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ドイツ便り|ミュンヘンのマリオネット劇場|藤井稲

ドイツ便り

ミュンヘンのマリオネット劇場

Text and Photos by 藤井稲(Ina Fujii)Guest

1987年統一前の西ドイツに住んでいた幼少期、年末に家族で東ドイツを旅したことがあった。東ベルリン、ワイマールと訪れ、そして最後に西ドイツのフュッセンを訪れた。お店の中の照明や外灯が暗く、人の表情がどこか不安げに感じた東ドイツで数日間滞在してからフュッセンのホテルに着いたとき、テレビでは映画「サウンド・オブ・ミュージック」が放送されていた。そのときのわたしにとって、その映画は輝くような夢のつまったもののようで、華やかな服装や楽しそうに歌う場面にホッとしたのを覚えている。その映画の中で特に好きだったのが人形劇のシーンであった。
これまでわたしは10年ほど大阪で音楽教員として学校で働いてきた。中学校に勤務していた頃は受験科目ではない教科ということもあり授業規律が崩れやすく、音楽が苦手な子どもたちにどう教えたら身近に感じ、興味あるものになるのかを考えてきた。試行錯誤の中で見つけたもののひとつが、手作りの紙芝居やペープサートである。これらを使って授業をしたとき、子どもたちの反応が違うのを肌で感じてきた。作曲家の人生や音楽作品を紹介するとき、まずわたしが描いた絵を見せるだけで注目する。そして物語がはじまると、素人の下手な絵にもかかわらず絵と音楽の世界に入っていく。地域の中学校、支援学校、小学校と教えてきたが、子どもたちの反応はどの学校も共通していた。
そういう経験もあって、わたしがミュンヘンで生活を始めてまず足を運んだ劇場はマリオネット(人形)劇場であった。ミュンヘンの中心部マリエンプラッツから近い場所に、1800年代に子どもたちの教育目的で建てられたマリオネット劇場がある。それ以前の人形劇といえば移動式でいろいろな場所で催されるものだったが、恒久的な人形劇場として世界で初めて建てられたのがこの建物だ。ここでは就学前の小さな子どもから夜の部は大人向けの演目が上演され、世代を超えて愛され続けている。劇場は200席くらいのこぢんまりした広さで、今まで何度か訪れたどの演目も満席であった。

ここでほぼ月1回必ず上演されるのが、この地域の昔から伝わるAloisiusアロイジウスの物語だ。バイエルンの作家ルートヴィヒ・トーマ(1867~1921)の„Der Münchner im Himmel ”(『天国にいるミュンヘンの男』)という作品である。話の内容は、次のようなものである。ミュンヘン出身の男アロイジウスはミュンヘン駅で荷物を運搬する仕事をしていたが、ある日そこで急死してしまい天国に召される。天国での彼は退屈な日々にイライラしている。神様から課されていた彼のハープの演奏は散々なもので、天国でひどい騒音となって天使たちから苦情がでてしまうほどであった。そういうこともあって、神様はアロイジウスを呼び、ミュンヘンのバイエルン政府に手紙を届けるよう命じる。そしてミュンヘンの空にひらひらと現れたアロイジウスはなんと約束の場所へ向かわず、ビアホールに行ってしまう。そこで彼はおいしいビールをひたすら飲んで、飲んで、飲み続け、本来の目的を忘れてしまい、未だに手紙が届けられていない。
このバイエルン訛りで繰り広げられるアロイジウスの話し方や振る舞いを、観客の大人たちは大笑いして楽しんでいる。それだけでなく客席から人形に話しかけようとする人もいた。もう、ただの人形ではなく旧知の知り合いといったところか。ちなみに彼が(現在も)飲んでいるビアホールはホーフブロイハウスと言って、ミュンヘンの市庁舎に近い16世紀からあるビールの醸造所である。今でも年中多くの観光客で賑わっているが、その建物の中に空中を飛んでいるかのように飾られている巨大な人形が、このアロイジウスである。また、壁にも手紙を持って訪れる彼の姿が描かれている。

この演目ではただ人形によって物語が繰り広げられるだけでなかった。開演と同時に客席のドアからいきなりバイエルンの民族衣装を着た女性が野菜スタンドを押して出てきた。彼女はバイエルン方言で世間話をしはじめ、雰囲気はまるでミュンヘンの市場にいるかのように。観客に話しかけたり野菜を手渡したりしながら、幕があがるまでに会場をあたためてくれた。他の演目でも、公演中に人形遣いがそのまま舞台に出てきて人形と話をしたり、場面転換の際に次の場面の準備をしている舞台裏の様子をあえて見せたりして、演目ごとに工夫された演出を楽しむことができる。
上演が終わると、人形遣いの人たちが全員出てきて挨拶するのがお決まりである。ほとんどが50~60代くらいで、この道に熟練した人たちである。以前ミュンヘンでは公的に人形遣いを養成する学科をつくる案があったそうだが、コロナで白紙になってしまったそうだ。そんな経緯もあり、ここでも後継者育成には苦労しているようだ。
昨年11月、この劇場125周年を祝う記念公演が行われた。劇場の生みの父である総監督の人生を当時の写真を映し出しながら紹介し、人形劇では当時愛された演目の見どころシーンがピアノとヴァイオリンの生演奏とともに上演された。現在も南ドイツのおもちゃ屋さんでよく目にし、ドイツの小学校の劇の題材として使われる人気キャラクター Kasperl カスパール、そして陽気なアロイジウス。このふたりの主人公が、マリオネット劇場の歴史を刻み、その陽気でいたずら好きなキャラクターが人々に愛されてきた。

記念公演の締めくくりにはウクライナの人形劇場スタッフからのビデオメッセージが映し出された。その瞬間、お祝いムードだった観客は静まりかえった。ビデオで流れていたのは爆撃を免れ劇場から避難されてきた数多くの人形の映像。そして、いつでも上演できる状態であることを満面の笑みで伝えるスタッフたちの表情であった。今、戦争というものを身近に感じてしまう社会の空気の中で、より一層人がつくってきた人間くさい、あたたかい文化の重みを感じずにはいられなかった。

(2026/04/15)

藤井稲(Ina Fujii)
大阪音楽大学ピアノ科を卒業後渡独。フンボルト大学ベルリンで音楽学と歴史学を専攻。同大学マギスター(修士)課程修了。留学当初よりナチス強制収容所の音楽について関心を持ち、修士論文ではアウシュヴィッツのオーケストラについて研究を行う。帰国後は大阪府の公立学校教員として勤務。2024年4月よりドイツの日本人学校に勤務。