Menu

パリ・東京雑感|明治の新しい女と「愛」の二つの傑作――有島武郎『或る女』と荻原碌山『女』|松浦茂長

明治の新しい女と「愛」の二つの傑作――有島武郎『或る女』と荻原碌山『女』

Text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)

 

去年11月、東京女子大で、『明治の<新しい女>―佐々城豊寿と娘・信子』合評会というのがあった。余裕を見て15分ほど前に着いたら、門を閉ざして入れてくれない。この日は学園祭なので、祭りがスタートする10時までは門を開けない決まりらしい。開門を待つ行列の先頭に、立派なカメラを抱えたおじさんたちがいる。明治の<新しい女>に強い関心を持つ方々には見受けられなかったので、お尋ねすると、「ダンスを撮影する」と教えてくれた。ダンス撮影隊による混乱を避けるために10時開門を決めたのだろうか?
会場の教室に駆け込むと、壇上に3人の先生が居心地悪そうに座っておられる。ぞろぞろ聴衆がつながって来るのを見て、ホッとした表情。合評の一番バッターは東京女子大学長の森本あんり先生だから、「10時まで門を開けてくれなかったのですよ」と訴えると、あきれた顔をしておられた。

佐々城豊寿

さて、本題に入ろう。佐々城豊寿って何者? 若い頃、男装し、馬に乗って仙台の町を疾走し、不良少年を懲らしめた。無頼の青年らが、彼女を「夜叉のごとく」畏れたとか。東京まで徒歩で旅する途中、宇都宮の宿で、給仕に出た娘が彼女を男だと思い、寝所に忍んできたというから、美しい人だったに違いない。
烈婦と呼ばれた豐寿の娘、信子は愛の自由を貫き通した強い女だった。親の反対を振り切って国木田独歩と結婚するが、半年も経たないうちに逃げ出して離婚。アメリカの婚約者のもとに行く船の中で妻子ある男と恋に落ち、上陸しないで愛人と共に日本に舞い戻った。信子のアメリカ行きを見送った有島武郎は、彼女をモデルに珠玉の恋愛小説『或る女』を書く。
豐寿は矯風会や雑誌、女学校を舞台に、女性の地位向上のため、大勢の敵と戦い、信子は船上のスキャンダルを書き立てられ、世の憎しみの的になりながら、愛を貫徹した。明治の初めに生きた母と娘の妥協のない生き方は、いまの私たちにすごく魅力的に映る。私たちの感性が、フェミニズムのおかげで多少進化したためだろうか。

それにしても、頑固・奔放な母娘への興味をかきたて、彼女たちの受けた苦難への同情さえ引き出した著者、小檜山ルイ先生(フェリス女学院大学学長)の説得力は並大抵ではない。何が彼女たちの剛毅さをはぐくんだのか――明治初期の思想、社会運動をかたちづくった特殊な状況をていねいに掘り起こしてくれたおかげで、突拍子もない明治の<新しい女>の生き様がそんなにヘンでもない、と思えるようになった。
そのカギは「女性化した」キリスト教らしい。神林尚子・大妻女子大准教授は、「この本を読んで驚いたのは、明治初期の知識人や民権活動家のほとんどが、キリスト教に大きな影響を受けている事実です」と発言したけれど、宣教師のもたらしたキリスト教が「女性化した」特殊なキリスト教とは知らなかった。

AIが描いた19世紀アメリカのクリスチャン・ホーム

「女性化した」キリスト教とは? 西部劇には、食事の前にお父さんが家長の威厳を見せてお祈りする場面が良くある。ところが19世紀アメリカの中流家庭では、お祈りがお母さんの役割に変わる。女性が道徳の守護者であり、「ホーム」において夫を浄化し、子どもたちを教育し、社会改革運動に乗り出す。これは、リヴァイバルと呼ばれる回心を主軸にする特異なキリスト教。マッチョな明治日本に、なんと、家庭を女性が仕切る聖域にしようという宣教師が乗り込んだのだから、悲劇が起こらないはずはない。
宣教師たちは、クリスチャン・ホームを築くために「愛ある」結婚を奨励した。フランスでも恋愛結婚が一般化するのは第二次大戦後なのに、明治の日本に恋愛結婚を勧めるとは!

