小人閑居為不善日記|アメリカを継承できなかった男——ジーン・ハックマン|noirse
アメリカを継承できなかった男——ジーン・ハックマン
The Man Who Couldn’t Take Over America
Text by noirse : Guest
《キャプテン・アメリカ:ブレイブ・ニュー・ワールド》、《ポセイドン・アドベンチャー》、
《エネミー・オブ・アメリカ》、《カンバセーション…盗聴…》、《チェンバー/凍った絆》、
《スケアクロウ》、《ザ・ファーム 法律事務所》の内容について触れています
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ジーン・ハックマンが世を去った。ピアニストの妻ベッツィ・アラカワと共に遺体で発見されるという報道で衝撃が走ったが、ハックマンは95歳でアルツハイマーを患っており、ベッツィが先に病死してから心臓病で亡くなったと目されていて、事件性はないようだ。とはいえ、一時代を代表する名優の死というのを差し引いてもあまりに痛ましい。
80年代後半から映画を見始めた人間にとっては《スーパーマン》(1978)のレックス・ルーサーや《クリムゾン・タイド》(1995)の艦長など悪役の印象が強かった。そうでなくとも政治家や会社の重役など権威的な役柄が多く、188センチの巨躯と精悍な体格、いかめしい顔つきで、そのせいか当初は親近感も湧かなかった。
けれどもハックマンは1960年代後半の、アメリカンニューシネマの代表的な俳優でもある。ニューシネマの定義は難しいがベトナム反戦運動や公民権運動、大学紛争などを背景に、反体制を掲げた物語や、刹那的な人物を取り上げることが目立った。ハックマンも例外ではなく、《俺たちに明日はない》(1967)や《スケアクロウ》(1973)などでニューシネマの代表的なキャラクターを演じた。とりわけ《スケアクロウ》での男くささの裏側に弱さを隠したマックス役は忘れられず、わたしのハックマンの印象は覆ることになった。権威的な役柄の多いハックマンも、もともとは反権力側の役者として登場したわけだ。
けれども、ここで少し立ち止まって考えてみたいことがある。ニューシネマは果たして本当に反逆的だったのだろうか。
ニューシネマ作品に反逆や反権力という主題が埋め込まれていたことは間違いない。けれどもその標的は当時の合衆国の方針、ベトナム戦争やマイノリティの権利を抑圧する態度に対してで、アメリカそのものに関してはむしろ回帰主義的な傾向が強い。
象徴的なのは《イージー・ライダー》(1968)だ。ふたりのバイカーがドラッグでトリップしながらアメリカ西部を走って廻るだけの映画で、どこに行っても彼らは根無し草、はぐれ者に過ぎず、明確な目的も物語もない。けれどもこれは裏返せば故郷を喪失した者たちの放浪ということで、アメリカに対して反抗的にふるまいながらも、かつて西部で神話的な物語を展開したハリウッド産西部劇への憧憬が滲み出している。
このような屈折したノスタルジーはニューシネマの特徴のひとつで、《明日に向って撃て!》(1969)や《真夜中のカーボーイ》(1969)でも確認できるし、《さすらいのカウボーイ》(1971)や《ラスト・ショー》(1971)、《ハリーとトント》(1974)などにおいては、率直に失われたアメリカを希求する。
ここには革新的な気風をもつニューシネマらしい、一周した愛国心が認められる。マイノリティを認めず他国で無辜の人々を殺し続けるアメリカは本来のアメリカではない、本来の姿を取り戻すべきということだ。
その後オールドハリウッドを代表するスターや巨匠は引退、もしくは鬼籍に入っていき、90年代以降からはニューシネマ世代の映画人が頂点に君臨する時代に突入していく。けれどもどうだろうか、現在のアメリカはニューシネマ時代の映画人が目指した理想からは遠くかけ離れている。ネットやSNSに対して映画の影響力が低下しているというのが大きな理由だろうが、そうしたことを予兆的に身を持って演じたのが、ジーン・ハックマンだったのではないか。
