アルテ・デラルコ室内楽シリーズ vol.7 ~ボッケリーニの世界~|大河内文恵
アルテ・デラルコ室内楽シリーズ vol.7 ~ボッケリーニの世界~
2026 年 7 月 31 日 五反田文化センター 音楽ホール
2026/7/31 Gotanda Cultural Center Music Hall
Reviewed by 大河内文恵 (Fumie Okouchi)
Photos by ラ・フォンテヴェルデ提供
<出演>
ソプラノ:染谷熱子、鈴木美登里
テノール:大野彰展
ヴァイオリン:若松夏美、荒木優子
ヴィオラ:成田寛
チェロ:鈴木秀美、山根風仁
<曲目>
ルイージ・ボッケリーニ:
二つのヴァイオリンとチェロのための三重奏曲 ハ長調 G.116(1796 年)
弦楽五重奏曲 ホ長調 G.275(1771 年)
~休憩~
ボッケリーニ:悲しみの聖母/スターバト・マーテル G.532(1800 年)
ボッケリーニのイメージが覆された。ボッケリーニのメヌエットといえば、曲名は知らなかったとしても、ほとんどの人は聞き覚えがある。子どもの頃にピアノの発表会で編曲版を弾いた経験を持つ人もいるだろう。また、ボッケリーニ本人がチェロ奏者で室内楽作品が多いことから、器楽の作曲家のイメージも強い。そんなボッケリーニ作曲の《スターバト・マーテル》が演奏されると聞いて興味を持った。
プログラムの前半は器楽曲で三重奏曲と弦楽五重奏曲。弦楽五重奏曲の第 3 楽章はあのメヌエットである。そうか、マイナーな声楽曲に有名な器楽曲を組み合わせたんだなという浅薄な思い込みは見事に裏切られた。
1743 年生まれのボッケリーニは、ハイドン(1723 年生まれ)とモーツァルト(1756 年生まれ)のちょうど中間の世代である。時代でいえば、ウィーン古典派ど真ん中。同世代の作曲家の作品を聴くとどこかハイドンっぽかったり、モーツァルトの初期?と思われる感じがしたりと「時代」が感じられることが多いのだが、ボッケリーニにはそれがあまりない。それには、彼がイタリア生まれで後半生をスペインで過ごしたという地理的な違いのみならず、彼がチェロ奏者であったことが大きな要因になっていると思われる。
三重奏曲では、2つのヴァイオリンとチェロという編成ならばヴァイオリンが旋律を担当してチェロは伴奏に徹するというのが古典派の室内楽曲によくみられる形だが、本日演奏されたハ長調の三重奏曲ではチェロの音型こそ伴奏音型であるものの、音楽構造の重要な一部を形成している。たとえば、3 楽章のどこか牧歌的な長閑さはチェロの跳躍音程によるものであるし、4 楽章ではチェロの十六分音符の音型が快活さを後押ししていた。
ウィーン古典派室内楽の花形は何と言っても弦楽四重奏だろう。このジャンルを確立したハイドンはもとより、多くの作曲家がこのジャンルに珠玉の作品を残している。弦楽五重奏というのは、そこにチェロを 1 本足しただけのようにも思われる。録音音源で聴くと、弦楽四重奏と弦楽五重奏とでは、それほど大きな違いを感じられないかもしれない。
ホ長調弦楽五重奏曲の演奏が始まり、向かって左側のヴァイオリン 2 本と、向かって右側のチェロ 2 本とのバランスに驚いた。バロック時代の通奏低音入りの室内楽のバランスに似ているのだ。旋律と伴奏といったホモフォニックなテクスチャーではなく、各声部が時に旋律になったり、伴奏的な役割になったりする。基本的には均等な役割を果たすバロック的な均衡を保ちつつ、古典派的な明朗な旋律や和声進行が続くというのがボッケリーニなのかと得心した。
楽章が進み、あの 3 楽章になった。あれ?「異形(いぎょう)」という言葉が頭に浮かぶくらい強烈な違和感におそわれた。第 1 ヴァイオリンがあの有名な旋律を奏でる一方で、他の楽器はすべてピツィカートで伴奏する圧倒的偏り。これまでの均整の取れた音楽とは明らかに違う。ボッケリーニの「メヌエット」が有名な理由も、それ以外の曲の演奏機会や耳にする機会が極端に少ない理由もわかった気がした。でも、ボッケリーニ本人としては、この状況はどうなのだろう? いつもとちょっと違う曲を作ったらバズってしまったけど、本当は他の曲も弾いて(聴いて)欲しいと思っているのではないか?
さて、後半は《スターバト・マーテル》である。この作品は 1781 年の初稿が存在し、こちらはソプラノ 1 人の編成で書かれている。本日は 1800 年の改作バージョン。交響曲 Op. 35-4 の第一楽章をイントロダクションとして挿入しており(ただし繰り返しはなし)、この部分はいかにも古典派の交響曲っぽい。第 1 部分の「スターバト・マーテル」が始まると、ヘ長調からヘ短調という調の違いもあるが、下行音形を多用した宗教曲らしい音楽に一変する。
第 2 部分の「うめき苦しむその魂を」からは、バロック的重々しさは軽減され、古典派らしい明るさを取り戻す。聖母マリアの嘆きをあらわすのにこんなに明るい音楽でいいのか?と首を傾げたくなったりもした。声楽部分は三重唱と独唱、そして二重唱もある。ソプラノ2 人にテノール 1 人という編成だが、テノールはいわゆるオペラ歌手のような輝かしいテノールではなく、どちらかというとアルトに近いような位置づけで、独唱者がソプラノからテノールに変わっても、違和感なくスムーズであった。弦楽五重奏による音響世界に独唱であっても二重唱あるいは三重唱であっても、きれいに溶け込んで、しかも歌詞の内容はしっかり伝わってくる。
歌と伴奏という主従の関係ではなく、すべてがフラットに絡み合った響きは、ボッケリーニ独特の、主張しすぎないが確実に心に沁みいってくる音楽と絶妙な相性である。第 8 部分の「清らかな乙女の中の乙女よ」では、チェロのピツィカートがボッケリーニらしさを覗かせた。また、ここの部分からそれまで封印されてきた装飾的歌唱が聴かれ、クライマックスに向かっていることが示される。
3 人で歌われる第 10 部分で、音楽は劇的になる。そういえば、これまでの歌詞で 3 回繰り返す箇所と 1 回で次に行く箇所があったのも、重要な箇所が三重唱になっているのも、偶然ではなく、綿密に練られた構想に基づくものだったのではないかとようやくここで気づいた。1781 年の作品を 1800 年に改作したのは、「新しいパトロンやマーケットを模索しようとした」からではないかと鈴木秀美はプログラムの「ボッケリーニ讃」と題する文章で書いている。もちろん、そうした実用的な側面もあっただろうが、ボッケリーニ自身の信仰告白のような意味合いもあったのではないかと演奏を聴きながら考えた。
(2026/8/15)

