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20世紀を旅したピアノは網干の町屋で隠居中〜「町屋トークイベント」リポート〜|伊藤寛納

20世紀を旅したピアノは網干の町屋で隠居中〜「町屋トークイベント」リポート〜

Text by 伊藤寛納(Kanna Ito):Guest
写真提供:東和恵

 

「なぜそんなピアノが、網干の町屋に?」 

長崎で被爆したピアノが、いま姫路市の西端の町、網干の古い町屋にあるという。大阪音楽大学大学院にて授業の終わりに、私が井口淳子氏からそのお話をうかがったとき、まず胸に浮かんだのは、そんな素朴な疑問だった。 

「被爆ピアノ」は、戦後、長崎や広島で少しずつ見いだされ、その存在が知られるようになってきた。しかし、当時のピアノは今よりはるかに高価で、そもそも数も少ない。加えて、いまなお持ち主のわからないものも多く、その実物や音色に触れる機会はきわめて限られている。そのような貴重な歴史の遺物が、博物館でもコンサートホールでもなく、広島でも長崎でもなく、瀬戸内海沿いの小さな町、網干の町屋にある。その事実は私にとって不思議というほかなかった。 

 

首をかしげながらも、好奇心に引かれるように山陽電車に乗り込んだ。山陽網干駅で降り、町屋へ向かって歩く。古い家並みの残る通りを抜けて片岡家にたどり着くと、そこには、声高に歴史を語るのではなく、ただ静かに時を重ねてきた建物の落ち着きがあった。こんな場所に、長崎で被爆したピアノがあるのかと思うと、いっそう私は興味をかき立てられる。

片岡家の外観

「私も、被爆二世なんですよ」。 

会場のざわめきに紛れるようにして、その言葉がふと耳に入ってきた。片岡家の一室には、すでに多くの人が集まっていたが、そのひと言が、この場に集っている人々の背景が決して一様ではないことを静かに物語っていた。そもそも320年前の町屋が残っているのだから、この町は戦災とは無縁であった。 

この日、会場には、ピアノの所有者であった江副よし子さんの息子である道章氏、「明子さんのピアノ」を管理する一般社団法人HOPEの代表理事であり、被爆ピアノの普及活動にも尽力してきた二口(ふたくち)とみゑ氏、そして報道関係者らも姿を見せていた。戦争の記憶を受け継ぐ人、ピアノの保存と普及に携わる人、所有者の家族、そしてそれを記録しようとする人。ひとつの楽器を前にして、これほど異なる立場の人々が同じ空間に居合わせていること自体、このピアノが単なる古い楽器ではないことを示していた。 

東和恵氏

会が始まると、まず挨拶に立たれたのは、片岡家を管理し活用する事業を行っている東和恵氏である。氏は、かつて井口氏の著書に関するイベントに関わったことから彼女と知り合った。その後、井口氏の娘さんと道章氏のつながりを介して、江副家に珍しいピアノがあり、管理の都合から寄贈先を探しているという話が片岡家へ持ち込まれた。古い町屋を保全し、寺子屋をコンセプトにした催しを開いてきたこの場所に、いくつもの縁が重なるようにして、そのピアノは網干へやってきたのだという。 

最初は「なぜ網干に?」という疑問ばかりが先立っていたが、その経緯を聞くと、これは単なる偶然の産物ではないのだと思い始めた。人と人との縁、モノを守ろうとする意志、そして受け入れる場所があって、はじめてこのピアノはここへたどり着いたのだ。 

トーク会場の隣に、そのピアノが静かに置かれていた。片岡家の落ち着いた空間のなかで、井口氏はこのピアノの来歴を語り始めた。 

それは、一台の楽器の履歴というより、「小さな二十世紀史」のようだった。百年以上前にドレスデンで製造され、ロシアの貴族か富裕な誰かによって購入される。しかしロシア革命により、そのロシア人は亡命を余儀なくされ、ピアノもまた流転の運命に巻き込まれてゆく。やがて次の亡命地に向かうための港、香港で売却され、それをベルリンでの短期留学からの帰途にあった日本人医師(長崎医大教授)が娘のために購入し、長崎へ持ち帰った。そして被爆したのである。大きな歴史の流れの中で引き起こされた数々の出来事が、一台のピアノの木と弦の身体のなかに折り重なっているようだった。 

