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特別寄稿|大西宇宙の《セビリアの理髪師》公演とアメリカオペラ事情|武井涼子

大西宇宙の《セビリアの理髪師》公演とアメリカオペラ事情

Text by 武井涼子(Ryoko Takei): Guest
写真提供: ミネソタオペラ( Minnesota Opera )

〈公演概要〉

公演名:《セビリアの理髪師》(Il barbiere di Siviglia)
日時:2025年5月7日
会場:オードウェイ・センター・フォー・ザ・パフォーミング・アーツ(ミネソタ州セントポール)
主催:ミネソタ・オペラ(Minnesota Opera)
イタリア語上演、英語字幕付き

〈スタッフ〉
指揮:クリストファー・フランクリン(Christopher Franklin)
演出:チャック・ハドソン(Chuck Hudson)
衣裳デザイン:マシュー・ルフェーヴル(Mathew LeFebvre)
装置デザイン:アレン・モイヤー(Allen Moyer)
照明デザイン:エリック・ワトキンス(Eric Watkins)
ヘア&メイク:エマ・ガスタフソン(Emma Gustafson)
振付・身体演出:チャック・ハドソン(Chuck Hudson)
インティマシー・ディレクター:ダグ・ショルツ=カールソン(Doug Scholz-Carlson)
演出助手:マーガレット・ジュモンヴィル(Margaret Jumonville)
舞台監督:ルーシー・バーディック(Luci Burdick)
技術監督:ベアクロウ・ハート(Bearclaw Hart)
ヴォーカル・コーチ/ピアノフォルテ:川瀬史泰(Fumiyasu Kawase)

〈出演〉
フィガロ:大西宇宙(Takaoki Onishi)
ロジーナ:キャサリン・ベック(Katherine Beck)
アルマヴィーヴァ伯爵:ルンガ・エリック・ハラム(Lunga Eric Hallam)
バルトロ:マシュー・アンチェル(Matthew Anchel)
バジリオ:ステファン・エゲルストロム(Stefan Egerstrom)
ベルタ:キャサリン・ヘンリー(Katherine Henly)

国際的にオペラの統計を集めているオペラベース(Operabase)によると、ドイツに次いで世界第二位のオペラ上演回数を誇るのはアメリカ合衆国である。しかし、日本にはアメリカのオペラに関する情報がほとんどなく、それがいつも不思議でならない。今シーズン、大西宇宙がアメリカの二つの歌劇場でデビューを果たした。その中から、ミネソタ・オペラによる《セビリアの理髪師》の公演を中心に、アメリカのオペラ事情についても触れ、なぜこれらの公演がいずれも彼の国際的なキャリアにおいて重要な節目となったのかを紐解いてみたい。

歌手育成の観点でも、ルネ・フレミングをはじめとするアメリカ人歌手はもちろん、ファン・ディエゴ・フローレス(カーティス音楽院出身)やアンナ・ネトレプコ(サンフランシスコ歌劇場のメローラ・オペラ・プログラム出身)など、アメリカで教育を受けて世界に羽ばたいた外国人オペラ歌手も少なくない。今回取り上げる大西宇宙も、ジュリアード音楽院で学んだ後、リリック・オペラ・オブ・シカゴのヤング・アーティスト・プログラムに所属し、アメリカで研鑽を積んでいる。

とはいえ、アメリカのオペラ人材教育については、また別の機会に譲るとして、今回はアメリカの歌劇場の実情について少し紹介してみたい。アメリカには、常勤スタッフを一人以上抱え、毎年オペラ上演を行っている団体が150以上存在する。そのうち、年間約4億5千万円以上の事業規模を持つ団体は25あり、さらにその中でも年間23億円以上の規模を誇る団体は11を数える。その最上位に位置するのが、世界最大の予算規模を誇るメトロポリタン・オペラであり、おそらくそれに匹敵する規模を持つのがワシントン・ナショナル・オペラである。ちなみに、メトロポリタン・オペラの年間予算は約400億円。参考までに、ヨーロッパでも豊富な予算で知られるバイエルン国立歌劇場やパリ・オペラ座でもその規模は200億円から300億円程度であることからも、メトロポリタン・オペラの突出ぶりが際立っていることがわかる。

その次に位置づけられるのが、サンフランシスコ・オペラ(1923年設立)、リリック・オペラ・オブ・シカゴ、プラシド・ドミンゴがかつて関与したロサンゼルス・オペラなどで、いずれも100億円規模。オランダ国立オペラやマドリード王立劇場と肩を並べる。

アメリカで成功する歌手は、まず小規模団体でキャリアをスタートさせ、中規模・大規模劇場へとステップアップし、最終的にはこうしたトップに位置する国際的なオペラでのデビューによって国際的評価を得ていくことが多い。

さて今回、大西宇宙はアメリカの格式のある二つの大規模なオペラ、上記のような国際的なオペラハウスの次に意識されるようなオペラで主要な役どころとしてのデビューに成功した。まず、全米10位以内に常にランクされ、マリア・カラスがこけら落としをしたことでも有名なダラス・オペラ、それから全米で常に15位以内ランクされるミネソタ・オペラ。後者は地域密着型でワールド・プレミアを積極的に行っており、活動内容もその規模もシュトゥットガルト歌劇場を思わせる存在である。

