五線紙のパンセ|作品と演奏、圧倒|佐原洸
作品と演奏、圧倒
佐原洸(Ko Sahara): Guest
いつのことだったか、
この話は笑われたり不評を買うことが多いのですが、私にとっては非常に真面目な話。音や音楽が、何か別のものを表現したり、意味を帯びたりする例は数多く存在します。しかし、上記のような経験を通して私が感じているのは、結びついている要素同士が、必ずしも意味のうえで共鳴しているとは限らないということです。最初は偶然並置されているだけのものでも、その同居が繰り返されるうちにやがてそこに意味が生じる。そしてその意味が複数の人々に共有され、長い時間をかけて定着していけばそれはいつしか普遍的なものとなり得るのではないか。もちろん、長三和音や長調と明るさの結びつきが市民権を得ていて、その対極には冒頭の私の個人的な感覚があるように、受け入れられやすさにグラデーションは存在すると思います。ただ、同時に私は音そのものは本来他の領域からは独立して存在していること、そして意味とはそうした独立した要素同士のあいだに後から生まれ得るものであることも意識をしています。《ツァラトゥストラはかく語りき》に宇宙のイメージを投影していた人は20世紀前半には一体どれほどいたのでしょうか。
作品を聴く
主に20世紀以降の音楽を聴くとき、私は白を強く感じることがあります。音楽の三要素といえば、リズム、メロディ、ハーモニーというのが一般的に認識されています。ただ、我々は他にも多くの情報を受け取っている。例えば音色や空間、強弱、構成、さらにはジェスチャーやモチーフ同士の関係性など。少なくとも私は、音楽の三要素の重要性はよく理解していますが、それらと同等、ときにはそれ以上にその他の要素に意識が向くことがあります。このように多くの要素が同時に、複雑に交差する音楽を聴いていると、ある瞬間に情報量が飽和するような感覚に襲われることが私はあり、それはまるで写真や映像の世界でいう白飛びのよう。デジタル画像における白飛びとは、特定の範囲でRGB(赤緑青)の値がすべて最大となり、細部の階調が失われてその範囲全体がただ真っ白に見える状態を指します。音楽においても、音色、音域、ダイナミクス、音階などの個々のパラメータが極限まで同時に作用すると、私の中ではそれが白として感覚的に立ち現れるのです。
興味深いことに調性音楽を聴いているときにこの感覚になることは今のところありません。もしかしたら調性ごとに存 在する色彩感に起因しているのかもしれませんし、楽典による分類:例えばCEGを3つの独立した要素ではなく長三和音だと分類することが関数のような役割を果たし、情報量が圧縮されることによるのかもしれません。加えて、この領域は高度に体系化されていることから、和音や旋律のパターンがある程度予測可能であるため音の個別性が強調されにくく、結果として感覚的な飽和には至りにくいのかもしれません。色彩感は美を解釈する上での重要な要素のひとつですが、色彩が豊かなことと限られていることは、いずれも異なる美しさを内包しています。一面の白もまた、れっきとした色彩のひとつであり、そこにしか存在し得ない美も当然ながらあります。むしろ、色彩が制限されているからこそわずかな違いに対して感受性が鋭く働くこともあると私は考えています。
初回の寄稿の冒頭、チャイコフスキーの第一番とラフマニノフの第二番のピアノ協奏曲のCDで、かつて私は後者を敬遠していたことについて書きましたが、今になって思えばそれも聴き手としての私の能力に起因していたのでしょう。映像の階調表現が8ビットなら256段階、10ビットでは1024段階、12ビットともなればさらに細かくなりますが、音楽の聴き手としての私の能力が向上したことに起因して、かつては少ない階調でしか理解できなかった音楽が理解できるようになり、今回の冒頭のようにラフマニノフを傾聴できるようになったのだと思います。今回のアイキャッチ画像はこの地球の写真の解像度と階調を落としたものであり、今の私はこの写真のように鮮明に音楽を捉えることができているかを問いながらこの文章を書いています。
