パリ・東京雑感|「良く」死ぬための権利を法律化するヨーロッパ|松浦茂長
「良く」死ぬための権利を法律化するヨーロッパ
Text by松浦茂長(Shigenaga Matsuura)
フランスは日本よりずっと柔道が盛んだが、柔道の魅力をフランス人に伝えた先達の一人とパリで親しくなった。安本總一さん。日本の電子顕微鏡をフランスの研究所に売り込んだ武勇伝や、映画で、窓から数階下に飛び降りる役をやらされた冒険談など、物静かな安本さんのどこにこんな猛烈人間が潜んでいるのだろうと、びっくりするような話をたくさん聞かせてもらった。
おととし、胃がんで亡くなる直前のことだ。わが家から5分ほどのお宅にうかがうと、フランス人の奥様が、「フランスではたいてい病院で死ぬけれど、日本はいいねえ。夫のおじいさんが亡くなるとき、頭の上を子供が通ったり、いろんな人が出たり入ったり、とても自然でした。フランス人は、死を隠そうとするのに、日本では、生と死がつながっているのね。」とおっしゃる。末期がんの患者の前で「死に方」を語り合って良いものか、ドギマギしたが、安本さんもその話題に乗って、お母さんが献体したいきさつを聞かせてくれた。
安本宅には毎日看護師さんがやって来て、栄養補給のチューブを取り替えたり、「至れり尽くせりの」世話をしてくれる。でも、いずれ病院に入れられ、いろんな装置につながれ、医者と看護師に囲まれて最期を迎えるしかない。「自宅で、家族にさよならを言いながら、静かに臨終を待つことが出来るなら」……かつて見た日本の田舎の光景が、美しい夢のように思い出されるのだろう。
フランスのお年寄りに、どんな風に死にたいか尋ねると、答えは全員一致。「自分の家、自分のベッドで(病院は絶対いや)。苦しまずに、延命装置につながれず、自分を思ってくれる人に囲まれて……食欲がなければ人工的に栄養補給しないで、暮らし慣れ、安心できる環境の中で、ゆっくりと死に移行する……」例外なくこんな風に答えるそうだ。
こんな「穏やかな」死を実現するために、あえて法を犯すフランス人もいる。フランス議会で、「死ぬのを助ける」法律の審議が大詰めを迎えているおりから、ラジオ・フランスは、さまざまな死に方を伝えるドキュメンタリー・シリーズをインターネットで配信した。(安楽死法は、5月27日下院で可決された。)
――84歳の父親の自殺を手助けした女性の話。
父は、毎日のように、苦しさに耐えられず、救急車を呼ぶようになり、「この次は、きっと病院に行ったきりになる。私の意思とは無関係に病院で死ぬ。」と、気付きました。そうならないうちに、自分で納得出来るお別れをしたいと、私たちにも協力を求め、自殺を支援してくれる団体の方に来てもらいました。団体の方は、父がうつ病ではないか、どんな病状か、などていねいにチェックしたうえで、薬品を送り届けてくれました。
クスリが届くと、父は晴々した顔になり、落ち着きを取り戻しました。次に法律上の準備です。いっしょに弁護士のところに行き、私たちに自殺関与の疑いがかけられないよう、父は「自殺を決意した」文書を書きました。
バカンスに出かける前日、父は「今日することに決めた」と私と弟に電話して、皆そろいました。父は、ご馳走と上等のワインを用意して待っていて、いつものように冗談の飛び交う夕食でした。
父がクスリをコップに注いだとき、「気が変わったらやめても良いのよ」と言ったけれど、一口で飲み干した。そして、ベッドに横になったので、私たちもその両脇に寝て、「パパさようなら」とキスしました。すると、「あくびが出る。あくびが出る」と言いながらあくびして、すぐ眠り込んでしまいました。
生と死の間の時間はとても長く感じました。3時半に息をしなくなった。その時ホッとした――自分の気持ちにびっくりしました。こんなことを言うのはぞっとしますけれど、「とても良い瞬間」だったのです。父が願ったように、私たちがそばにいてあげられたし、何の苦痛もなく、旅立った。穏やかな死です。
だから、私はきのう国会に行って、「苦しめられて死ぬのは、もういやだ」と訴えました。今の法律に異議を唱える仲間が100人ほどいましたよ。自分はこんな風に死にたいと決めていても、医者と看護師は、それ以上の治療をしてしまうのです。(ドキュメンタリー・シリーズ『命の終わり、死に到るまで生きる者たち』第3回、『死ぬための法律』〈ラジオ・フランス〉2024年4月24日放送、2025年5月16日配信)
なぜ今、「穏やかな死を!」と叫ばなければならない事態になったのだろう?
