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パリ・東京雑感|パーフェクト・ワールドに魅入られたガリヴァー|松浦茂長

パーフェクト・ワールドに魅入られたガリヴァー 

Text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura) 

AIが読みとった画像

毎月参加している読書会で、『ガリヴァー旅行記』を読んだ。巨人の国に行き、一寸法師サイズのチビの国に行った話は、絵本で読んで知っていたけれど、面白いのはそのあと。SFみたいに磁石の力で空に浮くラピュタ国とか、理性の発達した馬がご主人で、退化した人間を家畜として飼うフウイヌム国渡航記とか、奇想天外なのがある。
ところが読み進むうち、なやましいことに、フウイヌム国に住む醜悪で性悪な退化人間ヤフーどもの描写が、人間の真実をえぐり出しているように思えてきた。
プーチンのはじめた戦争をやめさせることができない〈人間〉。ネタニヤフのガザ虐殺、トランプの出たとこ勝負イラン戦争……日本人だって、いつウクライナ人やパレスチナ人やイラン人と同じ目にあわされるか分からない。そんな状況のなかで、心も体も醜く、喧嘩っ早いヤフーの姿を見せつけられると、これぞ〈人間〉!と、妙に納得してしまう。
退化人間ヤフーの描写は容赦ない。 

総じて、私の旅行体験を残らず振り返ってみても、これほど醜悪な動物を見たことも、またこれほどただもうわけもなくむかむかするような嫌悪感を私がいだいた動物もなかったように思う。(中略)この呪われた種族のうちの何匹かは、背後の枝を掴んで樹に跳び上り、私の頭上に排泄物を降らせ始めた。 

汚物の雨で悶絶しそうになったガリヴァーを救ったのが、徳高き馬フウイヌムだった。
日本には『鶴女房』(炭焼きの男が罠にかかった鶴を助けてやったら、鶴が美しい女になって炭焼きに嫁入り。自分の羽根を抜き取って高価な反物を織り、恩返しする。)など、倫理的に人間を凌駕する動物の説話はめずらしくないから、『ガリヴァー旅行記』に徳高く、理性の発達した馬が登場しても、西洋人ほどびっくりしないかもしれない。

AI作画

ガリヴァーは5年間、親切なフウイヌムの屋敷で暮らし、熱狂的なフウイヌム礼賛者になる。かれらの社会には悪が存在しない。他者を裏切ったり、あざ笑ったり、真実を隠したりする者がいない。人間社会で皆が有徳だったら、さぞ息苦しいだろうが、フウイヌム社会ではすべてが自然だ。 

そもそもこの高貴なるフウイヌムは美徳に向う性向を自然によって賦与されており、理性的な生き物のうちに悪が存在するという観念がない。 

ガリヴァーは、さかんに「理性的」という語を使うが、東洋の私たちにいわせれば、老子さまの〈無為自然〉だ。身を慎んで善を行うという堅苦しい道徳ではなく、そもそも悪いことができない。心のおもむくままにすることがすべて善なのだ。「悪が存在するという観念がない」のだから、「うそ」とか「うぬぼれ」とか「誘惑」とか、悪への傾きを理解することが出来ない。理解しようにも、「悪」を表わす言葉がフウイヌム語には欠落している。 

私の話を聞きながら、わが主(ガリヴァーを自宅に住まわせ、保護する理性馬)はその顔に大きな困惑の色を浮かべたが、それはこの国では疑うとか、信じないことがまずないので、そうした場合にどう振舞えばいいのか住民にも見当がつかないからである。振り返ってみれば、世界の他の土地に見られる人間性についてわが主とよく議論したおりに、ひとたび嘘をつくとか偽りの表現とかに話が及ぶと、いつもは鋭い判断力を見せるのに、私の言うことを理解するのに四苦八苦の有様であった。 