初回を読んでくださった方から、違う演奏者による同じコンピレーションが手元にあったけれども、その方にとってはチャイコフスキーの方が難解で、むしろラフマニノフばかり聴いていたという感想をいただきました。その言葉を受けて改めて両者の作品を聴き直してみると、深く頷ける点がいくつもありました。中学生だった当時の私にとっては、ラフマニノフは一瞬の響きさえも受け入れることができなかった。しかし、次第に聴き手としての感受性や理解力が多少なりとも育ち、いつしかそれが自然と受け入れられるようになってきた。さらに今では音の垂直的な重なりだけでなく、水平的:つまり時間の流れの中で音楽を聴く感覚も、以前よりは持てるようになりました。そうした聴き方の変化を経て、この2つの作品でより難解なのはむしろチャイコフスキーであると今の私は感じています。
一方で、こんな経験もあります。
私の仕事用のスペースはある程度整ったオーディオ環境を備えています。にもかかわらず、あるときふとピアノ曲を聴きたいと思った瞬間、無意識に選んでいた再生手段はスマートフォンでした。目の前に手間もかからず、明らかに高音質で聴ける環境があるにもかかわらず、私はその選択に満足していたのです。それがクラシックのピアノ曲であり、自分自身も弾いたことのある楽曲だったこと、今のスマートフォンが決して粗悪な再生機器ではないこと、そして、音楽が必要かつ十分に正確に演奏されているのが確約された動画だったことなど、さまざまな要因は考えられますが、おそらく私がそのとき求めていたのは音そのものや音響ではなく、音楽に内在する運動的な熱狂だったのだと思います。
私たちは音楽の何を聴いているのか
さて、アルゲリッチによる〈オンディーヌ〉を先日聴いたのですが、その繊細でありながら大胆な表現に圧倒されながらも、多くのことを考えて時間を過ごしました。普段以上に思い巡らすことが多かったのですが、この寄稿が控えていたことが関係しているかもしれません。
あの場にいた聴衆は、アルゲリッチという演奏家の身体性を聴いていたのでしょうか。作品そのものを聴いていたのでしょうか。同じ曲を演奏したことのある人であれば、自分の演奏との比較をしていたかもしれませんし、そうでない人は別のピアニストとの解釈の違いに耳を傾けていたかもしれません。あるいは、ラヴェルの他の作品との関連を意識していた人もいれば、ただ目の前に広がる響きを純粋に味わっていた人もいたでしょう。こうした聴き方の多様性は、ひとりの聴き手の中でも瞬間ごとに移り変わっていくものです。
私自身はというと、あの時ピアノを聴いていたというよりも、アルゲリッチという楽器を聴いていたような感覚を抱いていました。そして同時に、もし全く同じ演奏を無名の学生がしていたら果たして同じような熱狂が生まれただろうか、という問いが頭をよぎりました。
数段落前まで、私は作品を聴くことを前提として文章を展開してきました。しかしクラシック音楽や、その現在進行形である現代音楽において、演奏を聴く、という観点も重要な要素であることは疑いようがありません。むしろ演奏家や多くの愛好家にとっては、作品以上に演奏に関心が向いていることのほうが多いのではないかと思います。一方で、作曲家や批評家などは作品に対しても耳が向かう傾向があるでしょう。
世界的ピアニストの演奏を前にして、私の場合はこの《夜のガスパール》という作品を私が本当に理解できる日は来るのだろうかと考えていました。近づけたと思えばまた遠ざかる。その繰り返しの中で、この作品の難解さをひしひしと感じたのです。難解という枕詞をしばしば与えられている現代音楽のなかに《夜のガスパール》よりも難解な作品はどれだけあるだろうか、という疑問も同時に抱いていました。
演奏に圧倒され、深く感動しながらも、このように私はいくつもの問いを思い浮かべながら音楽を聴いていました。
圧倒
圧倒といえば、先日配布が始まったプラットフォーム#01のチラシに寄稿した文章でもこの単語を使っています。
何が私を圧倒するのでしょうか。
初回で触れたように私は奏者の超絶技巧に強い興味を持っており、それを十全に引き出す作品にしばしば圧倒されます。高度な敏捷性が要求される作品はもちろんのこと、非常に限られた条件でしか成立しない奏法:たとえば木管楽器の重音奏法や、弦楽器におけるサブハーモニクス奏法などが表現の本質と深く結びついている作品にも、同様の感動を覚えます。もちろん伝統的な奏法のみで構成された簡素な作品においても、優れた演奏とはまるで針の穴を通すような繊細なコントロールの連続であるため、それに対して深く感激することも少なくありません。