中世の教会の浮彫りを見ると、死にそうな人のそばには悪魔が待ち構えている。死ぬや否や地獄に引きずり込もうとする怖いシーンだ。死が迫ったときの重大事は、救われるか滅びるか、死んだ後の心配だった。従って、死んで行く人の面倒を見るのは、医者ではなく司祭だった。
ところが、18世紀末以後、あの世よりこの世の存在感が増すにつれ、死に行く人の枕元に立つのは医者の仕事になって行く。もう治らない――死が確実になっても医者は患者のもとに留まる。留まるけれど、打つ手はない。そこから、患者に対する「ウソの文化」が生まれたと、歴史学のアンヌ・キャロル教授は指摘する。
18世紀まで、大切なのは魂の救済でしたから、神さまとの関係をきれいにするために、当然、病人に「あなたは死ぬ」と伝える必要がありました。
代わって、19世紀末に勢いづいたのが、「闘いの文化」――治癒の望みのない患者が相手なのだから、「病気」との闘いはあり得ない。医者は「死」と闘うのです。医者と死の闘いの場から、おかしな事に、患者は背後におしやられ、その姿は消え去ったのです。
医者はあらゆる手段を使って、命を引き延ばす。死が襲ってきたら、蘇生させます。医者の間でも行き過ぎた延命に対する反省はありました。拷問のような延命は、患者に「悪い」死を強制しているのではないか?
しかし、「闘いの文化」は、どこまでも死と闘うことを要求しますから、何としても命を延ばさなければいけない、決して命を縮めてはいけないのです。(ドキュメンタリー・シリーズ『命の終わり、死に到るまで生きる者たち』第1回、『あるタブーの解剖学』〈ラジオ・フランス〉2024年4月22日放送、2025年5月16日配信)
とはいえ、法律上では20年前に、度を越した延命を禁止するレオネッティ法が出来て、人工呼吸機や栄養補給を合法的に止めることが、認められている。番組は、パリのコシャン病院で、具体的に、治療中止を決める様子を紹介している。毎週、看護師、社会学、心理学、法律、哲学の各専門家とジャーナリストが集まって、倫理的に正しいか、法律上の問題はないかなど長い時間をかけて議論する。この日は、昏睡状態で発見された40歳の路上生活者が、胃瘻のチューブを外したがるので縛り付けてある。病気が回復する見込みはない。この患者への人工的栄養補給は過剰な延命にあたるだろうか、というケースが取り上げられた。
ぼくの住んでいるパリのアパルトマンのお隣さんは、コシャン病院の蘇生医だったので、以前、レオネッティ法について聞いたら、「哲学者が会議に加わってくれるのは、とても助かる」と言っていた。「死」との熾烈な闘いを使命としてきた病院にとって、延命中止は、死への譲歩、敗北ではないか?「闘いの文化」の外にいる人から、強いアドバイスがない限り、「闘い」を中断する決心はつかないのかもしれない。
いずれにせよ、レオネッティ法が出来ても、患者の望みが聞き届けられるケースは、むしろ例外だった。
医者の「闘いの文化」は、なかなかしぶとく、変化は遅い。
法律だけは、一歩も二歩も先を行き、2016年、死期が迫った患者は「深く継続した鎮静」、つまり死ぬまで眠り続ける処置を要求する権利があるとする、クレス・レオネッティ法が出来た。この法律によって、ついに患者が主役になった。医者が患者に提案し、患者は同意する、これまでの関係を逆転し、患者の「要求」に医者がこたえる――「死との闘いの文化」をひっくり返す、パラダイムシフトを迫る法律だ。
それでも、法律は出来たものの、神経科医ヴァレリー・メナージュによれば、あいかわらず医者が決め、患者は同意する力関係に大した変化は起こらなかったし、実際に「死ぬまでの鎮静」が行なわれるケースは非常に少ない。医者たちは、患者の権利という「新しい」権利が誕生したことに気付いていないのだという。
――家で死にたいという夫の希望をかなえられなかった元病院長の話
医者のピエールは脳の悪性腫瘍が転移し、治療を試みても効果は期待できないと宣告される。どこで死を迎えるか? 病院の緩和病棟は絶対にイヤ。残る人生の質が問題だ。多少命が短くなっても良いから、本当に人生と呼ぶにあたいする時を過ごしたい。そのためには、ピアノがあり、本に囲まれた、自分の小宇宙を最期まで持ち続けることだと決める。
2ヶ月後、病状が悪化。死ぬためのクスリを用意する。同僚の救急医に、クスリを持っていることを告げ、決して自分に蘇生法を試みないよう頼む。でも、ピエールはクスリを飲まなかった。妻のヴェロニクは「もし自殺すれば、私が夫を殺したことにされ、ひどい目にあうのを心配したのです」と回想する。
残る唯一の方法は自宅で「深い鎮静」処置をしてもらうこと。緩和治療の医者に連絡すると、自宅まで来てピエールの決意を聞いたが、「家で眠らせるのは不可能です。国民のために書かれた法律があっても、医学の現実は別です」と言う。そのあと、病院でピエールのケースについて検討会議が開かれ、別の医者がやって来て、「病院に入れなさい」と、最終決定を伝える。結局、緩和治療のベッドが空くのを待って、ピエールは救急車で運ばれた。
