評論|三善晃の声を聴く(5)三善のアレグロ!と大相撲|丘山万里子
三善のアレグロ!と大相撲
Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
日本人にアレグロは書けない、という言葉を聞いたのは、たぶん小倉朗の楽式論の講義であったと思う。『日本の耳』という名著を残したこの作曲家の話が筆者は大好きだった。その著で小倉は、日本の伝統音楽が「長ったらしく」「すきまだらけ」で、西洋音楽のアレグロやプレストを持たないと断じ、その理由を多様な視点から分析している。当時はその新鮮な切り口と語りに目から鱗の思いであった。日本の二拍子(牛歩)に対し、西洋が三拍子(騎馬)のリズムであること、さらに日本の三拍子系は念仏すなわち「なむ あみ だぶつ」「なんみょう ほうれん げきょう」くらいしかない(p.38)、との指摘にはへえ、だったし、疾走する馬の4つ刻みの拍がつまって3/8、6/8のアレグロになるにあたり、「騎手たちは、馬上で跳ね上げられ、また跳ねあげられて、それらのリズムを体で感じとり、音楽家たちは、単に肉体的な感覚としてばかりでなく聴覚的、視覚的に、それらのリズムを身の裡にとりこみ、音楽に生かしていったはずである」との言も、なるほどと納得。日本の二拍子系は農耕、ナンバ歩行に由来とし、日本語の特性、右脳左脳と言語受信部位の相違に加え、いわゆる比較音楽学的な領域を筆者に示してくれたのである。(『日本の耳』p.38~40)
さて、三善のアレグロ。ここまで見た初期作品でのアレグロのぶっちぎり躍動感、さらには6/8、加えて三連符を好むのが気になっていた。6/8は騎馬系、してみると三連符同音(ばかりではないが)連打は一種の牛歩系(ドローン)か?
そうして、三善の畏友、矢代秋雄(滞仏1951~56、55~56は三善と一緒)が乗馬について熱心に述べているのを思い出した。
【矢代秋雄と乗馬】
矢代はこれまた天性の音楽家であった。彼の母方の祖父木村繁四郎は明治時代の進歩的教育家で、若い頃からクリスチャン、よく讃美歌を歌っていたが、矢代に言わせると「ドレミファにのらず、《主われを愛す》でも《もろびとこぞりて》でも、途中から詩吟か津軽民謡風になってしまい、私たち孫の嘲笑を買った。」(『オルフェオの死』矢代秋雄 p.301)
父方の祖母は三味線をよくしたものの、その息子である父矢代幸雄はヨーロッパに留学、西洋美術史家となり、母はピアノを嫁入り道具に持ってくるような女性で、彼の周囲は西洋音楽一辺倒であったという。したがって祖父から数えて洋楽百年三代目の自分に、日本の伝統音楽たる邦楽対舶来音楽=洋楽という概念は全くなく、「ベートーヴェンも、《帰ってきたヨッパライ》も、雅楽も、《枯葉》も、ウェーベルンも、清元も、ショパンも、わらべ唄も、シャンカールも、山田耕作も、そして矢代秋雄も、みなみな昭和元禄の巨大な坩堝の中でそれぞれの場所を得ているのではないか。そこには邦楽も洋楽もない。あるものは“われわれの音楽”である。」と言い放つ豪胆な音楽家であった。そのリズム論は、幼少から乗馬の楽しみを知る彼ならではの、まさに西洋騎馬体感から来るものであるのは、洋楽一辺倒環境から生まれた必然であろう。
彼は乗馬の魅力を「速度感」と「リズム感」から語る。
たとえばギャロップ―駈歩―の速度感はまことに素晴らしく、伸長駈歩―いわゆる速駈け―ともなるとスリリングでさえあるが、ジェット・コースターや、ディズニー・ランドのティー・カップのような反生理的な抵抗感や恐怖感が全くない。いわば自然な“快速”である。それは人工的に機械で作られた速度とちがって、生き物の作る速さだから速度に比例して適度の緊張を伴うからである。(同上p.339)
ギャロップだけでなく、速足の軽やかな速度感はまた格別であり、並足でも人間の並足の約2倍の距離を進むのだからゆったりした歩巾でありながら一種の躍動感がある。大別して駈足、速足、並足の三種の歩き様には、それぞれ特有のリズムがある。これを乗り手が受けとめ、その流れに身を委ねたり、あるいは制御したり、変化させたりするところに、乗馬の妙味があり、単にスピードとスリルだけを楽しむスポーツカーや、モーター・スクーターなどとは趣を異にする。
