プロムナード|サンゴのラリエット
プロムナード|サンゴのラリエット
Text & Photos by 西村紗知(Sachi Nishimura)
音楽、ひいては芸術全般と、奇妙な仕方で共鳴することがある。創作をやっているわけではない私の場合、それは、作り手にも作品にも帰することはできないし、結局何の話か判然とせず、客観的に見て共鳴とは呼べないような行動に帰結する。
自分の行動が自分を取り巻く世界と対応し損なっているようにしか見えない事例を白日の下に晒すとなると、本当に些末な文章を書くことになるのだし、恥ずかしい。けれども私は確かに、世界に対応しようとはしたはずだ。その確信を手放したくないがために、やはり書いておきたくなる。
9月13日、新大久保Earthdomにて、ロックバンド「TERRO TERRO」のリリース記念ライブがあったので聞きに行った。この度リリースされたセカンドアルバム『TeTrad』の帯文を、夫が書いている縁である(それから、ボーカルの及川耕碩と私は、以前『アルデバラン』というミニコミ誌に寄稿した者同士、というささやかな縁もある)。
爽快な踊れる音楽だった。会場の天井が低いためか、音が四散せずきちんと振動となって身体に伝わるので心地よい。昨年12月、渋谷WWWでのライブも聞きに行った。その時に比べて編成が変わったこともあってか、音楽の内容が違う。渋谷WWWのときは、音楽の形式的にももう少し長大でプログレッシブロックの感が強かったように思う。これはポエトリーリーディングをしっかり聞かせるもので、寺山修司の詩歌からの引用もあったと記憶する。今回は、ギターが奏する変拍子のフレーズがアンサンブルを引っ張っていって、それはプログレというよりポストパンクの感じがする。そういうわけでパフォーマンスを見せるよりも観客と一緒にノレる音楽だったと感じた。
それで私は翌日、ピアノの稽古をした。イタリア古典歌曲集を開き、「Sebben, crudele」をさらった。イタリア語の詩を読み、歌とピアノをそれぞれ練習し、合わせた。自分自身で、その前日振動の伝わった身体の、その身体のうちで同じ箇所を、自分でも震わせたかったのだと思う。
よい音楽は私にとって、自分もお稽古しようと自然と身体が動くもののことだ。昔、山下洋輔が「ラプソディー・イン・ブルー」のソリストをやっているのをテレビで聴いて、私はその直後ピアノの稽古に没頭した。私はジャズをやっていたわけではない。「ラプソディー・イン・ブルー」を自分も弾いてみたいと思ったのでもない。クラシックピアノのお稽古を、バッハやベートーヴェンの稽古をしたいと思ったのである。
確かその頃はちょうど、打鍵の際に脱力する稽古に一心に打ち込んでいたと記憶している。指がピアノの鍵盤を打つとき、身体にピアノを打つ感触が返ってくる。そういう打つ/打たれるの両義的な感触を、硬直した身体を振りほどくようにして、必死に求めていた。
その感触を、私は今でも急に必要とするらしい。音楽における共鳴、それは私にとって第一に、「打つ」と「打たれる」との関係のことである。
それで、サンゴのラリエット、である。
9月5日には、すみだ五彩の芸術祭のプログラムのひとつである「梅若はまだ帰らない。」(戯曲ダンス版)の公演の招待をいただいていたので、観に行った。
ダンサー・山﨑広太が戯曲を手掛け、若い6人のダンサーがこれを身体表現で実現していく。墨田区堤通の木母寺に伝わる「梅若伝説」にインスパイアされたという戯曲は、この話を直接なぞったものではなく、すでに亡くなった梅若丸を探し続けた母の姿、それから彼らのこの関係からインスピレーションを得ているようであった。
出だし、ダンサーたちの肉体は地を這う。時に自然な発声と動きとを織り交ぜる、柔らかでしなやかな身体の動き。私にはダンス評論の専門性がないので確かなことは言えないけれども、しなやかに動く身体が揃うのを見ると、やはり気持ちがいい。終盤にはラップのパフォーマンスもあった。地を這う所作は舞踏らしいとも思え、幅広い身体表現と発声を通じてダンサーは戯曲の内容に応じていた。
それで、中盤には少し集中力が落ちてしまって、急に私の頭は、サンゴのラリエットを想像し、「図案」を思案し始めた。