フウイヌム国の、健康で平穏な暮らしを知ってしまうと、故国イギリスの醜悪さがひときわあざやかに見えてきた。祖国の悪徳を糾弾するガリヴァーの怒りは激しい。 

(フウイヌムには)友の裏切り、変節はなく、隠れた敵にも公然たる敵にも害されることはなかった。賄路を使い、媚を売り、女をとりもって、お偉いさんやその腰巾着の機嫌をとることもなかった。詐欺、弾圧からの防禦壁もいらなかった、わが身体を壊してくれる医者も、財産を潰してくれる弁護士もここにはいなかった、金で雇われて私の言動を監視する密告者も、私に不利な捏造をする密告者もいなかった、ここには他人を嘲笑し、糾弾し、陰口をたたく者も、掏摸も、追剝ぎも、強盗も、弁護士も、女衒も、道化も、賭け事師も、政治屋も、軽薄才子も、憂鬱屋も、欠伸の出るような喋り屋も、論争屋も、強姦マニアも、盗人も、学者もいなかった、政党や派閥の領袖も陣笠もいなかった、誘惑もしくは実例の力によって悪に引っぱる者もいなかった、地下牢も、首切り斧も、絞首台も、曝し台も、笞刑柱もなかった、他人を欺す商人も職人もいなかった、倨傲も虚栄も衒気もない、めかした男も空威張りも、飲ん兵衛も、うろつく娼婦も梅毒男もいなかった、色欲一筋、うるさいは、金は使うはの女房も、馬鹿で高慢ちきな似而非学者もいなかった、しつこくて横柄で喧嘩腰でうるさくて騒々しくて空っぽ頭でうぬぼれて悪態をつく奴等もいなかった、その悪徳の力によりて塵より身を起こしたる悪党はなく、その美徳のゆえに塵に投ぜられたる貴人なく、貴族、ヴァイオリン弾き、裁判官、踊りの教師、どれも一人もいなかった。 

ガリヴァーの頭は、故国イギリスの悪徳を思い出して、はち切れそうだ。
「わが身体を壊してくれる医者」って何? いや、現代だって、クスリを山ほど飲ませて寿命を縮める医者や、無駄な手術をして患者を苦しめる医者はいる。
「政党や派閥の領袖も陣笠も」、政治の腐敗は18世紀も今も同じとみえる。
それにしてもなんと豊穣・華麗な悪徳カタログではないか! 色、金、権力、圧政……悪徳がこれだけ網羅的に数え上げられると、なぜか胸がすく。奇妙な快感である。「ガリヴァーさんよく言ってくれた。今の世も同じだよ。」と、すこしホッとした気持ちになるからか?
しかし、ガリヴァーはよほど純粋(過敏?)な良心の持ち主なのだろう。故国の悪を弾劾するだけでおさまらず、人間界に戻るのは金輪際お断り、とかたく決心するのである。 

さらに私は、彼を手本として、嘘とか欺瞞のすべてを徹底して嫌うことを覚え、真実こそ愛すべきものと見えてきて、そのためにはすべてを犠牲にしてもいいと決心した。(中略)
実はこの国に来てから一年も経たないうちに、私はここの住民を強く敬愛するようになり、もう人間のところへは帰るまい、悪の手本も悪の誘惑もないこの素晴らしいフウイヌムに混じって、美徳を観想し実践しながら余生を送りたいと、堅く決意してしまったのである。 

そうはいっても、ガリヴァー自身、理性を失うほど退化していないとはいえ、ヤフーと同類である事実は否定できない。「たまたま泉に映った自分の姿が目に入ろうものなら、恐怖と自己嫌悪のために顔を背けてしまう」ありさまだった。フウイヌムの生き方にどんなにあこがれても、自分は馬になれない。醜悪なヤフーの同類だ。自己を否定し、〈人間〉性を削り落としながら生きるしかない。自然にすなおに従って生きる幸福なフウイヌムと対照的に、ヤフーの本性にそむく、不自然な生である。 

幸か不幸か、一生フウイヌム国で暮らしたいというガリヴァーの願いはかなわなかった。フウイヌム国の大集会で、「本性堕落したヤフーの同類を、客人のように待遇するのは理性にそむく」という苦情が出て、ガリヴァーを「追放するか、それともヤフーらしく家畜として飼うかどちらかにすべし」で衆議一決。ご主人もしぶしぶ従わざるを得ないはめになったのである。
悪のない〈無為自然〉共同体のなかに、悪の種をまぎれこませるのは、あぶない。フウイヌム文明は多文化共生へ開かれていないのだ。
ガリヴァーは、召使いの馬に手伝ってもらって小さな帆船をつくり、泣く泣く海へ。最初にたどり着いた島で、親切なポルトガル人船長に助けられ、イギリスに帰る。ところが…… 