そのリズムも、馬という温い血の通った動物が体で刻むリズムだから、“生きたリズム”であり、音楽や舞踏の持つ、それと同質のものと考えてよいだろう。リズム・パターンを一定時間以上続けておくことによって、人間の精神が快く昂揚したり、鎮静したりすることはよく知られている。洋の東西を問わず、踊りの音楽の大部分がこれに該当するし、子守唄、さらに念仏やお題目などもこれに類する。
締めくくりはこうだ。
一体、人間そのものは決してリズミカルな存在ではない。第一、人間ほど歩き方にリズムのない動物もあるまい。とすると音楽の基礎になっている等分割のリズムは、ひょっとすると馬から教えられたのではないだろうか。してみると、最初に馬に乗った人に感謝しなくてはならないのは、われわれ音楽家なのかも知れない。(同上p.340~41)
乗馬の快感は小倉説そのままだが、東西問わずとして、ここでも子守唄・踊り・念仏が出てくるのはなかなか興味深い。
あるいは評論家富樫康との対談で『交響曲』(1958)第2楽章での使用リズムを日本の祭囃子由来では、と聞かれ否定するのだが、そのくだりも面白い。
曰く、獅子文六の小説『自由学校』に神楽囃子の稽古場面で「テンヤテンヤ、テンテンテンヤと太鼓の音が響いてきた」とかいう文章があり、その「テンヤテンヤ、テンテンテンヤ」のリズムが頭に残っていて、それを使った。擬音をあしらった文章には時々面白いリズムがある、と語るのだ。冨樫は、でもあなたは日本で育ったんで、日本の祭囃子を先天的に、と突っ込むが、矢代は、いや、神楽囃子でなく「日本語からくるリズムでしょうな」と受け流すのであった。
で、「あのリズムはけっこうとりにくいわけよ。それで日フィルで初演した時、テンヤテンヤ、テンテンテンヤ、と教えてやったわけです(中略)〜そんなふうに言葉をつけてリズムを覚えると、うまくいく。ところが、この間それパリでやったら、大騒ぎしちゃったのよ。テンヤテンヤ、テンテンテンヤっていってもどうしょうもない。だから一二三、一二三、一二、一二三、一二三って数えるから、リズム感が全然変わっちゃうんだな。」
そりゃそうだろう。いずれにせよ、乗馬のリズムと日本語のリズムの本質を、矢代は理屈でなく感知していたことが知れよう。彼は洋の東西などにこだわらぬ、全き自由人であったのだ。
【三善晃と大相撲】
にしても三善に乗馬趣味はない。『トルスⅡ』での木魚のアレグロに感じたあれ、あの軽やかさはどこから、と思い巡らせ、筆者はハタと膝を打った。もしやあの一種乾いた軽快、強靭肉感躍動は、終生熱狂的ファンであった大相撲からのものではないか、と。
筆者は先年の西村朗論で、その音楽の原風景に幼い頃から追いかけた大阪天満宮「だんじり」が決定的(ケチャに象徴される)だったと気づき、「先天的に」などでなく、具体的に、周囲の音にこそその源泉があると知った。
三善との対話本で、母の故郷木曽節をその音楽の原風景とは述べているものの、そこまでの話。
それとはまた異なる原風景を、大相撲に見ることも可能ではないか。幼い頃からラジオ実況にかじりつき、祖父や父に連れられ通った国技館。西洋音楽一辺倒、祖父の津軽民謡風讃美歌を嘲笑、乗馬育ちの矢代のリズム・身体感覚と三善のそれが大きく異なるのは当然で、「奇数月の十五日間は午後四時から六時まで三善センセに電話しちゃ駄目」との業界常識があったと本人の言う、それほどの熱狂ぶりは、それが彼の「生の躍動」そのものであったことを明かしてはいないか。以下、その相撲談義から。
テレビ放送が始まったのが昭和二十八年、大相撲が年六場所になったのが昭和三十二年。だからそれぞれの前には、年に最低でも二場所、それをラジオで、と言う大相撲との交際を、小学生の時からやっていた。ラジオを聞かない日は、国技館に足を運んでもいた。(『ぴあのふぉるて』p.115)
代議士だった祖父の時代から縁のあった大相撲。道楽での郷土力士の後援に、桟敷の通路には贔屓の力士が挨拶に来た。戦時、満州にわたり、帰国後故郷の丸亀市長(ゆえ、三善には丸亀讃歌・四国民謡にちなむ『塩飽音頭』がある)となった祖父に似て「少しばかりキテレツな血」を引く少年の「国技館に入った途端に騒ぎ出す血」も「呼び出しの杔(たく)の音、江戸っ子たちのざわめき、紫煙にかすむ丸天井の優勝額、焼き鳥と鬢付け油の混ざった匂い……。」(同上p.117)