予期せぬタイミングで、「図案」が頭の中に浮かんできてしまうことがある。しかもそれは、実現して頭の外に出さないと、他のことにまったく手が付かないので難儀である(気散じと呼ばれるような状態だろう)。
小学校六年生のとき、「図案」は「爪」だった。ノートにネイルのデザイン画をたくさん描いたことがあった。私はマニキュアを塗るのが好きで、ピアノのお稽古をしていたのでそうそうできなかったが、図案を実現すべくお小遣いで細い絵筆のマニキュアや、ラメやラインストーンを買った。高校三年生の「図案」は「カバン」だった。どういう生地を買って、どういった手順で縫って、端の処理はどうするのか、などと一連の工程で頭をいっぱいにしていた。
ダンス公演の会場はすみだパークシアター倉で、最寄り駅は錦糸町である。ということは浅草橋が近い。浅草橋にはビーズの問屋街がある。私はもう15、6年も前に、ここを訪れたきりだった。
気付いたら私は浅草橋駅付近を歩いていた。時刻は17時を回っており、早くしないとどこの店も閉まってしまう。取り急ぎ天然石の店、ART1号店へ急ぐ。入口のガラス戸を開けたら、示し合わせたかのように、すぐ目の前にサンゴの数珠がたくさん垂れ下がっていて、しかもそれらは3割引きなのである。
3mm玉、4mm玉、それからカット加工が施された4mm玉も購入。急いで次の店へ向かう。テグスと金具が必要だ。WEST5でこれらの副資材を、それからサンゴだけだと味気ない気がしたため、茶色のガラスビーズも買った。これはソロバン型にカットされた、キラキラ輝く4mmの鉛ガラスで、プレシオサというメーカーの製品である。スワロフスキークリスタルが、手芸材料の市場から撤退したことを私はこのとき初めて知った。
その日の晩、私は一気にラリエットを作り上げた。勢いもそのまま、揃いのピアスも作った。
なぜサンゴのラリエットなのか。
すみだパークシアター倉へと向かう前に、たらこスパゲッティを食べたから、ピンクの粒のイメージはそこからきているのかもしれない(実際購入したサンゴは赤色寄りなのだが)。出かける前に、バッハの平均律第1巻のホ長調をさらっていたから、粒のきらめきがバッハのトリルや16分音符に由来しているかもしれない。それらを、ダンス鑑賞から得た動的な感覚がつなぎとめたのかもしれない。
あるいは、先日旅行した五島列島で郷土資料館を訪れた際に見た、立派な彫りサンゴの髪飾りのことが頭のどこかに残っていたからかもしれない。サンゴ漁は、昔この島の主要産業の座にあったのだという。
どうして私の頭に「図案」が襲い掛かってくるのか。
手芸もまた私にとっては「共鳴」の一つの方法である。特に手芸は、現実生活の不安に裏打ちされている。それどころではないときでないと、「図案」は襲ってこない。サンゴのラリエットを作っている暇はないはずで、私は家でも会社でも仕事をしないといけない。「図案」が襲いかかってくるとき、それは大抵、現実に対し心を閉ざすべきときであるような気はする。
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『手芸とエンパワメント』(山崎明子著、晶文社、2026年)という本が最近刊行されたので、読んだ。ジェンダー論、特にフェミニズム研究を専門とする著者による、親しみやすい学術的エッセイであった。何らかの手芸の嗜みがある読者にとっては、共感できる内容であろう。
本書は領域横断的な歴史研究の礎の上に成り立っている。日本の戦前の女子教育に組み込まれていた手芸のこと。戦後の手芸ブームにおいて流通した手芸本の紹介、西洋絵画のマリア像をはじめ「縫う女」を描いた絵画の分析。お稽古カバンなど、保育所入所グッズ制作の今昔については、母娘の愛着関係の在り方について、また既成品との緊張関係の変化についてというトピックも挙げている。社会運動と手芸の接点にも触れている。19世紀末から20世紀初頭にかけて、イギリスで女性参政権獲得のため活動していた女性たち(サフラジェット)が、投獄中制作していた刺繍作品のこと。最近の事例では、フェミニスト手芸グループ「山姥」の活動の紹介も。