妻も家族も私は死んでしまったと思い込んでいたので、ビックリ仰天すると同時に大喜びであったが、忌憚のないところ、彼らの姿は憎悪と嫌悪と軽蔑の念を胸一杯にかきたてただけでなく、彼らとの関係が近いだけに、余計にそうであった。というのも、(中略)私の記憶と想像の中にあったのはあの高潔なるフウイヌムの美徳と理念だったからである。そのために、ヤフー種の一匹と交合してさらに子どもを作ってしまったことを考えるだけで、たまらない恥辱と困惑と恐怖に襲われるのであった。家に足を踏み入れた途端にうちの奥方が両腕で抱きついてきて、接吻して離れないので、もう何年もこんなおぞましい動物と接触していなかった私は、ばったり悶絶すること小一時間。今私がこれを書いているのは、イングランドに帰国してから五年後のことで、初めの一年など、奥方とお子さんたちが眼の前に来ると耐え難かったし、彼らの悪臭たるや我慢など出来るものではなかったし、ましてや同じ部屋で食事をとるなど許せるわけがなかった。今日、この時にいたるまで、連中には私のパンにさわらせないし、同じカップで飲むこともない、この手を摑まれることすら容認できない。私が最初にお金を投資したのは二頭の若い種馬を購入するためで、今は立派な厩で飼っているが、この馬の次に私がいちばん好きなのは馬丁である。彼が厩でつけてくる臭いをかぐと、わが元気が蘇る。私の馬たちはまあまあ私を理解してくれて、彼らとの対話は少なくとも日に四時間には及んでいる。手綱も鞍も彼らには縁がなく、彼と私は大変仲が良く、相互に友愛のうちにある。 

抱腹絶倒、「人間嫌い」のカリカチュアの極めつきだ。悪の存在しない理想世界にあこがれるのは結構だが、身も心も理想世界におぼれてしまうと、人間にとって一番大切なもの〈愛〉を失う。妻や子に手を触れられることすらけがらわしく、耐えられない。
悪と共存する度量のない所に〈愛〉は生きのびられない。
フウイヌム国旅物語りを、人間の〈理想主義〉の悲喜劇を描く寓話として読むと、荒唐無稽どころか、なかなか含蓄に富んでいるのがわかる。たとえば、『ガリヴァー旅行記』からずっと時代を下って、「共産主義」。階級も搾取もない理想世界「共産主義」のもとで暮らす人間たちは、ガリヴァーが愛に不感症になったのと似たりよったりの、ヒューマニティー希薄化症状を呈するではないか。 

さて、振りかえってみると、ガリヴァーの旅は、人間を一寸法師サイズにしたり、巨人にしたり、現実離れした瞑想家にしたり、悪を知らない理性馬にしたり、いろんな姿に変えてみる、〈人間〉相対化の連続。私たちが後生大事にかかえてきた〈人間〉像をぐらつかせ、ひっくり返し、もうすこし謙虚に生きるようにうながす、本当はひどく真剣な文学なのだ。 

一寸法師サイズの国は、からだが小さいだけでなく、度量もちっぽけ。やけにふんぞりかえり、内紛が絶えず、隣の一寸法師国と犬猿の仲だ。
ある夜、宮殿の皇妃の御座所が火事になり、使者が飛んできてガリヴァーに応援を求めたときのこと。小さな人々が小さなバケツでちょこちょこ運んでくる水でははおぼつかないので、とっさの機転で大量の尿を放出して猛火を消し止めた。その結果は、感謝されるどころか、「皇妃陛下御座所出火のおり、火焔消火の名を借りて宮殿内に位置せる御座所より出火の焔を放尿を以て鎮めしこと、非道逆道悪道」と反逆者扱いされ、あやうく処刑されるところだった。
体面を傷つけられれば、恩を仇で返す権力者はどこにでもいる。ガリヴァーの放尿消火の顛末は、そんな連中の愉快なカリカチュアだ。 