付き添ったヴェロニク――「救急車に乗せられたことに気がついていたかしら? ピエールはあんなに救急車を嫌がっていたのに。彼の気持ちは永久に知ることが出来ません。」
3日後にピエールは亡くなる。――「とてもつらい、重苦しい気持ちでした。私はピエールとの約束を守れなかったのですから。」
ヴェロニクは病院長だったこともあるし、医療調査など衛生福祉畑で30年以上働いてきた。それだけに、今の医療に何が欠けているか、発言しなければならないと感じている。
「緩和治療にたずさわる方たちは、技術も高いし、献身的に働いてくれています。でも、患者が緩和治療と別のことを望んでいるのだったら、それに耳を傾けてほしい。具体的には、死ぬのを助けるのに賛成か反対かですが、その前に本当に考えなければいけないのは、私たちがどこまでぴったり「死」に同伴することができるかです。」(ドキュメンタリー・シリーズ『命の終わり、死に到るまで生きる者たち』第1回、『あるタブーの解剖学』〈ラジオ・フランス〉2024年4月22日放送、2025年5月16日配信)
もし、医者が、死に到るまで注意深い同伴者であり続けたなら、自殺支援の法律を議論する事態にはならなかったのかもしれない。
患者の権利を最初に法律化したのは、「国境なき医師団」の創設者で、厚生大臣を務めたベルナール・クシュネルである。2002年のクシュネル法は、治療の内容を誠実に患者に伝えること、患者の同意を得ることを医者に求めている。この法律の精神を受けて、レオネッティ法とクレス・レオネッティ法が生まれたのだが、医者は変わらなかった。だとすれば、医者を変えるためには「患者が死にたいと求めたら、自殺を助けなさい」と、あからさまに要求するほかないのかもしれない。クシュネルは、いま、「死を助ける」法を強く支持し、こう書いている。
私たち、病む人々の世話をする者たちは、身のほどをわきまえなければならない。私たちは、患者とその周りの人々に奉仕するのであって、自分たちが作り上げた観念に仕えるのではない。ごく当たり前の謙虚さに立ち帰ること。ひとつの質問に答えるように、あるいは、目の前にいる人の顔が訴えかけてくるものに答えるように、病んだ〈ひと〉に答えるのが私たちの役目であり、すべてを理解し(うぬぼれた医学的使命感)、すべてを説明し、すべてをコントロールしたりできないことを知り、そのことを受けいれる。(フランソワ・ブロ、ベルナール・クシュネル『患者が自分の最期を決定する自由を持つようにしよう。医者が患者の代わりに決めるのではなく』〈ル・モンド〉5月18日)
「国境なき医師団」といえば、宇宙服のような厳重装備で、エボラ出血熱の治療にあたる姿や、アフガニスタンで敵味方の差別なく受け入れたクリニックが、アメリカ軍に空爆された写真を思い出す。命を「救う」ために、危険をいとわず地の果てまで行く「国境なき医師団」の創設者が、命を「終わらせる」法律に賛同しなければならない時代なのだ。
穏やかな死は、本人のしあわせだけでなく、残された者に美しい思い出を刻み込んでくれる。
――14年前、胃がんで亡くなった母は、手術も化学療法も受けず、点滴も拒否して、湖と山の見えるお気に入りの老人ホームで、穏やかな最後の日々を送った。往診してくれたお医者さんは、ベッドの横に正座して、母の様子を観察し、小さな痛みも見逃さなかった。クシュネルに満点を付けてもらえそうな医師だった。
――子供の頃一緒に遊んでもらった、年上のいとこは、筋萎縮性側索硬化症(ALS)にかかり、生命維持装置につながれた。いったん延命を始めると外せない。家族は悩んでいた。
――映画と音楽について素晴らしい文章を書いた友人が胃がんになり、何も食べられなくなった。医者にかかるのを拒否したが、無理やり救急車で病院に運ばれ手術され、一命を取り留めた。数ヶ月後、また入院。液の入った袋を指し「胆汁が出て来るんだ。アンフォルタス(ワーグナー『パルジファル』に登場する、聖杯を守る王。癒えない傷口からは、絶えず血が流れ出し、ひたすら死を願う)の苦しみだよ」と、顔をゆがめていた。死が近づくにつれ、苛立ちが強まり、激しい怒りをぶつけてくる。「救急車で運ばれずに、あのまま食べずにいれば、穏やかな最期を迎えられたのに」と、悔しい思いをしていたのかもしれない。
日本では「死ぬのを助ける法律を」という声は聞こえてこない。なぜだろう。医者が、患者の残された人生の質を配慮するだけの謙虚さを、失っていないからかもしれない。あるいは、穏やかな死は可能だし、患者にはそれを求める権利があるということに、私たちが気付いていないだけかもしれない。
(2025/6/15)