本書の問題意識であり、前提であるところの考えは、例えば以下の記述に端的に現れている。「女性たちがモノを生み出す力は男性と変わらないはずなのに、小さいモノや細かいモノを作るように促されてきた。また時にはその力は過小評価され、商品化されない家庭的なものづくりが望まれたりする。モノを生み出す力と作りたいという欲求は誰もがもっているのだが、作りたい欲望が強い(私のような)場合、しばしば役に立たないものを作り上げる」(20頁)。なお、こうした問題意識は、本書でも触れられているが、「労働力になるにしても安く買い叩かれ、金にならないもので自己実現欲求を満たさねばならない」という、アンジェラ・マクロビー『クリエイティブであれ』にある時代診断からそのまま影響を受けているものと言えよう。
それで、全体の方向性としては、上記のような構造からの解放を目指して、手芸愛好家の女性たちに連帯を呼びかける内容となっている。そして連帯という「横のつながり」と同じほどに、著者は「縦のつながり」、すなわち手芸をやってきた女性たちの血縁上のつながりを重要視する。「縦のつながり」をherstoryと呼び、historyに対するオルタナティブとしての意味合いを見出す。
さて、個人的に着目したいのは、アドルノの『美の理論』の冒頭にあるテーゼ、「芸術にかんすることで自明なことは、もはや何一つないことが自明になった」が引用されているところだ。
仮にこれを「芸術の自明性消失テーゼ」と呼ぶが、著者はここから「手芸の自明性の消失」について自身の考えを導き出す。著者はテーゼをまず以下のように説明する。芸術は、「芸術のための芸術」に代表されるように自律性への志向があるが、芸術の社会への還元や、文化産業による複製技術の進展により、その自律性が解体されていった、と。「自明性の消失」を手芸の状況にも著者は見ている。それは、「なぜ私たちが手芸を必要としているのかは、人によって、生きる時代によって、生まれた環境によってきっと異なっている」(53頁)という具合で、手芸に関する価値相対主義的状況に対する指摘で、一旦話を落ち着かせてしまっている。「自明性の消失」が、「語りの共通項がない」程度の意味で済ませられてしまうのは惜しい。
このテーゼは第1章に登場したきりだが、もう少し私のほうで、このテーゼと手芸の関係を考えてみたい。つまり、手芸にとって、自律性とその解体とはどういうことか。
思うに、アドルノのテーゼのパラフレーズは、著者が手芸に抱く問題意識の、重要な部分と響き合っている。それを私なりにまとめると、手芸は第一に「(女性、とりわけ主婦の)修養」と見なされているが、「商品経済」と触れあっている、という二重構造だ。修道院のチャリティーバザーの例が本書に登場するが、手間ひまかけて作っても、回収できるのはせいぜい材料費くらいである(ただ著者は、手芸の動機が人それぞれであることを尊重し、もっと高く売るべきだなどとは主張していない)。修養とは、これが自己鍛錬を含む限りで(あるいは、手を動かすことの、行動療法のような側面)、芸術作品にとっての自律性に近いアイデアではないか。だが手芸は技術であって(芸術もまた技術die Kunstに他ならないのだが)、家庭人としての有用性という意味での合目的性に縛られている。役に立たない物を作ったのちの自己弁護が難しいという手芸の側の現実は、芸術側の事情とは異なるだろう(……と思ったが、昨今の我が国における文化行政の助成金カットのニュースを見るに、もはや芸術は手芸のほうに接近しているのかもしれない)。
手芸の場合、自律とは(経済的に、人も物も)自立しないことだ。家庭人としての有用性とは、すなわち市場価値のない労働力という意味である。芸術作品にしても、美的に自律している、と言えば聞こえはよいかもしれないが、要するにそれは、今風に言えば助成金ありきの芸術活動であることがほとんどだと思えば、事情はそう違わないのかもしれない。
修養と商品経済との二重構造は、手芸の理解のない人間に随分都合よく批判の機会を与えてしまう。「手芸をする人たちを「暇があっていいよね」と思ったことはないだろうか。「そんなもの、作らないで買えばいいのに」と感じたことはないだろうか。素敵な手芸品を見て「せっかくなら売ればいいのに」という言葉を言ったり飲み込んだりしたことはないだろうか。素朴でレトロな手芸品を無意味なものとして笑ったことはないだろうか。私はどれも言われたり聞いたりしたことがある」(17-18頁)。むしろ、彼らからの勝手な批判ゆえに出来上がっていった二重構造だ、と言うべきか。本書の家父長制への批判精神もここに根を持つ。
