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小人閑居為不善日記 |かれらが旅に出た理由――《新世紀ロマンティクス》と《クィア/QUEER》|noirse

かれらが旅に出た理由――《新世紀ロマンティクス》と《クィア/QUEER》
Letters, Lights, Travels On The Streets

Text by noirse : Guest

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旅についての文章を読んでいると、よく目にする物言いがある。最近の人は携帯片手にあらかじめ検索して調べた人気スポットだけを周り、写真をインスタに挙げることばかりに熱心で、これは旅とは言えないという主張だ。

マンガ原作のアニメ、《ざつ旅-That’s Journey-》というアニメを毎週見ている。マンガ家を目指す女子大生が旅を通して成長していくという話なのだが、その旅の内実が一部で疑問視されている。旅が主人公の成長のダシに使われているのではないかというのである。

主人公は旅先で何かを見つけては、帰ったらそれを友人に教えようとか、今度は彼らと一緒に行こうなどと考える。そして「ひとり旅の旅の先って誰かなんだ」、「ひとりだからこそ人とのつながりを感じられる」、「そこからまた次の旅が始まるんだ」と思う。けれども毎日のストレスから自由になりたいからひとり旅に出ることもあるだろうし、何かを共有できるような友人をもたない人もいる。《ざつ旅》では日常生活では得られない何かがあるから旅に出るわけではない。もともとある程度満たされた環境にある主人公が、それをさらに底上げするためのツールとして旅を選択している。

また自身のマンガのネタを探すために旅に出るという理由もあり、《ざつ旅》の主人公にとって旅は目的でなく手段となっている。旅の愛好者からすれば旅は旅自体に価値があるのであって、そういう観点からすれば《ざつ旅》に満足できないのもわかる。

しかしこれは線引きの難しい問題でもある。《何でも見てやろう》(1961)を読んで旅に出た若者や《深夜特急》(1986)に影響されたバックパッカーは、知見を広めるためだったり「自分探し」のために旅を利用していたとも言えるだろう。純粋な旅とはどのようなものなのだろうか。旅を扱った2本の新作映画を通して、旅のイメージの変遷を追ってみたい。

2

《新世紀ロマンティクス》(2024)は中国を代表する監督、ジャ・ジャンクーの最新作だ。20年以上に渡って撮り溜めてきた映像フッテージを編集し、中国がグローバル市場に打って出た2001年からパンデミックの最中である2022年までを駆け抜けるという、あまり例を見ない試みに挑んでいる。

1980年代、《黄色い大地》(1984)のチェン・カイコーや《紅いコーリャン》(1987)のチャン・イーモウら中国第五世代と呼ばれる監督たちの活躍により、世界は中国映画を「発見」した。しかし90年代から映画を見始めたわたしには第五世代の作品はあまりピンとこなかった。若造だったゆえに文革後の中国への理解が足りなかったのもあるが、雄大な大地と歴史を背景に詩情たっぷりと物語を綴る彼らのアプローチは、90年代に郊外で育った人間には遠いできごとのように感じられたのだ。

一方そのころ、ロウ・イエやワン・シャオシュアイ、そしてジャ・ジャンクーと、中国第六世代と呼ばれる監督たちが日本に紹介されるようになってきた。中でもジャ・ジャンクーの長編デビュー作《一瞬の夢》(1997)は地方都市のスリの青年の日常を描いていて、こちらは十分親近感を抱くことができた。

忘れられないのは北京世界公園を舞台にした《世界》(2004)だ。世界中のモニュメントを集めたミニチュアパークで働きながら豊かな暮らしを享受する男女のむなしい心を浮き彫りにしており、2000年代最高の映画のひとつだと思っている。その後ジャ・ジャンクーは《長江哀歌》(2006)でヴェネツィア映画祭金獅子賞を受賞、世界中の注目を浴びる監督のひとりとなった。だがこの作品から、違和感を覚えるようにもなっていった。

ジャ・ジャンクーのキャリアは中国が実質的な資本主義国家へと突き進んでいった過程と同期していて、それに自覚的なのか、主人公たちが旅をしながら激しく変貌していく中国を巡っていくものが目立つ。開放後の80年代初頭から10年のあいだ各地を廻る小劇団を追った青春映画《プラットホーム》(2000)。1993年に着工開始、2009年に竣工した三峡ダムを背景に、家族を探す男女を描いた《長江哀歌》。2001年から20年近くに渡る男女の行き違いを描く《帰れない二人》(2018)。彼らの旅の末路はどれもわびしく、中国はたしかに豊かになったものの、とりかえしのつかない何かを忘れてしまったのではないかという思いが伝わってくる。