女性宣教師たちは、寄宿学校をつくり、生徒と寝食を共にしながら、教育した。学校は「ホーム」のお手本。洗礼を受けた生徒たちは、キリスト教徒と結婚してそれぞれの「ホーム」をつくるだろう。「ホーム」はただの住まいではなく、女性の自己表現の場であり、社会に働きかける拠点ともなるはず。
でも、せっかく育てた生徒が、親の決めた結婚をすれば、異教徒の夫に従うことになり、男を浄化する「ホーム」づくりは挫折する。親に抵抗してでも、共に「ホーム」をつくるにふさわしい相手を選ばせるには、どうすれば良いか? 異教社会のただ中で、女性の聖域としての家庭を築かせるには、「愛ある」結婚という危険な思想を吹き込むほかないと考えたのだ。
ベストセラー『西国立志編』を書いた中村正直は、この目新しい「アメリカン・ミッション・ホーム」が大変気に入り、恋愛結婚を称賛している。

中村正直

愛を知らざる婦人は婦人に非ず。愛を知らざる男子は男子に非ず。男女相愛するに非ざれば、各々その全きを得ず。(中村正直『西洋品行論』)

世の夫婦となりて、相親愛せざる者あり、反目する者あり。姦淫する者あり。此の如き輩は百年夫婦たりといえども、未だ此の二人の死時の情の真に愛深きにしかざるなり。(中村正直『情死論』)

豐寿は中村正直が創設した同人社女学校で学んだのだし、女性宣教師から「ホーム」の教育を受けたのだから、ロマンティック・ラブ・イデオロギーの強い感化を受けたとみて間違いない。その豐寿が、既婚のクリスチャン医師と恋に落ち、内縁関係のまま信子を生む。きっと、愛の感情だけが「ホーム」の基盤だと信じ、愛のない結婚は捨てなければならないと律儀に考えたのだろうが、厳格な一夫一婦制を命じるキリスト教的結婚観に「不倫」はそぐわないではないか。
アメリカ由来のロマンティック・ラブが、明治日本の風土に流れ込んだとき、奇妙なねじれが起こったのだ。妾や内縁に寛大な、ゆるい性のモラルをうまく利用して、「愛ある」結婚という困難な理想への突破口をつくろうとしたに違いない。

「ホーム」建設にふさわしい伴侶をみつけられるよう、キリスト教コミュニティーでは、男女の自由な交際が許されていた。当時の一般社会には理解されない「淫らな」環境。島崎藤村の主人公を夢中にさせた、ロマンティックな空間だ。

何時の間にか彼も良家の子弟の風俗を学んだ。……軽い帽子を冠り、半ズボンをはき、長い毛糸の靴下を見せ、輝いた顔つきの青年等と連れだって大勢娘たちの集まる文学会に招かれて行き……若い女学生たちの口唇から英語の暗唱や唱歌を聞いたときには、ほとんど何もかも忘れているような気がした。……彼は若い男や女の交際する場所、集会、教会の長老の家庭なぞに出入りし、自分の心を仕合せにするような可憐な相手を探し求めた。(島崎藤村『桜の実の熟する時』)

