを言う。理性・知性の最後の砦であるはずの大学がそのていたらくでは、日本国に理性は存在しうるのか?
しかし、大学はそこまでひ弱になったらしい。名門国立大学の仏文教授だった友人に聞いたら、彼女の大学にも「フランス語初級の授業は外部の業者に任せなさい」と圧力がかかったと言う。勇ましい我が友人は「とんでもない。フランス語が立派に使えるようになるかどうかは初級の授業にかかっているのです」と言って、押し返したとか。鳥飼さんの言うように、言語のルール=文法を確実に学ぶことが知的コミュニケーションの出来る語学の土台だとすると、初級をアウトソーシングしたのでは責任放棄になってしまう。
羽藤先生は「2003年以来英語教育は失敗続きです」とやりきれない思いを吐露したが、日本の学校は学力低下に向かって一目散に<改革>を続けてきたように見える。不思議な世界だ。羽藤先生いわく「財や名をなした素人がどこか高いところに集まって、個人的な経験や感想を言い合い、その中で決めた現実味のない教育政策が、推進に無批判に協力するごく少数の研究者や教員を利用する形で、そのまま現場に降りて来ます」。
生徒達はどうすれば良いのだろう。変化する授業と試験に振り回されず、こつこつと読む力をつける努力をするしかない。

(2019年12月28日)