しかしこれはあまりにわかりやすいセンチメンタリズムでもあって、それゆえに欧米の観客にも共感しやすく、高い評価につながっているのかもしれないが、単純に言えば「昔はよかった」というだけの話でもある。《新世紀ロマンティクス》も時代に翻弄された男女が各地ですれ違い、いつしか中年となって過ぎ去った過去に思いを馳せるというもので、《帰れない二人》とほぼ同じ内容だ。映画の最後に主人公が市民マラソンのランナーの中に紛れ込み、何処に辿り着くのかわからないけれどもそれでも走り続けるというラストは悪くなかったものの、それは新たな一歩を踏み出すことのできないジャ・ジャンクーのジレンマとも感じられ、かつての作品を知っている者としては少しさみしい気持ちになった。

ただ名声を得て以降の作品にも、不可解かつ過剰に感じられる、興味深い点がある。叙情的な時間が流れる《長江哀歌》の中で、突然何の前触れもなく廃墟がロケット噴射を始めて空へ飛び立っていく場面がある。同じように感傷的な《帰れない二人》でも、いきなり上空をUFOが飛び去っていくシーンが挟み込まれる。これらはあまりにも脈絡がなく、作品の感想を拾ってみても戸惑いの声を見かける。

けれどもこの心情はよくわかるように思う。ジャ・ジャンクー作品の旅人たちは過去に悔いを残しているが、時代は後退を許さず、先に進むしかない。何処に旅に出ようと出口はない。八方塞がりの中、閉塞感からの「出口」を求める彼らの前に、一種の救済の予感として神秘が横切っていく、そういったことではないだろうか。

3

《クィア/QUEER》(2024)は、《君の名前で僕を呼んで》(2017)や《ボーンズ アンド オール》(2022)など話題作を連発している監督ルカ・グァダニーノの新作で、原作はウィリアム・バロウズの同名小説。グァダニーノは十代のときに本書を読んで感銘を受け、それが今回の映画化につながったそうだ。

バロウズと言えばビート・ジェネレーションだ。1950年代、バロウズにケルアック、ギンズバーグらビートニクの作家たちは旧来の価値観の「外部」を目指し、あるいは旅、あるいはドラッグ、あるいはインモラルなセックスによって内的な革命を起こそうとした。彼らの試みは、言い換えれば「旅」の純粋性の模索と言えるだろう。

こうした試みは戦後の若者文化に多大な影響を与えた。バロウズだけに限ってもボブ・ディランにルー・リード、パティ・スミスにカート・コバーンなどのロックミュージシャンや、デニス・ホッパーやジョニー・デップ、ジム・ジャームッシュにガス・ヴァン・サントなどの映画人からも慕われた。仮に純粋な旅というものがあるとすれば、そのイメージの拡散にはビートニクが大きく貢献しており、それはロックやロードムービーによってさらに拡散した。

同時にビートニクは20世紀における反権威的な文化運動の源泉でもあった。しかし《クール・ルールズ》や《反逆の神話 》で分析されているように、このようなカウンターカルチャーは商品になると判断され、資本主義に取り込まれていく。

ビートニクは「外部」を希求したが、そんなものは存在しなかった。その精神はヒッピーに継承されていくが、ドラッグは多数の中毒者を生み出し、ヒッピーイズムはニューエイジやスピリチュアルと接続、あるいはカルト化して、マンソン事件のような悲劇を招いた。ロックは産業化し、ヒッピー文化に影響を受けたパーソナルコンピュータ革命の行き着く果ては、ネットを利用したポピュリズム政治だ。そんな時代にあらためてバロウズの著書を映画化することに、どういった意味があるのだろうか。

バロウズ作品の映画化といえば、《裸のランチ》(1992)がよく知られている。インターゾーンという架空の街を舞台にした奇妙な小説だが、監督のデヴィッド・クローネンバーグはバロウズの人生を作品に投影させ、彼なりのバロウズ総括、ひいてはビート文学の総括めいた性質を帯びている。

具体的には、有名な「ウィリアム・テル事件」が鍵となっている。作家になる前のこと、麻薬と未登録の拳銃が警察に摘発されたバロウズはメキシコへ逃亡、出訴期限が過ぎるのを待っていた。そのため内縁の妻ジョーン・フォルマーも息子を連れてやってきたのだが、あるときいつものように酩酊したバロウズはウィリアム・テルごっこをやろうとジョーンに持ちかけ、誤って射殺してしまう。作家デビュー作《ジャンキー》は事件前、二作目《クィア》は事件後に執筆されており、《裸のランチ》は三作目にあたる。