ふと、『タコピーの原罪』という漫画のあるシーンのことを思った。「だからタッセルってなんだよ!!」という台詞が、無断転載の切り抜きとともに話題になっていたことがある。
それぞれに複雑な家庭環境で育った3人の子供たちと、地球に幸福を広めるという使命を持ったハッピー星人である「タコピー」との関わり合いのもと、物語が進行していく本作。主人公のしずかは、まりなにいじめられているが、まりなの家庭環境はひどい。ある日、まりな(厳密には、諸般の事情でタコピーがまりなに変身している姿)の目の前で夫婦喧嘩が勃発している。
(まりなの)父「だからタッセルってなんだよ!!」
(まりなの)母「カーテン…カーテンにつけるのっ…!」
父「人の金で訳わかんねーもん作りやがって この寄生虫がっ!!」
まりな「ただい」
母「キ キャバクラ通いのあなたは どうなんです」
父「俺があ 苦労して稼いだ金何に使おうが勝手だろうがっ」
タッセルとは房飾りだ。このアイテムに、新宗教団体へまりなの母が傾倒している気配を感じ取る考察を行う投稿が、Xで流れているのを見たことがある。タッセルというアイテムの認知度の低さが原因であろうけれども、手芸特有の二重構造は、まりなの父のみならず、かくも読者すら戸惑わせるものなのだ、という気がしてならない。考察は、物語の隠された意味へと向かっていくものなのだろうが、ここで批評の挑戦として、この作中の出来事から、何らかの未来へ開けた訓話めいたものを取り出してみたい。
『手芸とエンパワメント』にもどうもそのきらいがあるように感じられるが、手芸についての語りは、「手芸は無意味、無害で有用性に乏しい」という前提を、何を主張するにせよ、構文上隠しているようなところがある。それは手芸が暴力主体と関わり合いを持つことは無い、という判断を前提として強化するようなところはないか。連帯自体に攻撃性がないこともないが、それは、手芸は無意味で有用性も乏しいけれども、そう判断する人がいるなら、その人の判断はジェンダー上の非対称的な構造を浮かび上がらせている、と言い返すくらいの攻撃性だろう。
同志のエンパワメントもよいが、もっと、積極的に敵対関係に打って出るような未来は手芸にはないのか。
上記の台詞で、小声ではあるが、まりなの母は「タッセル」と「キャバクラ」を等号で結んでいる。あなたのキャバクラ通いと私のタッセル作りに、どういう違いがあるのですか、と。人間関係の構築の面に踏み込んで、「私が寄生虫ならあなたもまた寄生虫では」くらいまで言えばよかろうに、まりなの父は、まりなの母が差し出した等号の恐ろしさがわかっていない。金の出所のことしか言えないのだ。手芸の側には、相手の行いを手芸と等号で結び、手芸並みに無意味で有用性も乏しい、と批判できる力がある。
それから、上記の言い争いののち、まりなの父はタッセルを投げつけ、まりなは鼻血を出してしまう。惜しむらくは、まりなの母がタッセルを投げる側になれなかったことだ。もし、実力行使への意志がまりなの母にあれば、結果的にまりなを守ることにもなったのではないか。
タッセルを投擲武器にするなんてとんでもない、というのは常識的にはそうだ。ただ、手芸と等号で結ばれる関係にすることで相手の行いを無価値なものとし、そこから物質的に実力行使に打って出るということに、連帯とはまた別の、手芸の未来がありはしないか。それは今の時点では具体的に想像できない。おそらく、もはや手芸の域を越え出る事象かもしれないが、真に到来すべき「自明性の消失」は、あるのではないか。手芸が実力行使を積極的に引き受ける日が。
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さて、こうして生まれたサンゴのラリエットは、手持ちの服のうち、綿麻のからし色のワンピースにしか似合わない。活躍の機会に備えて、ジュエリーボックスの中で蛇のように横たわって眠っている。
そして、よせばいいのに気まぐれで、メルカリにて「サンゴ ラリエット」と検索をかけた。私のそれに費やした材料費の半値以下で、かつ倍以上に立派な製品がひっかかった。
物質的な現実と経済的な現実とが、早い話が私の財布の紐が、「図案」の数々がこじ開けようとするのに一生懸命抗うが、いつも弱い。
(2026/10/15)