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マーベル映画最新作《キャプテン・アメリカ:ブレイブ・ニュー・ワールド》(2025)を見に行ったところ、元軍人で高圧的かつ攻撃的な大統領がヴィランとなって大暴れするが、キャプテン・アメリカに制圧されたあと自らの行いを反省し、嫌われていた娘との関係を修復するという筋立てで、あまりに率直にトランプを揶揄し反省を促すような内容で戸惑ってしまったが、一方でとある作品を思い出していた。
ハックマンは権威的な役柄が多いと述べたが、その頂点は《目撃》(1997)の合衆国大統領役だろう。ところがこの大統領は女癖の悪いサディストで、友人の妻と浮気し、彼女をいたぶった結果殺人に発展、事件を目撃した泥棒ルーサーが追われることになる。コード規制下のハリウッドでは大統領も正義の側に立つ者だったが、《大統領の陰謀》(1976)のようにニューシネマ以降は大統領も不信の対象となり、《目撃》はその極点のひとつと言える。
ただし《目撃》には、監督したクリント・イーストウッドによって多少複雑な背景を与えられている。ハックマンとイーストウッドは先行して《許されざる者》(1992)という西部劇でタッグを組んでいる。ここでハックマンが演じた保安官リトル・ビル・ダゲットは弱者を痛めつけて喜ぶ残忍な男で、この性格はあきらかに《目撃》の大統領役に直結している。
イーストウッドはダゲットと対決する老ガンマンのマニーを演じているが、《許されざる者》が評価されている理由のひとつはマニーとダゲットが善玉と悪玉とに単純に分けられるのではなく、ダゲットの残忍性はマニーにも内在していて、それをどう克服するのかが主題になっているからだ。《目撃》にはそこまで明確な鏡像関係はなく、シンプルなサスペンスに着地した感は否めないが、大統領の暴力行為をのぞき部屋から目撃する老いた主人公という構図には《裏窓》(1954)から連なる欲望の投影の構図が認められるし、それは映画のラスト、ルーサーが病室で傷ついて横たわる娘をスケッチするシーンでも反復されている。
このようにある時期からのイーストウッドは男性の暴力性を表現することにこだわっているが、そのときの暴力の表象として必要とされたのがハックマンだった。ハックマンもニューシネマ時代は反逆のイメージを帯びていたが、《俺たちに明日はない》で演じたのは銀行強盗の片棒をかつぐ男で、凶暴性を感じさせて強烈な印象を残したし、当たり役である《フレンチ・コネクション》(1971)の目的のためには手段を選ばない刑事ポパイはのちの犯罪映画や刑事ドラマに強い影響を与えた。ニューシネマの中でも、ハックマンの男くささは抜きん出ていたと言えよう。
このような「強い男」像は、《ポセイドン・アドベンチャー》(1972)のフランク牧師役でも認められる。牧師の身でありながら「弱者は救われない」と言い放ってはばからないフランクの説教は、まるで右派リバタリアンの言説のようだ。
時代は下り、《エネミー・オブ・アメリカ》(1998)の情報屋ブリルを確認してみよう。ほんのはずみで国家レベルの事件に巻き込まれてしまった主人公は、情報屋ブリルに接触する。ブリルは元NSA(国土安全保障省)の職員だったが、トラブルで合衆国と対立することになり、20年に渡って姿を隠し、息を潜めて生きていた。だがブリルは巻き込まれた事件にうまく便乗し、自分を裏切った政府への逆襲に成功する。盗聴を武器とする情報強者ブリルも、他人の権利を犠牲にしても自分を優先するという一種のリバタリアンとも考えられる。このようにハックマンはニューシネマを代表する俳優ではあるが、その見た目やタフな演技の結果、「強いアメリカ」を体現する俳優へと変貌していった。