クローネンバーグはこの事件を以下のように解釈していく。作家のウィリアム・リーは妻のジョーンをウィリアム・テルごっこで射殺してしまい、インターゾーンへ逃亡。そこからさらにアネクシアという国へ向かうため、妻の分身であるジョーン・フロストと国境へと向かう。国境警備隊から作家であることの証明を迫られたリーは、ジョーンにまたもやウィリアム・テルごっこを持ちかけ、やはり射殺してしまう。涙するリーに、警備隊はアネクシアへの通過を許可する。

《クィア》の序文でバロウズは妻の死がなければ作家になることはなかったと書いているが、クローネンバーグはその述懐をそのまま映像化していると言えるだろう。人間社会の「外部」への脱出に成功したというようにも受け取れる結末だが、クローネンバーグは社会からの逸脱には犠牲が伴うことを重視し、ビートニクの自由への渇望に釘を刺す。では今回の《クィア》映画版はどうだったか。

麻薬の罪でメキシコに逃げてきたウィリアム・リーは、アラートンという若い男と知り合う。リーは彼と関係しのめり込んでいくが、他者からの過剰な干渉を厭うアラートンはリーとの距離を保とうとする。リーはアラートンを誘い、テレパシー能力を得ることができるという幻覚剤ヤヘを求めてエクアドルへ向かう。けれどもヤヘは見つからず、アラートンとも別れ、リーは孤独を抱えたままメキシコに戻ってくる。

以上は《クィア》原作の概要だ。映画版も概ね同じ内容なのだが、ひとつだけ大きな違いがある。リーとアラートンはヤヘの摂取に成功し、しかもリーが夢見たテレパスによる交信も実現するのだ。しかしリーはテレパス能力によって皮肉にも、アラートンが心の底から彼を拒絶していることを完膚なきまでに悟ってしまう。

バロウズの人生はアルコールやドラッグがつきまとい、奇矯なふるまいも目立つが、もともとはハーバードで英文学を、ウィーン大学で医学を修め、コロンビア大の大学院で人類学を研究したインテリで、現実と虚構の境界線については百も承知だったはずだ。主人公リーにはバロウズ自身が投影されているのだろうが、麻薬や同性愛に溺れていくリーの姿をバロウズは客観的に、突き放して書き出している。旅やドラッグやセックスによって「外部」を求めてもその先に答えはないということをバロウズは十分わかっていて、その絶望的な真実が当時の読者の心を打ったのではないだろうか。

しかしグァダニーノはあえて、リーに「外部」に触れることを許す。また《クィア》は原作でも妻子の影は見当たらないのだが今回の映画版もそれは同様で、ウィリアム・テル事件もほのめかす程度でほとんど触れることはない。クローネンバーグの《裸のランチ》に比べ、バロウズに対してだいぶ甘い、ロマンティシズムを強調した出来となっている。

けれどもこうも言えよう。映画版《クィア》も時代設定は原作通り1950年代となっているが、ニルヴァーナやプリンスなどその数十年後に流行った音楽が使われていたり、ロエベのジョナサン・アンダーソンが衣装デザインを手掛けていたりと、古びた印象は受けない。グァダニーノは《クィア》を70年以上前のできごととして再現するのではなく、2020年代の今、どのようにあるべきかを考えて向き合っているはずだ。そのためか、孤独に苛まれ、うさんくさいテレパス能力を求めさまようリーの道行きには、ジャ・ジャンクー作品の旅人たちの、神秘を求める切実さが重なってくるのだ。

4

《旅する(日常を拓く知 5)》で宗教学者の飯謙は、旅は共同体を求めるものだと言う。所属する共同体から離れ、意外な出逢いを求めるために旅に出る人もいるだろうが、それは別の共同体との遭遇ということでもある。

さらに動物行動学者の榎本知郎は著書《なぜヒトは旅をするのか》で「許容」について論じ、「許容は、ヒトという種に固有の特徴」で、見知らぬ外部の人間でも迎え入れるヒトの許容心が旅を成立させたと述べる。異なる共同体との意外な出逢いも、ひとつの共同体から別の共同体への移行であるということだ。

それでは「外部」を求めて旅に出たビートニクの旅は無駄だったのか。飯謙はさらに、遡れば旅というものは、巡礼という「スピリチュアルな共同体」を求めるものとしてあったとする。