ラジオ相撲にかじりついた国民学校生徒は、「チビだったが喧嘩と相撲が強く、勉強のほかにピアノとヴァイオリンと作曲も楽しんでいた。(中略)――「時間制限いっぱい」ガガガーッ(ラジオぶん殴る)「立った、神風左上手を取った、一閃!……!」そしてあとは場所内の大歓声を延々と聞かせる(多分、和田信賢さんの)名実況……。(神風の左上手投げは、それこそ神業だった)。
それらをシッカと耳に留め、私は妹とともに集団疎開学童として信州へ行った。」(同上p.119)
と、こう追えば、まずは相撲興行を盛り上げる太鼓、柝の音の響きが聞こえてこよう。
◆太鼓・柝の音
すなわち櫓(やぐら)太鼓 (興行場に建てた櫓の上で開場や閉場を知らせる)、触れ太鼓 (本場所初日や巡業前に相撲部屋、商店街を練り歩き相撲の開催を知らせる)、寄せ太鼓 (早朝ほか、関取などの場所入りを知らせる)、跳ね太鼓 (弓取り式終了後、当日の取り組みの全終了を知らせる)、打出し太鼓 (一日の興行の終了を知らせる)。
国技館でのそれなら、なんといっても跳ね太鼓。その躍動の小気味良い快活とピンと張り詰め乾いた独特の響き。波打つリズムの変幻自在、アッチェルランドの様。これこそ三善アレグロ、『トルスⅡ』の疾走する木魚の原点ではないか。矢代のいうテンテンテンヤのように擬音化してみれば、そのまま三善アレグロになるのでは。跳ね太鼓:https://youtu.be/VzwgFtAiHPA?si=GvkJe-kWHcg3QnbZ
あるいは土俵上、袖脇、花道などで打たれるキンキン、カーンなど様々な拍子木(杔・柝の音)の響きや間合いもまた、『決闘 ソプラノと管弦楽のための』でここぞのタイミング、アクセントでの打音となって姿を見せていよう。三善の打楽器への鋭い感性は最初期作品から一貫して見られるが、その典型がここにある。
いわゆる和太鼓など邦楽系の打楽器(打ち物)使用は、『変化嘆詠』(1975)、『あさくら賛歌』(1992)、『中新田縄文太鼓』(1993)、『出陣の譜』(1997)、『松本古城太鼓のための四季』(1998)で、このうち和太鼓のみは『出陣の譜』、『松本古城太鼓のための四季』の2作、ほかは合唱を伴う。打ち物を使わずとも、初期作からのティンパニなど多彩なリズムと響きの打楽器群と声との扱いを見れば、三善の耳底には一貫してこれら太鼓や柝の音、はたまた柏手などが混然と鳴り響いていたと思われるのだ。『中新田縄文太鼓』、『出陣の譜』、『松本古城太鼓のための四季』にある強靭かつダイナミックな響きの世界が、馴染み深い大相撲の響きの世界と重なる。『中新田縄文太鼓』での和太鼓奏者によれば、打奏には力士の四股のような感覚があった、とのこと。これらが神楽系であることは言を俟たない。日本の伝統文化芸能が、実はこのように三善の日常と分かち難く結びついていたことを思えば、パリでの違和感の大きさ深さが知れよう。同時期にパリに居た矢代との相違に、筆者は改めて作曲家というものの存在のそれぞれの「ありか」を思うのだ。
次に声。
◆声
声といえば、呼び出しの声。「ひ~が~し~、わ~か~の~は~な~、わ~か~の~は~な~、に~し~、む~そう~や~ま~、む~そう~や~ま~」と、独特な節回しで力士を呼び上げる。十両までは「一声」、十両最後の取り組み以上は「二声」(上記のように繰り返す)。
ちなみに角界一の伝説的ハイトーン利樹之丞の呼び出しの迫力満点美声はこちら。https://youtu.be/afck8ZVySvA?si=TFg-i9pPopyGjIjz
この呼び出しの声と朗詠調は、和歌の朗詠に通じるものがあろう(その長音律は百人一首と同系とか)。すでに韻律で触れたが、三善が多用する「語り」「朗詠」がいかに日本語の自然に沿ったものかが知れる。
あるいは行司の掛け声。立ち合いから、「はっきよい(はっけよい)」(発気揚々/気を盛んに出す)「のこった」などの掛け声。発する気合い、ぶつかる力士同士の魂と肉体の球汗。
大相撲・昔の行司詰め合わせ Vol.5 https://youtu.be/_JsQ-scZY2I?si=NEM5P0BNiIfaq9Px
さらに相撲甚句(幕末期に花柳界で流行した甚句を力士が巡業で流行らせた七五調の歌)。説明入りの動画を参照いただきたい。