大西はダラス・オペラで《ラ・ボエーム》のマルチェッロ役を。そしてミネソタ・オペラでは《セビリアの理髪師》の題名役であるフィガロ役を務めた。私は今回、この《セビリアの理髪師》を観るため、ミネソタ・オペラに足を運んだ。なぜなら、この公演には大西の出演以外にも、どうしても見逃せない二つの理由があったからだ。

まず、一つ目はチェンバロならぬピアノフォルテを弾いたのがミネソタ・オペラのヤング・アーティスト・プログラムに所属の日本人、川瀬史泰であったことである。日本人共演は見逃せないと考えた。それから、もうひとつは、この演出が再演であり、初演時にロジーナを歌ったのが私の師でもあった故重松みかだったことだ。重松先生はこの演出を手掛けたチャック・ハドソンの指導力を買っており、常日頃日本に呼びたいとおっしゃられていた。その彼が演出し、重松みかが初演した舞台を見てみたいと思ったのだ。

公演は2025年5月7日。オードウェイ・センター・フォー・ザ・パフォーミング・アーツ(1,900席)はほぼ満席で、ロビーではピアノを囲みながらプレトークも行われていた。

幕が上がると、舞台はオーソドックスな時代設定ながら、明るい色調とカラフルな衣装で視覚的にも楽しいものだった。アンサンブルは息が合い、大西のフィガロは、コミカルさと品格を兼ね備え、豊かな声量と滑らかな歌唱で全体を牽引。「私は町の何でも屋」も早口が明瞭で、輝かしい高音を長く聞かせて曲が終わると会場は割れんばかりの拍手に包まれた。

ロジーナ役のキャサリン・ベックは大西と同じリリック・オペラ・オブ・シカゴのヤング・アーティスト・プログラム出身のメゾソプラノである。堂々たる歌と演技で、勝ち気で賢い女性をよく表現していた。アルマヴィーヴァ伯爵役のルンガ・エリック・ハラムは美しい声が際立ち、バルトロ役のマシュー・アンチェルとバジリオ役のステファン・エルゲストロム、そしてベルタ役のキャサリン・ヘンリーは、コミカルな役どころを見事に演じた。

指揮のクリストファー・フランクリンはミネソタ・オペラ管弦楽団を的確に導き、歌手との呼吸がしっかり合ったテンポよく流麗な演奏を聴かせた。ロッシーニ特有のクレッシェンドやダイナミクスの起伏が鮮やかで、そのことが舞台上の活気のある世界をより強調していた。また、川瀬のピアノフォルテは華やかで、独創性に富んでいながら歌手に寄り添い、レチタティーヴォに舞台にふさわしい表情を与えていた。

ハドソンの演出は、ほぼすべての動きが音楽と連動しており、舞台上を文字通り走り回ることとなる歌手には気の毒であったが、そのさながら吉本新喜劇かのような演出は字幕を見ずとも大変分かりやすく、随所で笑いの渦が巻き起こった。

マルセル・マルソーのパリ国際マイム学校で学び、唯一その学校で教鞭をとったアメリカ人として、身体表現と演技の融合を追求する彼の強みは、パントマイムで表現された嵐のシーンにも現れていた。またこの演出では、次のおはなしである《フィガロの結婚》でのフィガロの結婚相手、スザンナがフィガロの恋人役として登場、フィガロにラヴ・シーンがあるのも面白かった。このシーンのためもあってスタッフにはインティマシー・ディレクターのダグ・ショルツ=カールソンが起用されており、舞台上での動きは客席から見る印象とは全く異なり、細かな計算のうえに成り立っていたという。アメリカのオペラにはインティマシー・ディレクターだけでなく、格闘的な動きを指導するコンバット・ディレクターなど、多くの専門家が関与する。日本でもこうした制度の導入がより豊かな舞台表現につながるのではないだろうか。

今回の大西宇宙のデビューは、控えめに言っても大成功だった。こうなると、アメリカの大規模劇場でのさらなる活躍と、いよいよ次なるステップが期待されるわけだが、現政権下で外国人芸術家のビザ取得のハードルは上がってしまった。すでに契約が決まっている来シーズンはともかく、ビザが必要な外国人が活躍するのは、この先しばらく難しいと言わざるを得ない。リリック・オペラ・オブ・シカゴのダン・ノヴァックも、今後しばらくは外国人歌手の起用は難しいだろうとの見解を示していた。

しかし、大西はバリトンとしてはまだ若く、今回の大成功はアメリカを中心に、きっと世界の多くのオペラ関係者に伝わるだろう。少し長い目で次のステップを待ちたいと思う。政治に左右されることなく、優れた芸術家たちが自由に才能を発揮できる世界の実現を、心から願ってやまない。芸術は人の心をつなぐものであり、その絆は国境で断ち切られるものではないのだから。

(2025/6/15)

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武井涼子
オペラ歌手。昭和音楽大学博士後期課程修了。アメリカのオペラ団体を専門に研究。奏楽会代表理事として国際音楽祭やオペラ人材育成のワークショップを長年にわたり企画・開催。コロンビア大学MBA、東京大学卒。二期会会員。