宙に浮かぶラピュタ国のおえらがたは、生来の瞑想家。どこへ行くにも、たたき棒(先端に膀胱をつけてある)を手にした召使いを従えている。おえらがたの頭脳はすっかり思索に占領されているので、人に会っても、召使いに口をたたいてもらわないと、言葉が出て来ない。相手がなにかしゃべっても、召使いに耳をたたいてもらわないと、聞こえてこない。散歩のときは、ときどき目をたたいてもらわないと、思弁にのめりこんでいるので、崖から落ちたり柱にぶつかったりする。
おかしな連中だが、支配者が皆そろって浮世離れした哲学者だったら、国は平和ではなかろうか? すくなくとも、わいろをやったり取ったり、だましたり裏切ったり、権力と金力めざして目の色を変える支配者どもの国よりはマシなのでは? なにしろラピュタ国のおえらがたは、数学と音楽にしか関心がないのだから。
しかしガリヴァーは、瞑想にばかりのめりこむこの連中が退屈でたまらず、ラピュタ国に愛想を尽かす。イギリス人は抽象的な思考が苦手な、経験主義者なのだ。この特性は、昔もいまも変わらないらしい。
サッチャー首相のイギリスで暮らしたときのこと。インドのインディラ・ガンジー首相が英国訪問するさい、イギリスの「知識人」に会いたいと注文してきた。するとあきれたことに、新聞やテレビから「イギリスに知識人なんているのか?」という声が聞こえてきた。フランスなら知識人とか哲学者とか呼ばれ、尊敬される人がいくらでもいる。でも、イギリスでうっかり〈知識人〉なんてレッテルがはられたら、大迷惑。ラピュタ国のお偉方みたいな役立たずの瞑想家のたぐいに分類されてしまうのだろう。 

では、『ガリヴァー旅行記』の著者スウィフトも、ガリヴァーと同じ気持ちで、瞑想家をばかにしているのだろうか? いや、徳高き馬の国をあれほど美しく描ききったスウィフトが、数学と音楽を愛する思索者の国を軽蔑するとは思えない。スウィフト氏、はらの底では、〈知識人〉を許容しないイギリスを皮肉っているのではないか?
ともあれ、スウィフトは、抽象的思考の苦手なイギリス人にもわかるように、ガリヴァーの寓話に哲学を托した。ガリヴァーを、極端に体が小さく心も狭い一寸法師の国、極端に体が大きく心も大らかな巨人の国、極端に考え深い国、極端に徳の高い国につぎつぎ住まわせ、「人間はそんなにチビでもないし、巨人でもないし、そんなに考え深くもないし、そんなに徳高くもない。そこそこワルで、そこそこ善良。身のほど知って仲良く生きるのが人間にふさわしい」と、読者に気づかせたいのだ。
スウィフトは、ちょうど分断・闘争の時代から和解・寛容の時代へうつる転換点で生まれた。ヨーロッパでは、16~17世紀、カトリックとプロテスタントが血みどろの闘いをくりかえし、スウィフトの時代にようやく落ち着きをみせはじめた。ヨーロッパの歴史を通じ、希有の恩寵的時代である。 

ようやく過去の宗教的ファナティシズムから逃れ出たヨーロッパが、急速に階級的、人種的ファナティシズムにとらえられる時代に入るまえに、神々は人類をあわれみ、ほんのいっとき、平和の瞬間をお与えになった。(ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン『英国社会史』) 

後戻りしないためには、「自分たちの信仰だけが絶対正しい」と、こり固まるのをやめなければならない。〈悪〉の存在しないパーフェクト・ワールド追求を断念しよう。
宗教戦争を弾劾するガリヴァーの風刺に、読者は圧倒される。 

意見の喰い違いが何百万の命を奪うこともある。例えば、肉がパンなのか、パンが肉なのかとか、ある種の果実の液は血か、葡萄酒かとか、口笛を吹くのは悪徳か、美徳かとか、棒切れに接吻するのと火にくべるのと、いずれを良しとすべきかとか、上着に最も適しい色は黒、白、赤、灰色のいずれなりや、その長さは長か短か、その幅は狭か広か、垢だらけか、洗うか等々、ともかく例は尽きない。さらにまた意見の喰い違いから、とりわけ取るに足りないことをめぐる意見の喰い違いから起こる戦争くらい凄惨で、多くの血を流し、終わりの見えないものはない。(強調は引用者による)

神聖な神学論争を徹底的に茶化した発言だが、スウィフトはダブリンの大聖堂の主席司祭という立派な肩書きをもつ聖職者なのだから、大した度胸だ。死ぬまで日曜礼拝を務め、貧者に施し、アイルランド人からは聖者のように慕われたとか。妻の臭いが我慢できなかったガリヴァーみたいな潔癖な理想主義者ではない。 

寛容の時代を予感させる破天荒の文学『ガリヴァー旅行記』――いま分断と暴力の世界へまっしぐらにすべり落ちている私たちには、目のくらむようなまぶしい物語だ。 

(2026/4/15