相撲甚句~抜群の歌声~
https://www.google.com/search?client=safari&rls=en&q=相撲甚句&ie=UTF-8&oe=UTF-8#fpstate=ive&vld=cid:d6b0ba9e,vid:bNfGy1LcPwk,st:0
かつては土俵上で相撲の四十八手を見せながら歌っていたが、現在はイベント時に歌われているそうだ。大別すると「まくら唄」「本唄」「はやし」があり、まくら唄には「前唄」と「後唄」がある。「ホイ」や「ドスコイ」という合いの手に合わせ独特の調子で歌う。内容は落語小噺的なものや、なんらかのイベント(力士引退など)にちなんだもの。ちなみに今日びの作曲家野村誠に『どすこい!シュトックハウゼン』(2021)という傑作があるが、こうして相撲の背景を知るなら、決して奇を衒ったものではないことが分かる。
と、こう見れば、しつこいが国技館に渦巻く音や声のさまざまが、三善の「語り」や「朗詠」、はたまたアレグロに聴こえてくるではないか。和歌にも繋がり、神代にまで遡る国技大相撲の文化の地層時層への嗅覚は、西村のだんじり同様、作曲家の生理そのものに根差した、まさに本能的なものと思えるのだ。
ラジオ相撲といえば、三善が名を挙げている和田信賢は、相撲実況で名を売り、双葉山と安藝ノ海の歴史的大一番の実況放送(昭和14年1月15日NHKラジオ)が伝説となった国民的人気のアナウンサー。取組前は「不世出の名力士双葉、今日(15日)まで69連勝。果たして70連勝なるか? 70は古希、古来稀なり!」とアナウンスするものの、双葉山が敗れた瞬間、半信半疑、控えにいた先輩に「双葉山は確かに負けましたね!?」と確認を取り「双葉敗る! 双葉敗る! 双葉敗る!! 時、昭和14年1月15日! 旭日昇天、まさに69連勝。70勝を目指して躍進する双葉山、出羽一門の新鋭・安藝ノ海に屈す! 双葉70勝ならず!!」と叫んだ(NHKアーカイブス「大相撲 双葉山 対 安藝ノ海」https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009060044_00000 )。号外まで出たこの大事件、三善少年は満6歳と5日だったそうで、大人たちからなんとなく空気感染して聞こえてきたような記憶がある、と記している。その初場所で彼は横綱武蔵山の土俵入りを見ていた、とも。
和田は自分の仕事を「瞬間芸術」とよんだ。終戦の玉音放送の解説者(奉読ほか)でもあり、27年ヘルシンキ・オリンピックの放送を終え帰国の途上パリで客死している。にしても、少年の耳にこだまする和田実況節は、のち、三善の言葉の扱いや間合いに少なからず影響を与えたに違いない。「瞬間芸術」の言葉通り、実況放送には日本語のライブ感覚、語り芸の究極がある。ここでは同時期に活躍の松内則三アナウンサーによる朝潮対武蔵山のラジオ中継文をいささか長いがご紹介する。この人は語りに川柳を挟んで人気を博したが、そのライブ感を伝える好例と思う。場面がありありと浮かぶようではないか。
(アナウンサー百年百話「ラジオが届けた大相撲 〜実況アナ100年前の試行錯誤〜」https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0011104)
両力士、ずっしずっしと土俵にのぼりました。
盛り上がった力こぶ。
両力士、ただいま四股を踏んでおります。
ただいま、東の桟敷ででっぷり太った大丸豆のご婦人が立ち上がってしきりに武蔵山の応援であります。
そばにご亭主。小さくなってしきりにあごをなで回しております。
「叫んでる 大一番の 亭主照れ」「叫んでる 大一番の 亭主照れ」(註:この部分が川柳)
仕切り直しすでに数回。両力士の仕切り、今やますます熱を加えてまいりました。
(朝潮:そいや!)
ただいま朝潮の声。武蔵山わずかに一瞬、気合わずして仕切り直し。
仕切り直しとなりました。
「国技館 わめきの底に 二人立ち」(川柳)
一時静まった場内。またもわき立って参りました。
両力士、もろ手を下ろしました。
腰をグッと落としました。
場内、固唾を飲む、両者あうんの呼吸。
(行司:はっけよい!)
