五線紙のパンセ|ニューヨーク滞在記 ①即興とクィア |向井航
ニューヨーク滞在記 ①即興とクィア
A New York Journal ① Improvisation and Queerness
Text by 向井 航(Wataru Mukai):Guest
私は現代音楽の作曲家として活動する傍ら、主に欧州/欧米のクィアコミュニティを訪れ、そこで暮らす人々との交流を通して、さまざまなリサーチを行ってきた。私自身もノンバイナリーを生きるクィアとして、当事者との対話や、そこで得たインスピレーションから物語を立ち上げ、ドラァグ表象やリップシンクなど、クィアカルチャーの要素を作品に織り込んできた。そうした作品では、作曲だけでなく、リリックやリブレットを書くことで音楽を演劇的にひらき、そこからクィアなアプローチによって西洋音楽の解体と再構築を試みてきた。
この「五線紙のパンセ」では、2026年1月から半年間にわたって行ったニューヨークでの活動や、7月に日本で初演した作品などを振り返りながら、そのときに感じたこと、考えていたこと、そしてそこから新たに生まれてきた問いについて、綴っていきたい。
2026年1月から半年間、アジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)の助成により、在籍していた大学を休学し、半年間ニューヨークで研鑽を積むことになった。研鑽と言っても、どこかの大学に所属したり、文化施設でレジデンスをするわけではない。ニューヨークに暮らす現地の人と関わりながら、自分の研究や創作に向き合い、深めていく。いわゆるサバティカル(充電期間)のような機会を頂いた。
これまで私は、ベルリンやアムステルダムなど、いわゆるクィア・フレンドリーな都市を何度か訪れ、ときには長期に滞在しながら、それぞれの都市におけるクィア・コミュニティや文化についてリサーチと制作を行ってきた。もちろん都市ごとに異なる特徴はあるものの、ヨーロッパという大きな枠組みのなかでは、歴史的・社会的な背景を共有している部分も多く、その違いを強く意識する機会はそれほど多くなかった。一方、ニューヨークは、人種や文化、言語、階級など、異なる背景を持つ人々が集まる「人種の坩堝」として語られることが多い。しかし実際には、街全体が均質に混ざり合っているわけではなく、地区や場所ごとに、厳密ではないにせよ、ある程度の棲み分けが存在し、それぞれの場所に固有の文化やコミュニティが形成されている。そこに暮らす人々の人種や文化的背景、経済状況、セクシュアリティやジェンダーなどによって、同じニューヨークという都市のなかでも、まったく異なる経験や関係性が生まれており、それをこの目で見たいという気持ちを漠然と持っていた。
ACCへの応募を終え、書類審査の結果を待っていた2025年1月20日、ドナルド・トランプは就任演説において、「there are only two genders: male and female」と発言した。ジェンダーを男性と女性という二つのカテゴリーに限定する立場を、あらためて明確に示したのである。これまでジェンダーについて多様な議論が交わされてきたアメリカで、そして(合格すれば)これから自分が向かおうとしているニューヨークで、クィアの人々はいったいどのように生き、どのように連帯しているのだろうか。
私は今までより強く今日におけるニューヨークのクィア・シーンに漠然とした関心を抱くようになった。それまで一度もアメリカという土地を実際に訪れたことがなかったという事もあるが、ヨーロッパのクィア・シーンを自分の身体を通して経験してきたからこそ、これまで知らなかった場所に身を置いたとき、そこではどのような人々が出会い、どのような文化や関係性が生まれているのかを、自分自身で確かめてみたいと思うようになった。
何度かの面接や審査を経て合格を頂き、大雪が降り積もる2026年1月、私はニューヨークにあるJFK空港に降り立った。ときにマイナス20度近くになるような極寒のニューヨークで、私はマンハッタンの125番駅の近く、ハーレムに住んだ。まずはいろいろな音楽シーンでリサーチ….ニューヨークといえばブロードウェイ、ミュージカルである。ということで、まずは片っ端から色々なミュージカルを観た。在米のクィアに人気のあるミュージカル、「Death Becomes her」「&Juliet」「La Cage aux Folles」「CATS: The Jellicle Ball 」「ウィキッド」….. その他、ほぼ毎日外に出るようにして、クィアクラブで行われるパーティーやドラァグショー、オフオフブロードウェイで行われる実験的な演劇など、劇場とクラブとその両方にとにかく足繁く通って、私はそこで「クィアネス」がどのように音楽劇やパフォーマンスのなかで表象されているのかを探っていた。
しかし、次第にある違和感を覚えるようになった。そこで表象されているものの多くは、私が考える「クィアネス」というよりも、むしろ「ゲイネス」と呼ぶほうが近いのではないか。もちろん、ゲイであること自体は、クィアな経験の重要な一部である。しかし私がここで問題にしたいのは、既存の性やジェンダーのカテゴリーの内部にひとつのアイデンティティとして位置づけられることではなく、そうしたカテゴリーそのものを揺さぶり、つねに流動し、変化し、解体されうるようなあり方としてのクィアネスである。
ニューヨークで実際にさまざまなパフォーマンスを目にするなかで、私は次第に、クィアな身体やクィア文化/文脈を作品のなかに取り入れ、表象することと、作品そのものがクィアなあり方を持つことは、もしかすると別のことなのではないか、と考えるようになった。そう考え始めると、作曲家として、自分はいったい何ができるのだろうか。クィアネスを作品の「内容」として扱うだけではなく、その構造や上演のあり方そのものに、流動性や不確定性、既存のカテゴリーからはみ出していくような性質を持ち込むことはできないだろうか。