また、単一もしくは限られた要素や感覚がある強度をもって持続される場合にも私は圧倒されることがあります。それは先に述べたような技巧的な音楽である場合もあれば、興味深い音響の持続の場合もあります。あるいは、ひとつの要素のヴァリエーションが続いている場合、または複数の要素が複雑に絡み合っている場合もあるでしょう。さまざまな可能性が考えられますが、共通して私を圧倒するのは、そうした持続のなかに、ある種の有機性が感じられるときです。一見、自由なように見えて実は統一されていたり、明確な統一があるようで気づけばまったく異なる場所に導かれているようなとき。これは予測可能な要素と、予測不可能な要素が絶妙なバランスで共存している状態に生じるのではないかと考えています。第二回でも述べたように、音楽的文脈や予測の感覚は、私たちの知覚に大きく作用すると私は考えています。
今回の冒頭では音楽と他の感覚的・意味的要素との関係についての個人的なエピソードを紹介しましたが、それに限らず、私たちの聴き方にはさまざまな外的要因が影響を与えています。たとえば、タイトルやプログラムノートの存在によって、音楽の受け取り方や聴取の焦点は大きく変わり得るでしょう。実際《幻想交響曲》のような標題音楽では、音楽自体が言葉を伴っているわけではないにもかかわらず、その背後にある物語的背景やテキスト情報によって、聴き手は音の流れの中に物語を見出すことができます。知っている作品の場合にはどのような演奏解釈がなされるか、初めて聴く作品であればそれに加えて次にどのような展開が待ち受けているか意識的あるいは無意識のうちに予想することがあ り、予想や自らの中の常識から逸脱しているにもかかわらず説得力のある解釈に出会うこともあるでしょう。そのようなときに驚きと同時に圧倒されるのは私だけのことでしょうか。
イブ・クラインやピカソの青、ロスコや塩田千春の赤など、特定の色がそのまま作家の象徴となっているような表現に出会うと、私はその強度に圧倒されるだけではなく羨望すら覚えることがあります。一つの色、あるいは一つのコンセプトですべてを貫いていける人たち。そこには表現の核が明確に定まっているがゆえの力強さがあります。しかしながら、初回にも書いたように私自身の書き手としての本能はむしろこのような単一の発想から逸脱する方向へと動いてしまいます。一方で、聴き手としての本能はそれとは逆に何か一つの核に深く貫かれた音楽に強く惹かれる。私の場合は聴き手たる私が納得できる作品を作るための方法の一つは、作り手たる私が何かを制限することだと自覚しています。
天才という存在について考えることがあります。例えば、あるフレーズを楽譜に書いてこれくらいでちょうど良いだろうと思って聴いてみると、聴き手の私は思いのほか短く感じることが多い。しかし、ある種の天才はそうした修正を必要としない。最初から自分にとってちょうど良い表現がそのまま世界にも通用してしまうような感覚。そこには何よりもまず自分を知っている、という確かな認識があるように思います。カンディンスキーやゴヤ、レンブラントなどの絵を一眼見ただけで「これはあの人の作品だ」と分かるように、音楽にもその人だけの輪郭があります。自分が納得できる音楽を書くということは、自分だけの輪郭を見つけることでもあるはずです。
今回、この記事を書きながら改めて思ったのは、私が心から圧倒された音楽や体験を、今一度じっくりと咀嚼しなければならないということ。そして、それらを通じてしか生まれない表現を探さなければならないということでした。そうした道のりに終わりはないのだと思います。けれど、終わりがないからこそ、進み続ける価値があるのでしょう。
圧倒には程遠いですが、制限が創作の中核に据えられた作品をご紹介したいと思います。また、今回の投稿をきっかけにYouTubeチャンネルを開設し、初回、第二回のページにも演奏をご参照いただけるリンクを追加しましたので、お聴きいただけますと幸いです。
《重なり合う幻影》