立ち上がりました。
猛烈に突き合い、突き合っております。
武蔵山、朝潮の懐に飛び込みました。
武蔵、得意の右が入りました。右差し。一気に寄り出す。朝潮、土俵を伝っております。武蔵、なおも寄っております。
朝潮、右から強引の小手投げ、強引の小手投げ。
武蔵山、それをこらえながら、下手投げの打ち返し、下手投げの打ち返し。
両力士、同体、流れました。同体、流れました。
喧喧囂囂(けんけんごうごう)。場内、何が何やらわかりません。
ただいま物言い。
四本柱、総立ちとなりました。総立ちとなって、しきりに協議中であります。
場内、総立ち。ただ、わめきの声があります。
ちなみに、前述双葉山敗戦の実況放送の和田アナの名調子は、字面で見るとえらく興奮している様子に思えるが(絶叫、との記事もある)、実際は緊迫感を漂わせつつも冷静な音調。その名調子については、三善が月刊誌『大相撲』(読売新聞社)で1990年2月号から1年にわたって連載した《大相撲感染半世紀》で、前述神風の「一閃!」(1990/4)を、こう述べている。
この「一閃!」が、すごい。神風が右手取れば、次はいつ伝家の宝刀上手投げが出るか、しかない。その間も置かばこそ、この一言がきた。あとは無言で場内の歓声を聞かせることで、いかに神風の上手投げが鮮やかだったかを思い描かせてくれた。(和田信賢さんだったのかナァ、このアナウンサーは。ともあれ、この描写、この無言の技。いまどきのアナウンサーたちは心せよ。)
筆者の言う「語りの至芸」とはこのことで、三善少年はすでにこの至芸、すなわち日本語の韻律とムーブマン(調べと間合い)をシッカと受け取り、自身の作曲の真髄をそこに学んだ、とさえ言えるのではないか。
日本語というもの、語り、朗詠のモデルとしてのラジオ放送。さらに、土俵の取り組みの一番一番がそれぞれ一つのドラマであり、一期一会のドラマトゥルギーがそこに仕込まれていることを思えば、三善の作劇(作曲)そのものの原型がここに示されていよう。
土俵という時空間での力士と行司が生み出す肉体のドラマ。発声、間合い、その「瞬間の芸術」を生き生きと描写する語り芸。以下そのリアルを伝える動画2点を添えておく。
Futabayama vs. Akinoumi : Natsu 1942 (双葉山 対 安藝ノ海)
Futabayama vs. Terukuni : Natsu 1943 (双葉山 対 照國)
その「声」の、わけても「語り」を見たい。
最初期作品から見られる「語り」の独自性についてはすでに何度も触れた。韻律、調べとともに使用されるこの手法が、遠くはオペラ『遠い帆』(1999)の「影」に象徴されることも既述の通り。最初期歌曲での言葉の扱い、置き方に「語り」の原型があるとして、ここで触れておきたいのは『狐のうた』(1976/童声合唱、語りとピアノのための 会田綱雄詩)だ。童声合唱はすでにビアフラの悲劇をテーマとした『オデコのこいつ』(1971/童声合唱とピアノのための)があり、こちらも合唱界に衝撃を与えた凄まじい作品で、むろん『レクイエム』(1972)からの反戦三部作につながる位置にある。『オデコのこいつ』初演の荒川少年少女合唱隊のため5年後に作曲されたが、これまた別の異形世界。ここで真っ向からの「語り」を登場させているのは三善の本能的必然で、しかも初演では語りを担当している。ここでの三善の語りを聴けば、それがいかに彼の「本然」から迸る「声」であったかが知れよう。そうして三善はそれを終生、手放すことはなかった。
◆三善晃 語りの至芸―『狐のうた』
『狐のうた』は《醜聞》《訓戒》の2曲からなる。以下は三善による解説。(『遠方より無へ』p.152)
『オデコのこいつ』で、「ボク」は、「なぜ?」と問いかける。そう問い、殺したのはボクと自答する「ボク」は、私たち人間の「現実」でなければならない。「現実」とは、“在る”ものではなくて、“在ることが希求される”もののことである。
さて、「狐」は四十男のなかに入り込んだ。四十男の実存的な希求は「神」に向けられる。しかし、それならば「神」は「現実」の定義のもとにおかれ、不在者でなければならない。ここで、愛と絶望を唯一の形質として差し出してくれるのが「狐」だ(神を食べることによって)。
サルトルが、想像力という道具を使って解いた認識論、カミュが結局は古典的な即自性理論で決着をつけざるを得なかった実存論を、会田さんは一匹の「狐」を生むことで、見事にリアライズした。
人は、文明の衣装をまとっては人を殺し(『オデコのこいつ』)、愛しながら生きるためには、まず絶望することから出発しなければならない(『狐のうた』)。
しかし、これら二曲を歌ってくれる子供達、しかもなお、愛し、生きよ!!