ピアノを演奏する京谷政樹氏

 そのあと、チェンバロ奏者の京谷政樹氏がそのピアノを奏でた。重い歴史を宿したピアノを前にしているはずなのに、場は不思議と張り詰めてはいなかった。むしろ、穏やかで、親密で、ひらかれていた。人々が見守るなか、鍵盤から打ち出された最初の音は、思っていた以上にやわらかかった。もちろん、音色を言葉で正確に写し取ることは難しい。けれど、その響きには、古びたもののくすみというより、長い時間を経てなお残ってきたものだけが持つ、あたたかさがあった。強く前に出るというより、静かにこちらへ届いてくる音だった。

トークでは、この日のために遠方からやってきた大阪音大の井口淳子氏、能登原由美氏、京谷政樹氏の三人の教員が、それぞれの立場からこのピアノについて語った。井口氏のトークのなかでとくに印象深かったのは、ピアノという楽器がかつて持っていた社会的な意味についてである。氏によれば、アジアの植民地の時代においてピアノは、西洋列強による支配の象徴でもあり、また限られた富裕層のみが所有できる高価なものであった。つまり、ピアノは近代の教養や優雅さの象徴であると同時に、富や権力とも深く結びついた楽器でもあったのだ。

(左から)能登原由美氏、井口淳子氏、京谷政樹氏

そう考えると、このピアノが現在まとっている意味は大きく変化している。かつては一部の人に所有されることで価値を持っていたものが、いまは多くの人に開かれ、記憶を媒介し、人を集めるものとして鳴っている。井口氏の言葉を借りれば、権力や富の象徴であったピアノが、いま私たちの前で、違う意味をまといながらあたたかな音色を響かせているのである。 

ここで思い出されるのが、「明子さんのピアノ」である。平和の尊さを伝えるため、数々の有名アーティストたちとのコラボを実現したとして広く知られるそのピアノは、19歳で亡くなった少女の記憶と強く結びついている。一方で、このピアノの持ち主であったよし子さんは、天寿を全うされたという。どちらも戦争の影を帯びながら、背負わされている意味は少しずつ異なる。若くして断たれた生を記憶するピアノもあれば、ひとりの女性の長い人生に寄り添いながら移動を重ねてきたピアノもある。その違いは、この一台をただ「被爆ピアノ」としてだけではなく、持ち主の生活や時間とともに見つめる視点を与えてくれる。 

満席の客で賑わうトークイベント

さらに、トーク会は参加者を巻き込み「今後このピアノをどのように活用していくか」という話題に発展した。道章氏は、「たくさんの人々、とくに子どもたちに自由に触らせてあげてほしい」と語った。歴史的に貴重なものは、しばしば「大切に保存する」対象になる。もちろん保存は必要だ。しかし、貴重だからこそ隔離するのではなく、貴重だからこそ誰かへ開く。守ることと閉ざすことは、同じではないのだろう。 

ピアノは、旅に向いた楽器ではない。重く、大きく、置く場所を選び、調律や手入れも欠かせない。高価なものであるがゆえに、ぞんざいに扱うこともできない。それでもこの一台が、海を越え、町を越え、人の手から人の手へと受け継がれてきたのは、持ち主たちがその都度、手放さずに連れてきたからなのだろう。とりわけ、転勤を繰り返しながらもよし子さんがこのピアノを手放さなかったという話を聞くと、このピアノは単なる所有物ではなく、生活をともにする家族のような存在だったのではないかと思えてくる。 

 

モノでありながら、人に付き添い、人の移動に従い、最後には別れを迎え、また次の誰かに託される。そうしたあり方を思うと、ピアノというものは案外、人の人生に深く寄り添う存在なのだと気づかされる。別れがあるから、次の出会いがある。受け継がれていくからこそ、多くの人を惹きつけ、人をつなぐ。このピアノがいま網干の町屋で人々に囲まれているのも、その長い旅路が人と人との関係の連なりであったからなのだろう。 

長い旅の末にたどり着いた網干の町屋で、このピアノはようやく休んでいるようにも見える。けれど、その休息は沈黙ではない。むしろこれから先、子どもたちの手に触れられ、さまざまな人の耳に届き、新たな物語を生み出していくための、穏やかな待機なのかもしれない。 

このピアノの晩年は、穏やかで、そしてきっと賑やかなものになるだろう。

片岡家で保管されている江副氏旧蔵のローゼンクランツ


(2026/5/15)

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伊藤寛納 (Kanna Ito)
2002年生まれ。
大阪音楽大学大学院音楽研究科作曲専攻音楽学研究室2年在学中。
新作オペラの制作・台本執筆を行いながら、音楽と社会の関係について考えている。