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けれどもハックマンは、ただ強い男を演じるだけの俳優ではなかった。ハックマンは《エネミー・オブ・アメリカ》のしばらく前に同じく盗聴をモチーフにした作品、《カンバセーション…盗聴…》(1974)に出演している。主人公のコールは盗聴のプロで、依頼を受けると見事な腕前でどんな会話も傍受してしまう。だが偶然殺人計画を盗み聞きしてしまったせいで逆に盗聴される立場になる。コールは疑心暗鬼の渦に飲み込まれ、精神のバランスを逸してしまい、家中のものを叩き壊し、壁や床を剥がして盗聴器を探すが何も見つからず、狂気の淵に立ち尽くす男を残し、映画は終わっていく。
《エネミー・オブ・アメリカ》は《カンバセーション…盗聴…》の精神的続編とも言えそうだ。けれども大きく異なるのは、ブリルが自分の行為を恥じていないのに対し、コールは信心深い男で自らの仕事をうしろめたく感じ、神から許されないのではという不安を抱いているという点だ。ブリルが強い男であるのに対し、結局自らの行為によって破滅していくコールは「弱い」男と言えるかもしれない。
《許されざる者》と《目撃》、《カンバセーション…盗聴…》と《エネミー・オブ・アメリカ》。このようにハックマンは時間を置いて似たような設定の役柄を演じ直すことがある。しかも後者2本のように、設定は似通っているが役の方向性は真逆というパターンもある。《ミシシッピー・バーニング》(1988)と《チェンバー/凍った絆》(1996)もそれに当たる。
《ミシシッピー・バーニング》でのハックマンは、1964年にミシシッピ州で実際に起きた公民権運動家の殺人事件を調査するFBI捜査官アンダーソンを演じている。アンダーソンも南部出身で、特有の人懐っこさで州外の人間に不信感を持つ南部人のコミュニティに分け入り、犯人を追い詰めていく。
一方《チェンバー/凍った絆》で演じるのは、ユダヤ人弁護士一家を爆弾で暗殺した罪に問われ服役するKKKのメンバーで、年老いたサムという男。舞台は同じミシシッピ州で、30年前の事件の弁護をするためにサムの孫、アダムが面会に訪れる。アダムの父親、つまりサムの息子はサムのヘイトクライムに苦しみ、自殺した。だが狷介で差別心もあらわなサムは、アダムの思いを一笑に付す。
けれどもアダムの調査の甲斐もあり、真犯人はサムの弟で、サムは彼をかばっていたことが明らかになる。サムの父親もKKKで、必然的に息子たちもKKKになるように教育されていくというように、その地域で白人として生まれる限り憎しみの輪から逃れることはできない、そういう時代だったのだ。サムは自分の子孫を憎悪のコミュニティに近づけさせないため、冤罪を被ることで家族から距離を取っていた。それは同時にサムなりの、息子への贖罪でもあった。
ハックマンは権威を纏う強い男を演じることを得意としたが、男の弱さを表現することにも長けた役者だった。前述した《スケアクロウ》は、暴行の罪で服役していたマックスと、別れた妻子に会いに行くライオンがふとしたきっかけで知り合い、旅を共にするロードムービーだ。マックスは威勢がよく荒っぽい男で、気弱なライオンを子分のように従えていく。しかしそうした男っぽさは多分に虚勢で、神経質な一面を隠し持っている。
スケアクロウ(Scarecrow)とは案山子のことだ。カラス(Crow)を驚かす(Scare)から案山子だろうとマックスが言うと、カラスは滑稽な案山子の姿を見ておかしいと笑い、畑の主はきっといい奴だから荒らさないでおくのだとライオンが応える。このたとえ話はこのコンビそのもので、マックスが周囲と確執を起こそうとすると、ライオンは道化を演じて空気を軟化させる、そうした関係性を示唆している。しかしライオンは刑務所で暴力を振るわれ、出所後の元妻の冷たい言葉がとどめとなり、精神のバランスを崩してしまう。マックスは独立のために貯めていた資金をライオンの治療に使うことを決意する。