『王孫不帰』(1970/男声合唱、ピアノと2人の打楽器奏者のための)、『オデコのこいつ』(1971)から発し、反戦三部作、交響四部作を経て最後の『その日―August 6』(2007/混声合唱とピアノのための)に至る戦争の痛苦の道にあって、その道端にそっと置かれたまさにこの『狐のうた』の遙か遠方に、筆者は未完のオペラ『カチカチ山』(2004年着想)を見てしまうのだ。自然破壊する人間への抗議として自爆テロに走るタヌ公まで、三善の眼は一貫している。そのことに、慄然とする。
『醜聞』の歌詞は以下だが、間に挟まれた語り(バス)もスコアでの指示とともに挿入しておく(太字)。小節数はなく、全体は17節から構成されているので、その節数も入れる。なお、冒頭から擬音が入るが、むろん詩にはない。
(1)~(3) ケー ケー カック リッキ ルルル リップル キエ リラケカラリ〜〜以下略
(と狐の鳴き声、擬音が続く)
(4)ヤッケプルリラ ことしはきつねの年だというので
ぼくのきつねは
おおいばりだ
(5) f 「どこにでも、もぐりこむ」 (大い) ばりだ のテンポに合わせ)
(6)このあいだも
うっかりポケットに手を突っ込んで
いやというほど指を噛まれた
(7)夢でも破られて
腹を立てたのかもしれないが
あいてはきつねだ
(8)理由はわからない
「わからない」(絶望的に)
f 「シャツ」
の
(9)ボタン穴にかくれていて
びくつくぼくの鼓動を
神妙に聞いていることもある
いったいなんの真似なんだ
(10)ろう
(11)そうかと思うと
ぼくの鼻毛にぶらさがって
へんな歌をうたいだす
ぼくには見えない
「が、たぶん…」
(12)ひとなみにウインクでもしながら
f 「えーっへん」
(13)アイダツナオハ ニンニククサイ
ニンゲンブッテ オカシナヤツサ
マジメクサッテ ケロケロハイテ
エヘンドウダイ ダマシテヤロカ
(15)「むろん」(沈痛に)
f 「むろん」(激して)
ぼくは取りあわない
なにをされてもどこ吹く
(16)風
知らん顔しているが
四十にもなって
sfz 「よんじゅう!」(童声2声)
f 「よんじゅう!」
けしつぶみたいに小さくなる
魔物につかれてバカにされる
不徳
f 「…の いたり」
(17)悲しいかぎりでございます
f 「ございます」
ケコ クワン ケリラガッツ ケケラリタ ケトカリラ キタケケロ
プラリリカ 上記の音型で同一音または隣(上下)の音を自由に
fffケ〜〜〜ン
筆者は冒頭部擬音世界に西村のケチャを、最後のケーンにオペラ『紫苑物語』の千草(狐)のアリアでの「けーーん」を思い出してしまったし、この異界は明らかに同一だと思う。東西問わず、古代、動物と人間のハイブリッド世界、そこに日本で言えば八百万神がいるのであって、三善の中にもそれは棲んでいる。
ここにサルトルの認識論だのカミュの実存論だのを引っ張ってくるのはいかにも三善だが、童声とピアノが描く世界はつまりは稲荷信仰。ゆえ「神」の在不在の問いが出てきても、その神を狐はガリガリ食べるのだ。スコア(1997)の前書きには、「詩は、会田綱雄さん自身を四十男として、そのなかに棲み憑く狐に揶揄されながら、ジレンマとしての神の存在を歌う」とあるが、ここで肝要なのは狐と神、四十男の絡み具合で、《訓戒》は《醜聞》をこう受ける。一部のみ引用。構成は11節だが、最後の(10)(11)は驚くべき構造となっており、そこだけは拾おう。
《訓戒》
きつねがたべたのは
うさぎ
にわとり
ねずみ
それから
あなたが愛していらっしゃる神
f 「あなたが愛していらっしゃる」(早口で)
「神!」(低音の叫び)
――中略――
あの強い歯で
かりかり頭から
かじってしまったことは確実
――中略――
ですから
神がいるとすれば
ぼくは断言します
「断言!」
fff「神!」
それは
きつねに流れている血
火をつければ
青い炎を立てる
血
(10)
たべた ですから かりかり それは きつねが (*同時発声。sopから順に拾った)
(11)
(*きつねがたべたのは) ケーン かりかり ですから神が ケーン いるとすれば
ff 「それ は」
きつねに流れている (*きつねの)血 (*この2フレーズは原詩にない)
化かされてはいけません
原詩は「血」のあと「化かされてはいけません」で終わるが、三善は「ですから神がいるとすれば」というフレーズを再度ひき、そこに「きつねが食べたのは きつねに流れている“きつね”の血」と付け足し、語りでの fff「神!」を最大に響かせ、ff 「それ は」と強調、合唱が「きつねに流れている (*きつねの)血」と受けて終わるのだ。
このドラマトゥルギーが、ピアノとともにどのように作られているかの具体については省略するが、「語り」の持つ力をこれほどまでに凝縮した音楽世界を筆者は他に知らない。ざっと音景を描いておく。
