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プロムナード|ショスタコーヴィチ雑感|佐野旭司

ショスタコーヴィチ雑感

Text by 佐野旭司(Akitsugu Sano)

これまでに演奏会の批評や書評、コラムなど、本誌でも色々な文章を執筆してきたが、この「プロムナード」は特にお題のようなものが与えられずに、個々の執筆者が完全に自由なテーマで書くコーナーである。しかしまったくテーマが与えられていないということは、自由に書くことができる反面、ネタに困ることもある。前回書いた時は、自分自身が行っている研究の内容について紹介させていただいたが、では今回はどんな内容で書けばいいものか…
本誌でもたびたび触れているが私は世紀転換期、すなわち19世紀末から20世紀初めのウィーンの音楽について研究している。中でもマーラーやシェーンベルクが中心で、しかも昨年はシェーンベルクの生誕150年ということもあり、自分が所属している日本アルバン・ベルク協会で講演をする機会をいただいた。去年の例会では、シェーンベルクの記念イヤーに先立って一昨年に音楽之友社から翻訳して出版した『シェーンベルク書簡集』に絡めた内容で研究発表を行い、その際には、芸大の後輩でマーラーやR.シュトラウス、シェーンベルクらの歌曲を得意とするソプラノ歌手の宮原唯奈さんにも実演をしていただいた。彼女のお陰もあって、とても充実した会となったのは忘れられない。
そんなシェーンベルクイヤーも終わり、今年はというと、もちろん毎年誰かしら有名な作曲家の生誕あるいは没後何年という年に当たるのだが、その中でも特に個人的に気になっているのがショスタコーヴィチである。今年は没後50年、来年は生誕120年と2年続いて記念イヤーとなる。
私は音楽学の道に進む前からショスタコーヴィチの音楽に慣れ親しんできた。音楽学を学ぼうと思ったのも、もともとはその研究がしたかったからなのだが、結局マーラーの研究を始めることとなり、現在に至るまで同時代やさらに後のウィーンの音楽を研究している。
ではなぜマーラーの研究を始めたのか。明確な理由は説明しにくいが、今にして思えば、当時大学生だった私にとって、無意識のうちにショスタコーヴィチの音楽との親和性のようなものを感じていたからかもしれない。
もちろん、かつて日本でもマーラーブームが起こった際にショスタコーヴィチは「ポスト・マーラー」と言われたほどであり、両者の類似性については今までも散々指摘されているだろう。それは、おそらく主に複雑で難解な響き、ダイナミックなオーケストレーションなどといった点かもしれない。でもこの2人の作曲家の共通性や類似性はさらに別のところにもあるのではないだろうか。
私はロシア音楽については論文を全く書いたことがなく、決して専門家とは言えないが、大学で音楽史の講義を行っており、その一環としてショスタコーヴィチの音楽も取り上げている。そしてその際に、今まで気がつかなかったことが色々と見えてきたのである。ただそれは、クラシック音楽の初心者も受講している授業で話すには専門的(というかマニアック)になるため、今まで紹介する機会がなかった。今回はこの場を借りて、そうした内容を紹介してみたい。
ショスタコーヴィチの作品の多くは、複雑で難解な独自の「世界」を表現しているように思われる。そしてその極端な例が交響曲第8番ではないだろうか。この交響曲では、全体を通してグロテスクさや陽気さ、牧歌的な性格、躍動的な側面、うつろな雰囲気が混在している。とりわけ第1楽章はこの上なく絶望的な雰囲気で始まったかと思えば、第2楽章では打って変わって明るく軽快になる(そんな中でもショスタコーヴィチらしい激しさは失われていない)。この突然の雰囲気の変わりように、初めて聴いた時には、本当に同じ曲なのか?と耳を疑ったほどである。さらに理解しがたいのが終楽章である。決して暗い終わり方はしないが、かといって明るく終わるわけでもない。虚無的な雰囲気の中で静かに消え入るように閉じられるのである。
第8番を聴けば同じように感じる人は少なくないかもしれないが、こうした1つの作品の中で異質な性格が混在している特徴は、(直接影響を受けているかは分からないが)マーラーの交響曲にも通じるものがある。例えばマーラーの交響曲第1番第1楽章の序奏では、木管楽器が静かに4度下行する旋律を奏でているかと思えば、突然ファンファーレが鳴りだして、その後もコラール風の旋律や、低音楽器による半音階的に動く旋律などが並列している。
そしてマーラーが同じようなことを1つの楽章内ではなく、曲全体で行っているのが第5番だろう。この曲は葬送行進曲で始まったかと思えば、複雑なポリフォニーを駆使した荒れ狂うようなソナタ楽章がそれに続いて、さらにその後も力強く雄大なスケルツォ、甘美な緩徐楽章(あの超有名な「アダージェット」)、明るく軽快な終楽章と、曲の性格には一貫性がない。それが循環形式的な旋律の構造によって、かろうじて統一性が保たれてはいるのだが。これについては、森泰彦先生がこの交響曲を「巨大な管弦楽組曲」とおっしゃっていたのを思い出す。つまり第1楽章と第2楽章を合わせれば壮大なフランス風序曲とも捉えることができて、さらにその後に様々な性格の曲が続くという意味だが、まさに言い得て妙である。
特に第1楽章と終楽章の雰囲気の差は、ベートーヴェン以降の交響曲に見られるような、いわゆる「闘争から勝利へ」という物語性に当てはめられるが、「勝利」というにはいささか軽すぎる気がしなくもない。
そしてそうした点で、ショスタコーヴィチの交響曲第6番とマーラーの交響曲第5番との間に親和性が見られるのである。
ショスタコーヴィチの第6番は、前述の第8番以上に理解するのが難しいように思われる。全3楽章のうち、第1楽章は第2楽章と第3楽章を合わせたよりも長大で、調性はあるものの、聴いていると表現主義からの影響も垣間見えてくるくらい陰鬱である。一方第3楽章はというと、明るく軽快などころかJ.シュトラウスをはるかにしのぐような滑稽でおどけた雰囲気である。つまりマーラーの第5番と比べて、全体の構造がよりコンパクトになっていて、第1楽章と終楽章の性格の差をより極端にしているのである。ここまでくるともはや「闘争から勝利へ」というレベルをはるかに通り越しているだろう。

ショスタコーヴィチの音楽について思いついたことをダラダラと書き綴ってしまったが、今年と来年は記念イヤーということもあり、今まで知らなかった作品に出会ったり、すでに知っている曲でも新たな発見があったりする機会が例年以上に多いことが期待される。

(2025/5/15)