ギンズバーグは50年代後半にインドを旅して周り、60年代にはハレークリシュナに傾倒、のちに仏教徒となった。仏教や禅といえばケルアックで、《禅ヒッピー》(《ダルマ・バムズ》)という本も書いているくらいだが、彼はもともとフレンチ・カナディアンで、その後カトリックに戻っていった。「スピリチュアルであること、それが僕にとっていちばん重要なことだったんだ」とギンズバーグは述懐する(スティーブ・ターナー《ジャック・ケルアック: 放浪天使の歌》)。ビートニクが打ち上げた「外部」を求める純粋な旅も、結局のところある価値観から別の価値観への移行に過ぎなかったのだ。

それではバロウズはどうだったろうか。バロウズは宗教に依存することはなかったが、オカルティストとしても有名だった。けれどもバロウズの翻訳を多く手掛けた山形浩生はこのように指摘する。

一方のバロウズの場合も、サブリミナルというのは重要な概念であり続けた。なんだかんだ言いつつ奥さん殺しを後ろめたく思っていたバロウズの場合、頭の中に入り込んで他人にやりたくないことをさせてしまうという、暗示とか憑依とかいうのが実在してくれればとてもありがたかったから。妻は自分が殺したのではなく、何かの暗示や霊が自分の意に反して身体を動かし、妻を殺したのだと言えれば、バロウズとしてはとても安心できる考えだったからだ。

(《ユリイカ》、1997年12月、特集:バロウズのいない世界)

こうしてバロウズは「かなり強烈な被害妄想にとらわれることと」なり、その著書で「この現実が異星生命体に支配されている、麻薬のように中毒させられては禁断症状に苦しめられるように操作されているのだ、そしてそれが言語というウィルスとしてわれわれに寄生しているのだ、という説が、繰り返し唱えられて」いき、バロウズが広めた手法であるカットアップやフォールドインによって「文を手当たり次第に切ったり折ったりして並べ替えることで、新しい組み合わせの中から文に隠された(人々を無意識的に操作する)意味やメッセージを暴露しよう」として、「一日中この作業を続けて」、「ほとんど自閉症に近い暮らしを続けて」いたという(バロウズ《夢の書:わが教育》山形浩生によるあとがき)。山形のバロウズ観に比べれば、クローネンバーグが《裸のランチ》で展開した犠牲と責任の物語も、まだバロウズに対して好意的だったと言えるだろう。

バロウズはたしかにいいかげんな人物だったと思うが、けれどもあまり責める気もしないのは、こうした心の弱さに思い当たる節があるからだ。「新しい組み合わせの中から文に隠された(人々を無意識的に操作する)意味やメッセージを暴露」するというバロウズの行為は、今SNSで起きていることそのものだ。

前述した通りビート文学は資本主義に利用され、今では反権力に結びついた文化、たとえば「音楽に政治を持ち込むこと」は、時代遅れで見当違いの行為と見做されるようになった。「外部」に触れたいというロマンティシズムも、遠い昔に死滅した。ビートニクの影響を受けたヒッピー文化と密接な関係にあったコンピュータは、現在SNSというかたちで簡単に誰とも「つながる」ことができ、責任を取ることなく「炎上」させ、断絶をもたらすようになった。

《クィア》映画版はバロウズに寛容と述べたが、結局はアラートンとのあいだに根本的な「断絶」をもたらすことを考えると、ここでのテレパスとはSNSのメタファーであるようにも受け取れる。バロウズがカットアップやフォールドインで具現化しようとしたオカルティズムは、資本主義のもとにSNS上で再現されているのだ。

かつてケルアックやギンズバーグが憧れた東洋思想の中心地である中国でさえも、もはや資本主義に飲み込まれようとしている。かつてビートニクがそうしたイデオロギーから逃れるために打ち出した旅という方法も、今ではSNSによって旅のイメージを拡散させるという、資本主義を加速するための装置に変わってしまった。

《新世紀ロマンティクス》の最後に現れる市民マラソンは、ジャ・ジャンクー作品の男女の旅がこれからも続いていくことを示唆する。何処かへ走っていくランナーたちは、資本主義から逃げ出そうとしているようにも見えるが、加速させているようにも窺え、これは要するに両方該当するということなのだろう。現代の旅行者は資本主義から逃げ出すと同時に加速させる、そのように存在する。こうした状況下では、旅を自己実現のために活用しようという《ざつ旅》の主人公の言動も、疑問視すべきことではないのかもしれない。

(2025/6/15)

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noirse
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