冒頭、夜の森に密かに響くケンケンといった擬音の帯が鬼火のように広がってゆき、頂点でいきなりピアノのfff打音の刻みに「今年は〜」の声の刻みがのる。「大威張りだ」に三善の声「どーこにでも潜り込む」が何やら滑稽味を漂わせ飛び込む。この言い回しは紙芝居のおじさんのようで(筆者はオペラ『カチカチ山』を紙芝居で、とおっしゃったのをつい思い出してしまう)、そそられる。ぐっとテンポを落として神秘的に柔らかな音調へ。「わからない」と歌うと、「わ か らない」がすぐさま受けるが、絶望的に、というより首を振って、や、まいったなあ的語調でさほどの深刻さはなく筆者には聴こえる。が、「シャーツ」は捩れるみたいな叫び声。「のボタン」と合唱との文脈を拾うのはスコアでもない限り無理では。再び平明な歌声。と、「そうかと思うと」が擬音とセリフ一緒くたに刻まれ、ピアノとともにザクザク行進開始。「が、たぶん」は、ここも「が」(んが、に近い。これは日本の語り物の発音、山田耕筰時代の歌手たちは皆こう発音した)を強調、芝居がかった台詞回しで、ちょっと上げ気味に、でもさぁ的ニュアンス。盛り上がったところで、「えっへん」がどれほど勿体ぶって、威張りくさって発されることか。ピンとはったヒゲを指でしごくさまが見えるようだ(何がし、宮沢賢治世界を思わせる)。ここからブルースで揺れる。「騙してやろか」といささか小バカにした口調ののったりブルースの語尾の消えるところ、打ち沈んだ「むろん」が小さく呟かれるものの、そうはいくか!とキッと面をあげ、「むぅろん」と身を震わせて声を上げる。一斉のプレストで軽快に攻め「よんじゅう」は全員で叫ぶが、こちらもふざけた感じ。とくれば、「不徳」「のいたり」がおちゃらけふうに来るのは予想できよう。目まぐるしいピアノのアルペッジョ上下行に乗り、「悲しい限りで」の合唱に、「ございます」が、はい、おしまい、チョーン、みたいな口上で語られる。
とまあ、日頃、精神の骸骨のごときカリスマ三善の姿しか知らない方々には(筆者もそれに近い、前回までの朔太郎噺とは打って変わって、だ)およそ想像を超えた役者ぶり(まさに狐に憑かれた)、これだけの芝居が打てる語り手は居まいと口をあんぐり、であったのだ。
拍子も言葉に沿って目まぐるしく変化、2.5/4、1.5/4、4.5/4拍子だのが普通に出てくる。これを乗りこなす子供達、間髪入れずのミヨシセンセ、すごすぎ。再演はされているものの、次元がまるで違う。《訓戒》には触れないが、声楽器楽超えて読者の方々には必須の音源と思う。
同時にこれらの書法が、他でもない『レクイエム』と響き合うことに震撼するのだ。なお、三善の肉声での語りは『地球へのバラード』(1983/混声合唱のための 谷川俊太郎詩)の《鳥》でも聴けるが、その表情は本作とは全く異なる。
「狐のうた」から、神の在不在の問い、自分が自分を食べる行為(自傷でもカニバリズムでもなく)を抉り出す三善の作劇の異形は、擬音の多用(かりかりは《訓戒》の通奏低音)、童声、語り、ピアノによってのみ可能であった。そのある種の残酷と諧謔。恐ろしさと優しさ。そうして、反戦三部作『響紋』(1984)での童声合唱「かごめ かごめ」やオペラ『遠い帆』での「一つとや」の数え歌、さらに交響四部作『焉歌・波摘み』(1998)での「子守唄」への水脈を、筆者はここに聴く。
ちなみに、三善はスコア前書き《ジレンマとしての神の存在》で、会田の詩の諧謔味に触れつつ、「その諧謔のリズムを曲の基調としつつ、青い血を持つ狐の神秘と、逆に生々しいその台詞や所作を表現しようとした。そこから、細分化された童声合唱のクラスター、迷路のような旋律動向が導かれた。2曲とも、なかにブルースを持つが、それは狐と四十男の奇妙な友情の表現でもある。」と述べている。
ふと、青い血に、西村朗『大悲心陀羅尼』(女声合唱)の青頸観音(ニーラカンタ)、すなわち世界苦を飲みほして首が青くなった観音を想起、狐信仰に宿る世界の遙かさ、深さをも思ったことだ。私たちは、それとない「歌」に、あまりに無感覚になってしまったが、このように誰かが、その声、その響きをちゃんと汲んできてくれているのだ、とも。
* * *
大相撲に戻る。
終戦後の1947年、中学3年の三善は一人で切符を買い明治神宮外苑での夏場所にゆく。控えの部屋がなく、露天で寝る力士たちがゴザを被って眠っており、それが地面に盛り上がって山のようだった、そのゴザの山からイビキと寝言とオナラが聞こえ「いとしかった」。(『ぴあのふぉるて』p.120)
