プロムナード|馬たちの嘆きに耳を澄ます|柿木伸之
馬たちの嘆きに耳を澄ます
Listening to Horses’ Lamentation
Text by 柿木伸之(Nobuyuki Kakigi)
あの馬も哀しくいなないていたのだろうか。古いモノクロームの写真に写っていた一頭の馬の姿が忘れられない。胴体を腹から包まれ、クレーンで吊り上げられて艀から輸送船に移されようとしている。その写真を見たのは、2018年の春に広島市郷土資料館で開催された特別展「宇品港──広島の海の玄関の物語」の会場においてである。現在は広島港と呼ばれている瀬戸内海に面した港は、80年前の敗戦までは軍港だった。地名から宇品港と呼ばれていたその港からは、将兵とともに馬も戦地へ旅立っていった。
宇品の沖合いで吊るされる軍馬の写真を見た郷土資料館の建物は、旧陸軍の糧秣支廠の一部だった。「糧」は将兵の食糧を、「秣」は軍馬の飼料を指す。これらを生産していた工場の一角にあった建物の屋根を支える鉄骨は、原子爆弾の爆風の衝撃で歪んでいる。この被爆建物を、今年の9月に福岡の学生と訪れた。食糧として主に牛肉の煮物の缶詰めが作られていた工場とその周辺の地図をあらためて眺め、近くで牛が飼われていたことを知った。あの馬の写真を見たときの思いが甦ってきた。
学生と行なったフィールドワークの際、広島平和記念資料館が行なっている被爆体験講話のかたちで、県立広島第二高等女学校の生徒だった15歳のときに被爆した切明千枝子さんのお話を聴くことができた。最近、桐谷多恵子の切明さんへの13年にわたる聞き取りが『被爆者・切明千枝子さんとの対話──〈私たちの復興〉をめざして』(彩流社、2025年)にまとめられている。9月に聴いた講話のなかでとくに印象的だったことの一つは、軍都だった広島の至るところで見られた馬の様子である。
輜重兵が軍需品の運搬に用いていた馬は背が低く、ずんぐりとした体形だったのに対し、騎兵が乗る馬の体は引き締まっていて、すらりとした立ち姿だったという。宇品の近くで育った切明さんは、軍馬が港で運ばれていく様子も見ていた。戦地へ送り出される時が来ると、馬たちは決まって哀れな声でいなないたという。馬にもその後の過酷な運命が予感されたのだろうかと、自問するように語られたのが忘れられない。写真で見たあの馬も、同じように嘆いていたのだろうか。
先に触れた『被爆者・切明千枝子さんとの対話』に詳しく記されているように、比治山橋のたもとで原爆に遭い、重い傷を負った身体で被爆死した多くの同窓の生徒を荼毘に付したことを思い出しながら、切明さんは、広島の街路の下には無数の死者の骨と灰が埋まっていることをときどき顧みながら歩いてほしいと語りかけた。講話を反芻しながら学生と平和公園を歩いた。原爆ドームを西側からひと回りすると原民喜の詩碑に行き当たる。そこに刻まれた「碑銘」の詩行をたどるうちに、彼の一篇のエッセイが思い出された。
「夏の花」の補遺のように綴られた「一匹の馬」(『定本原民喜全集II』青土社、1983年、584頁以下)に描かれるのは、被爆から二日後、一時家族で身を寄せていた東照宮の近くの東練兵場に立つ裸馬の様子である。それは「実にショウ然として首を下に垂れている、何ごとかを驚き嘆いているような不思議な姿」で「ぼんやりたたずんでいた」という。仲間の馬をはじめ、無数の生きものが死にゆくのを見た衝撃に立ち尽くしていたのだろうか。灼かれた生きものたちの悲しみを背負って首を垂れていたのかもしれない。
軍馬の多くは東北地方から集められたという。この馬も、東北から連れて来られたのかもしれない。宇品港まで通じる鉄路を運ばれるあいだ、何かを予感していただろうか。たたずむその姿は、福島第一原子力発電所の過酷事故のために人間が去った場所に取り残された馬のそれとも重なる。宇品港で吊るされる馬の痛々しい姿は脳裡に焼き付いたが、今はそこから哀しくいななく声も響いてくるようだ。それとともに嘆く馬たちの影が浮かぶ。切明さんが語った馬、原民喜が描いた馬、そして原発事故の後に見棄てられた馬。
宇品港から戦地へ運ばれる馬は悲鳴を上げた。原子野にたたずむ馬も、無人の野にさまよう馬も、嘆きを響かせていたにちがいない。馬たちは今も戦争を続ける人の姿を見続けてきた。原民喜が焦土で目にした馬は、その重みに首を垂れていたのかもしれない。「一匹の馬」の姿は、生きものが核の惨禍に巻き込まれ続けていることも示している。声として聴かれることのなかった馬たちの嘆きは、命を犠牲にしながら続く人間の歴史を問うているように思える。人はそれに耳を澄ます回路を自身のうちに開くことができるだろうか。
(2025/10/15)