若い男女が「自由交際」するキリスト教コミュニティーは、封建道徳の中で育った当時の日本人の目に、「トルコ風呂社会(内村鑑三)」のようにしか見えなかったとしても、不思議はない。
でも、小檜山ルイ先生によると、アメリカから来た結婚文化で重要なのは、婚前の性交渉をしないことだそうだ。生涯にわたって「愛ある」家庭を守るにふさわしい相手を選ぶには、複数の相手と、自由に交際した方が良い。プラトニック・ラブは、選択の自由を確保するためでもあったわけだが、「精神だけ」の愛というのは日本の伝統にはない、不可解なシロモノだっただろう。
森本あんり先生は、そもそも「愛ある」結婚観の起源は17世紀のピューリタニズムにさかのぼるとおっしゃった。伝統的結婚観は、家の繁栄を願う手段であって、「愛」よりも「生殖」、子供を残すことに重きが置かれた。ピューリタンと聞くと、お酒と美食を敵視する、禁欲的まじめ人間を連想するけれど、セックスについては「結婚のもっとも適切な本質的行為」として、大切にした。子供を残すための性という伝統的モラルを離れ、「善意と喜びと熱心をもって、いそしむべき」大事なつとめとされたとか。愛と性に対し真剣だったのだ。

さて、豊寿がロマンティック・ラブの教義に従うために、内縁の妻になったとしても、それは当時のモラルの許容範囲だったが、娘信子の選択は、許容範囲をはるかに超えていた。
1885年6月に国木田独歩は佐々城家を訪れ、信子に会う。8月までに二人は恋に落ち、プラトニック・ラブの3ヶ月ほどを経て、11月に結婚。翌年4月に信子は失踪し、その月の内に離婚する。世の同情を集めたのは、もっぱら悲嘆にくれた独歩の方で、いとこの相馬黒光でさえ、独歩に味方している。

私は性格においてすべてさらさらとして淀みのない信子よりも、理想家らしく情熱的な独歩に同感できるのです。ましていったんそこに嫁ぎながら半年経つか経たぬに帰ろうなどと言い出す信子の意志の弱さと節のなさに呆れるのです。……そんな薄弱な恋で父母を苦境に立たせ、名のある方々を煩わすなど、あんまり我儘すぎて従妹ながら愛想が尽きてしまうのでした。(相馬黒光『默移』)

荻原碌山『女』

黒光にも愛のドラマがある。相馬夫妻と同郷の彫刻家、荻原碌山が新宿のアトリエに移り、新宿中村屋主人である相馬家をたびたび訪れるうち、黒光に恋心を抱く。当時黒光は夫の不倫に苦しんでおり、さらに次男を病気で失う。碌山は、思いを寄せる人が運命と苦闘する姿をみつめ続け、『女』を完成して30歳で死ぬ。
碌山の作品を整理するためアトリエに行った黒光は、初めて『女』を見て、「胸はしめつけられて呼吸は止まり・・・自分を支えて立っていることが、出来ませんでした」と語っている。日本女性らしいつつましさをたもちながら、深い悲しみとあこがれが見る者をとらえて離さない――高貴な彫刻だ。
碌山と黒光の悲恋が、近代日本の代表的彫刻を生み、信子の愛のドラマが、近代日本最高の恋愛小説を生んだのは、ただの偶然だろうか? ドラマの登場人物は、全員ロマンティック・ラブの洗礼を受けたクリスチャンである。

信子の冒険に戻ろう。なぜ信子は新婚ほやほやの家から遁走したのか。信子はまだ結婚する前、いとこの黒光に「女を我が物顔したり女房扱いされると、私は侮辱を感ずるのです」とこぼしている。信子のアメリカ行きに反対したり、何を勉強するかは私に任せろと言ったり、プライドの高い彼女には、独歩の「我が物顔」がうっとうしかったのだ。
独歩は「新しい」恋愛をしたつもりだったかもしれないが、いったん結婚すれば、妻になった女性に服従を命じた。いまの目で見れば、むしろ信子に同情すべきだというのが小檜山先生の意見だ。

独歩にとっての<一心同体>とは、自分の都合を妻が受け入れることで、決してその逆ではなかった。そのような<愛に基づく結婚>に巻きこまれたことは、佐々城信子にとってこそ大きな災厄であった。だが、それは現代の視点に立って言えることで、当時の日本においては、男の言い分がまかり通った。(小檜山ルイ『明治の<新しい女>―佐々城豊寿と娘・信子』)