月刊誌『大相撲』第6回には、敗戦2年前の多摩川河原で一緒に泳いでいた級友と機銃掃射に遭い、仲間の一人が撃たれて死んだという、よく知られたエピソード、その同じ河原で、アロハ姿の兄さん姉さんの集団見合い大会が開かれたことが記されている。一方、三善家は大相撲の桟敷の権利を能楽の梅若家(母が習った)と分け持ち、大学生になった彼も何人かの大音楽家をこの桟敷に招いたそうで、野村光一、池内友次郎、安川加寿子の名を挙げている。池内とは留学前後何度か同席、若乃花贔屓の池内と栃錦贔屓の三善は両者がっぷり四つで栃若時代を楽しんだようだ。
留学してからは母が手紙と共に星取表を送ってくれた。幕下で冨樫という若いのが注目だ、とか納谷というすごいのがいる、といった母の情報に興奮し「チクショウ、やったぜ…次の星取表が来るまで、同じ白黒のダンゴを丸暗記するほど凝視めて暮らした。」(1990.8)音符がダンゴに見えても不思議はない。
激動の時代、少年期から青年期を音楽と大相撲に過ごした若者は、やがて自分の息子も相撲部屋に連れてゆく。連載最終回には「放駒部屋のお祝いでチャンコというのを食べました。お豆腐がテレビより大きかったです。」との作文を紹介している。最後は「さよう。これからだ、私の感染史が七人目の“大横綱”を書き加えるのは。切り絵の中村みいさん、十二回毎号、素晴らしい絵を有り難う。拙文、どれほど引き立てていただけたことか、ごっつぁん、心から。」(最終回のタイトルは「雲より出よ 未開の巨峰・大乃国」 1991.1)
ちなみに全回の総タイトルは、『木戸御免 ならぬ桟敷の 軍配(うちわ)そと』との自筆。
三善晃と大相撲。
萩原朔太郎の蒼白い口語自由詩の一方で、三善の体内にはこうした熱い躍動世界が息づいていたのだ。「私は明るい少年だった」と相撲談義の中で回顧する三善は、朔太郎の腺病質とは程遠い、喧嘩に強い、明朗な少年だった。
それも、彼の本然であったと、声を大に言いたい。
相撲の取り組み一番一番にあるドラマトゥルギーは『狐のうた』にも顕著だが、三善がそこで見せる演劇性(芝居っ気)は、実は中学から演劇部、長じて東大演劇部に所属、当時の華麗な演劇陣の中に身を置いた、こちらも根っからのものであることも指摘しておく。
遠山一行が「劇的な精神」と呼んだそれを、筆者は今になって、そういうことだったのか、と深く臓腑に落とす。遠山は三善の創作に触れた《三善晃 劇的な精神》という文章で、こう記している。
現代の作曲家の創作がすでに形づくられた美学の応用問題として行われる傾向があるのに対して、三善にとって、創作とは一つの劇にあえて身を任せることなのである。――中略――協奏曲という形式における様々な対立の原理は、作曲家の創作における「劇」の所在を、漸く外側に明確にするものであったともいえるかもしれない。(『遠山一行著作集1』p.235~236)
あたえられた他人の声は三善の創作のなかでは、決して他者としての『もの―オブジェ―』に終ることはない。それは、いつしか彼自身の一部になり、それによって、彼の内部にもはげしい変質がおこる。それはほとんど幻覚に似た体験であろうが、彼はその幻覚に積極的に身をまかせるのである」(同上p.237 ビクター・レコード『三善晃の音楽 1962~70』 1970年11月)
そこには三善が自分の器楽曲を「うた」である、というその意味への言及とともに、声、言葉、音についての深い洞察も示されている。改めて遠山の慧眼に面を伏せつつ、筆者なりに三善の作劇・ドラマトゥルギーに、次回向き合うこととする。
(2025/6/15)
参考資料)
◆書籍
『日本の耳』小倉朗著 岩波新書 1977
『オルフェオの死』矢代秋雄著 深夜叢書社 1977
『ぴあのふぉるて』 三善晃著 毎日新聞社 1993
『大相撲』読売新聞社 1990(2月)~1991(1月)
『遠方より無へ』三善晃著 白水社 1979
『遠山一行著作集』新潮社 1986
◆楽譜
『狐のうた』 カワイ出版 1997
◆ CD
『オデコのこいつ』 ビクターエンタテインメント 1999
児童合唱組曲名曲選 オデコのこいつ 三善 晃 作品集 [1] 「狐のうた」VICS-61011
『地球の詩 三善晃+栗山文昭』 ビクターエンタテインメント1995 VICC-126
◆ Youtube
安積女子高校 『狐のうた』より「醜聞」 指揮:渡部康夫 伴奏:渡部啓子 語り(バス):江幡忠雄 第34回全日本合唱コンクール東北大会 https://www.youtube.com/watch?v=yV_b_QX6DxI
『狐のうた』より「訓戒」 大山 晃 指揮と語り ピアノ:中川美加
高松第一高等学校合唱部女声アンサンブル
第72回全日本合唱コンクール四国支部大会(2019)にて収録
https://www.youtube.com/watch?v=vnq4-WErupY&t=10s