マックスやフランク牧師は強くないと生きていけないというような人物だが、その言葉に反して沈没した船の生存者や相棒のために自らを犠牲にする。これは当時、リベラリズムに反対して白人層の強い支持を受けたニクソン政権の、強いアメリカへのアンチテーゼという意味を持つのだろう。
けれども結局、現在のアメリカは弱者切り捨ての方向へ向かっている。それはまるで、ニューシネマの失敗を示唆するようでもある。
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アメリカ映画の理念とはなんだろうか。ハリウッド映画、とりわけ西部劇は、歴史の浅いアメリカの神話であると、しばしばたとえられることがある。建国神話を国民に啓蒙するためのイデオローグということだが、ニューシネマはそうしたアメリカニズムの継承の語り直しを目指したと言えるだろう。それまでのハリウッドが物語ってきた強いアメリカ像は虚飾であって、アメリカをふたたび取り戻す試み。《小さな巨人》(1970)や《ソルジャー・ブルー》(1970)のようなマイノリティについての語り直しや、《スケアクロウ》や《真夜中のカーボーイ》(1969)、《ファイブ・イージー・ピーセス》(1970)での男らしさへの疑義からも、そうした問い直しの意識を強く感じる。
しかしこうして並べてみると、これは今のアメリカでのアイデンティティ・ポリティクスの前哨戦のようでもある。ニューシネマ世代の映画人は60年代後半から「強いアメリカ」像と戦ってきたが、60年の時を経て敗戦が濃厚になってきた。アンチハッピーエンド、バッドエンドはニューシネマの特徴だったが、それを現実に焼き直しているようでもある。
《チェンバー/凍った絆》のサムは、継承に失敗したアメリカの犠牲者だ。KKKの親のもとに生まれたサムは、自分の息子を憎悪の犠牲にしてしまった。ここからはハックマンの、ドライな現実認識を見出してしまう。ハックマンは弱者を演じることの困難を感じ、強者の立場にシフトしてしまったのだろうか。
最後に《ザ・ファーム 法律事務所》(1992)を振り返ってみたい。ハックマンが演じるのは、一流弁護士事務所で働くベテラン弁護士エイヴァリー。高給取りで女遊びを派手に楽しむエイヴァリーは新人弁護士ミッチの教育係になるが、ミッチは就職先がマフィアお抱えの事務所で、意に沿わない者は消されていることに気づいてしまう。
マフィアの手から逃れようと策を弄するミッチ。ミッチの妻アビーもそれを手助けしようとするが、あるきっかけにより夫の愛を疑っている。そこにエイヴァリーが食事に誘う。エイヴァリーの言葉の端々からは、かつて彼もミッチのように事務所から逃れようという意思を持っていたが、死の恐怖ゆえにそれを諦め、女と遊ぶことで気を紛らわすようになり、そのせいで妻とも心が離れてしまったことが伝わってくる。
エイヴァリーはアビーを逃がしてしまい、夫婦はマフィアの手を逃れることに成功する。一方その過失によりエイヴァリーは非業の死を遂げるが、どうも彼はアビーをあえて逃がしたようにも感じてしまう。おそらくエイヴァリーは、かつて自分が果たせなかった夢、マフィアの手を逃れ妻との生活を取り戻すことを、ミッチとその妻に託しているように考えられるのだ。
ニューシネマの理念の実現は失敗した。だがそれがどこかで継承されるのであればそれでいい。《ザ・ファーム 法律事務所》や《チェンバー/凍った絆》には、そうした意思が汲み取れる。映画にはSNSのような力はもうすでになく、その意味では60年代以上に映画の衰退を感じさせるが、それでも継承されるものはあるはずだと、エイヴァリーやサムの死は物語ってくるのだ。
(2025/4/15)
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noirse
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