私はこれまでこの「クィアネス」の持つ、既存のカテゴリーからはみ出していくような性質を西洋音楽的な意味での現代音楽に用いるとき、「演劇化」という手法を使っていた。例えば第33回芥川也寸志サントリー作曲賞を受賞した《ダンシング・クィア》では、オーケストラというメディアを、単に音楽を響かせるための媒体としてではなく、身体や声、言葉、視覚的要素を含む場として捉え直した。そのために、メガフォンを持ったアクティビスト的かつアイコニックなソリストをオーケストラの内部に配置し、オーケストラそのものをひとつの演劇的な空間として構成した。こうして、ドキュメンタリー音楽劇のように作品を「演劇化」することで、オーケストラ作品の表現領域を拡張することを試みた。
その2年後に制作した受賞記念作品《クィーン》においても、この「演劇化」の手法をさらに発展させた。ギリシャ悲劇『バッコスの信女』を下敷きとし、女声アンサンブルのソリストたちをオーケストラの前方でプロットに沿って動かす一方、ユーフォニアムにはアポロン、エレキギターにはディオニュソス、オルガンにはゼウスという役割を与えた。ここでは、演奏者だけでなく楽器そのものにも登場人物としての役割を与えることで、オーケストラを単なる音響的な集合体ではなく、人物、身体、楽器、空間が相互に関係しながら物語を生成する演劇的な場へと変換することを試みた。
しかし最近での私の作曲に対する問いは、「演劇化」せずとも、音楽そのものに対してクィアなアプローチを行うことはできないか、である。すなわち、自身の作品の特徴でもあった、言葉によるドラマやパフォーマティブな演出なしで、どのように音楽そのものをクィアに解体し、表現することができるのか。その一つの答えとして、今日におけるインプロ・即興という手段を捉え直し、即興という営みそのものをクィアな視点から紐解こうとした。
そんなディープでクィアな音楽を探している中で出会ったのが、ロングアイランドやブルックリンの即興のコミュニティであった。ニューヨークは言わずもがな、Anthony Braxtonを筆頭に、多くの即興的音楽家・作曲家を輩出しており、現代音楽コミュニティにも多くの影響を与えている。今日における即興コミュニティの実態は、非常に多様化しているが、そのなかで、ロングアイランド出身で作曲家、ドラマーのJeremy Wexlerという人物に出会った。彼はUCバークレーのPhD(作曲)を卒業し、博士号を取得したドラマーである。最近ではMAX/MSPにも接続可能なセンサードラムを用いたパフォーマンスや、エクスペリメンタルな手法を用いた即興を行っている。同時に自身が魔改造したモジュラーシンセサイザーを用いて、従来のインプロやジャズを解体するような、クィアなポテンシャルを秘めている。私は、彼の音楽に興味を持っており、よく彼のスタジオに遊びに行っていた。
2026年4月、Jeremyからグループを組んでいるメンバーの一人が急病になったため、明日のパフォーマンスにジャンプインできないか?と連絡が来た。シンセサイザーは彼の私物を使用するということで、とにかく来てほしいとのこと。私はジャズの経験はあっても現代音楽領域での即興の経験がとてもあるわけではないが、友人の頼みということもあり、出演を承諾した。
場所は、マンハッタンに迎えに来てもらってから2時間ほど車を走らせた、ロングアイランドの奥地。リハーサル室や美術家のアトリエとしても使われている建物でJeremyとのパフォーマンスを行った。集まったお客さんは50人程度。こんな場所でも意外に人が集まるんだなと素直に思った。極限まで暗い照明、最低限の音響設備… Jeremyがカスタマイズした全ての鍵盤が微分音に調律されたモジュラーシンセから長いドローンを響かせる。プレイをしている途中に、即興について書かれたCobussenの論文を思い出した。
Cobussenは、即興について、ある文脈や歴史のなかで生まれ、そこから一定の制約を受けながらも、同時にその文脈や歴史に作用し、「freedom and choice」のための空間を生み出すものだと書いている。すなわち、即興は、自発性だけによって成り立つものではなく、制約と可能性、安定と揺らぎのあいだに生じる。(Marcel Cobussen, The Field of Musical Improvisation, pp. 190–191)
この場所で起きていることも、まさにそうなのかもしれない。奏者同士がつながり、聞き手までつながっていく。そこには、常に流動的な音楽と、一時的に立ち上がるコミュニティの形が存在する。私の体から発する音が会場に溶けて、私自身もまた、その空間に溶け、漂うような、そんな感じがした。
(②に続く)
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向井 航(Wataru MUKAI)
作曲家、パフォーマー。『ダンシング・クィア』で第33回芥川也寸志サントリー作曲賞を受賞。その他の主な受賞歴に、第8回クロアチア国際作曲コンクール優勝、メンデルスゾーン・ドイツ音楽大学コンクール ドイツ連邦大統領賞、第86回日本音楽コンクール作曲部門第2位および岩谷賞など。宗次徳二海外派遣奨学生、ローム ミュージック ファンデーション奨学生。
主な作品に、ギリシャ悲劇『バッコスの信女』を再解釈し、オーケストラを演劇化する試みである『QUEEN』(26’)ユーフォニアム、エレキギター、女声アンサンブルと大オーケストラのための(オルガン付き)(サントリー芸術財団委嘱)、ドラァグ・カルチャーやキャンプ的な表象を取り入れ、当事者の実際の声を交えながら、クィアな視点から描くオペラ『The Mirror of Nomori』(24’)(アーヒェ劇場)など。
東京藝術大学音楽学部作曲科を首席で卒業後、ドイツ・マンハイム音楽大学を最優秀の成績で卒業。アントン・ブルックナー私立大学博士課程を経て、現在、東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程先端芸術表現研究領域に在籍。東京を拠点に、クィアとアーカイブを軸に、音楽、パフォーマンス、インスタレーションなどを横断した活動を行う。
(2026/10/15)