私のカタログの中でも最も簡素な作品のひとつである《重なり合う幻影》は自主公演の間奏曲のような役割のために創作された作品で、譜読みの必要がないことを初演時の理想として創作されました。《束の間の幻影》より二作品の冒頭を引用し、ピアニストはそれをただ繰り返すのみですが、同時にリアルタイムでサウンドエフェクトが多重にかかることによりシンプルながらも夢幻的な音響空間の構築が意図されています。
《舞踏組曲》
コントラバスフルートとバリトン・サクソフォンのために作曲した《舞踏組曲》は、この二つの異なる楽器の音響を、いかに同質に、また統一された音響として響かせるかを主題としています。バッハの《無伴奏チェロ組曲》を横断的に引用しつつ、プレリュード、トランジション、アルマンド、クーラント、サラバンド、インターリュード、ジグの計7楽章から構成されます。制作時期はパリ国立高等音楽院修士1年目で、翌年に執筆した修士論文のテーマである《ドイツ国歌を伴う舞踏組曲》からの影響が見て取れます。ある種の制約を自らに課すことで、楽器間の関係性や響きの本質により深く迫ろうとした試みです。
《砂の羽根》
今年1月に初演されたこの作品は、ここ数年の自己整理のひとつの成果として生まれた作品です。全体は一つの単旋律から生成される持続の探究が主題となっており、フリーズというサウンドエフェクトのようなことを楽譜で実現しようとした試みです。この作品はソプラニーノ・サクソフォン独奏のために書かれていますが、サクソフォンの機能に依存した作品であるため、現在は他の種類のサクソフォンによる演奏も視野に入れ、どのような響きが生まれるのか、いくつかの試みを計画しているところです。
最後に、メルキュール・デザールの皆さま、そしてこれまでお読みくださった皆さまへあらためて感謝申し上げます。三回にわたり拙文をお読みいただき誠にありがとうございました。
(2025/6/15)
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佐原洸 (Ko Sahara)
作曲、電子音響デザイン。作品は有機的で繊細な音響を特徴とする。東京音楽大学、東京藝術大学大学院、パリ国立高等音楽院(CNSMDP)第一課程、第二課程の作曲専攻をそれぞれ卒業、修了。2019年度フランス国立音響音楽研究所(IRCAM)作曲研究員。第29回現音作曲新人賞富樫賞受賞。第82回日本音楽コンクール入選。作品はEnsemble Intercontemporain、アール・レスピラン、Ensemble IJ Spaceなどの団体によってアジア、ヨーロッパ各国で演奏される。在仏時より器楽と電子音響のために書かれた作品における電子音響パートの演奏活動を開始。「東京オペラシティリサイタルシリーズ B→C」(東京オペラシティリサイタルホール)、C×C 作曲家が作曲家を訪ねる旅(神奈川県民ホール)、「新しい視点」紅葉坂プロジェクト Vol. 1(神奈川県立音楽堂)、フェニックス・エヴォリューション・シリーズ(ザ・フェニックスホール)などの演奏会に参加し、これまでに約100の器楽と電子音響のための作品の演奏に携わる。仏BabelScoresより作品の一部が出版されている。SPAC-E、kasane主宰。Metamor、プラットフォームメンバー。洗足学園音楽大学、ヤマハマスタークラス各講師。
https://kosahara.com
東京シンフォニエッタ 第57回定期演奏会(リム)
ブーレーズ《…explosante-fixe…》
2025年7月10日(木)19時開演 東京文化会館
プラットフォーム #01 -始動(作曲)
室内アンサンブル作品初演
2025年8月14日(木)17時開演 旧東京音楽学校奏楽堂
難波芙美加ソロパフォーマンス(リム)
ジョドロフスキ《Time & Money Part1》
2025年10月1日(水)19時開演 杉並公会堂小ホール
SPAC-E公演(作曲、リム)
2026年1月5日(月)北とぴあ ペガサスホール
TRANCE 2026(リム)
シュトックハウゼン《Mikrophonie I》
2026年3月13日(金)豊中市立文化芸術センター
エレキギター、チェンバロ、エレクトロニクスのための新作(作曲)
2026年6月5日(金) Walcheturm(スイス)