佐々城信子

男を浄化する女性の聖域たる「ホーム」を学んだ豐寿や信子だが、現実の家に入れば、夫と父母にかしずくことが期待される。たとえ独歩のようなキリスト教徒と結ばれても、家を女性の自己表現の場とするには、革命的な闘いが必要だ。

両親が亡くなり、1901年、信子は札幌農学校出身の森広と婚約する。森は、国の海外実業練習生に選ばれて渡米し、信子も跡を追って9月に日本郵船の鎌倉丸に乗船。森と一緒に札幌農学校を卒業した有島武郎は、横浜で彼女を見送った。
その船上で、信子は鎌倉丸事務長の武井勘三郎と恋に落ち、シアトルまで迎えに来た森広を無視して、同じ船でUターンしてしまう。
この事件は、『東京日日新聞』などで伝えられたうえ、翌年『報知新聞』が『鎌倉丸の醜聞』を7回連載。「信子の如きは色を売る賤女にも劣りし女」と、さんざんに書き立てられた。信子に捨てられた国木田独歩は、二人の関係をもとに『鎌倉夫人』と『第三者』を書いて、逃げた妻に復讐する。
信子は武井と一緒になるが、武井の妻が離婚を拒み続け、信子は終生妾のまま。どこで暮らしても好奇の目と陰口に取り巻かれたが、言い訳せず、動じなかったという。彼女に惚れぬいた独歩を捨て、将来を約束された誠実なクリスチャン、森を裏切ったのはなぜ? 女たちの憧れの的だった美しき才媛が、なぜ人目を忍んで生きなければならないところへ、自分を追い込んだのか?
彼女の中の「何か」がそれを命じたのだ。信子は全てを捨ててもその「何か」に忠実に生きようとした。小檜山先生は、著書の最後で、大胆にもその「何か」を信仰と断定している。

奇異に思われても、日曜学校を続け、豐寿譲りの改革者魂を静かに抱き続けた。
彼女の「剛毅」、運命を堂々と生き、自尊を保ち得た力は、イエスを同伴者とする信仰を前提しなければ、理解不能である。(小檜山ルイ『明治の<新しい女>―佐々城豊寿と娘・信子』)

信子を支えたのが信仰だとしても、それは教会が説くオモテの信仰ではない。明治のキリスト教指導者は武士階級出身が多かったから、宣教師の持ち込んだ「女性化した」キリスト教とは肌が合わない。内村鑑三も「幸福なる家庭とよ! キリストはおのれを信ずる者にそんなものを約束したまわない。」と、外来の「クリスチャン・ホーム」思想を罵倒している。
幸いなことに、有島武郎が『或る女』の葉子として、信子のすさまじい格闘の一部始終を書き残してくれた。最愛の妹を殺しかけ、誠実な男たちを絶望させ、なによりも自分自身をさいなみ、すべての人に見捨てられ、「身もだえもできない激痛の中で、シーツまでぬれとおるほどな油汗をからだじゅうにかきながら」、内田(内村鑑三)が訪ねてくれるのを待ちわびながら死んでいった葉子。それは、人と自分を傷つけ、神と格闘する、血みどろの<信仰>だったのだろうか? 葉子の言動は破廉恥としか言いようがないのに、その奥から犯しがたい崇高な香気が立ちのぼる。あれはいったい何だ?

ともあれ、豐寿・信子の時代から一世紀半、女子大生がダンスを踊って祭の客を迎える時代になった。豐寿たちが夢見た「ホーム」をつくりたければ、女性がそんなに突っ張らなくても実現できる。
フランスの哲学者リュク・フェリーは、「初めて愛の場としての結婚生活が普遍化した。それは、私的空間への後退を意味するのではなく、むしろ大きな世界にむけて愛の拡張をもたらした」と、「愛の革命」をとなえている。明治時代に悲劇を生んだ「ホーム」の思想、いまキリスト教抜きで、世界を静かに変革しているのかもしれない。

(2025/2/15)