Menu

特別寄稿|安倍オーペル節子(1933-2021) ― 熊本からドイツ・バート・ゾーデンへ 演奏、通訳、文化仲介者としての生涯(3)|デトレフ・シャウヴェッカー

追悼文
安倍オーペル節子(1933-2021) ― 熊本からドイツ・バート・ゾーデンへ
演奏、通訳、文化仲介者としての生涯(3)1)
In Memory of Abe-Opel Setsuko (1933-2021). From Kumamoto to Bad Soden (Germany) ―
A Life as a Singer, Interpreter and Cultural Mediator (part 3)

Text by デトレフ・ シャウヴェッカー(Detlev Schauwecker): Guest

帰国するかの悩み ― 1980年代前半

20年以上の結婚生活を経た後、節子とヴィルヘルムは離婚することにした。50歳を少し超えた節子は当時、東西の間を通いながら、自国で歌の教師として働くことを考えていた。日本にいる知人も、小規模な歌の演奏会を手伝う協力を示していた。実際に小さなコンサートもあったであろう。しかし、節子にとって日本の楽壇に入る主な困難は、日本の音楽大学を卒業していなかったことにあったと思う。洋楽を専門的にやっている人たちの世界に入るためのつながり、フィードバック 、サポートなどがなかった。同じ音大や音楽学部の出身者が地域のコンサート活動に派閥的に影響を及ぼすような排他性のメカニズムは、おそらく今より数10年前の80年代にはより強く、彼女が参入することを困難にしていたのではないかと思う。フリーランスアーティストの節子はおそらく、その対策として前述の有名なダルムシュタット音楽院による試験を考えていたであろう。音楽界を別として、いくら帰国の夢があったとしても30年もの間、日本を不在にしていたのでは、精神的にも現状の日本社会や社交的な習慣から離れていたであろう。

節子とヴィルヘルム・ニーベルの結婚生活

2人の20数年の夫婦生活であるが、節子が夫に宛てた手紙を読むと、結婚当初の時期が最も幸せであったようだ。夫に宛てた愛情溢れる手紙が残っている。残念ながら夫が書いた手紙は節子の遺品に一通も見つからなかった。
夫は大学法学部大学院の「永久の院生」だったかもしれないが、ピアノを弾くと確固たる基礎を築いていたようである。しばらくの間コンサートの前に節子に演奏法のヒントを与えたと思われる。節子が好きなドイツ・ロマン派歌曲の歌詞を説明できるネイティブスピーカーでもあった。歌のリサイタルの成功に対する彼の貢献は少なくなかったようである。他方では、彼女はふたりの生活費を多少負担し、年下の彼を精神的にも支えていたため、2人は互いに愛着を抱いていたであろう。80年代初頭にこれについて交わした激しい口論に触れる手紙がある。この手紙は上に述べた互いの依存関係を裏付けるかのようだ。
最初の愛情は、数年後、馴染みのある親近感に代わった。若い夫に強く気遣う1973年の手紙がある:

夫のイギリス短期留学中に起こったイギリスのテロ事件が滞在地から数百キロも離れていたにもかかわらず、フランクフルトのアパートでひとりぼっちになった節子はベッドに入っても彼の身を案じ続け、愛犬のフィフィーまでもが心配そうに彼女のベッドの下に潜り込んできた

と書いている。

また数年後、激しい嫉妬の場面が見られる。

彼女は国際見本市の通訳のため自分の車で遠く離れた
ミュンヘンへ出かけるが、同じ日に夫が嫉妬深い速達の手紙を後から送る。(節子の口述)

1981年5月の長い手紙で節子が別離の理由を説明していた。

夫の愛が全く感じられない節子が「生き埋めにされた」とやや劇的な表現で書いた。強い自己執着から脱却できな彼は日本にも一切目を向けないなどと節子が歎いていた。

その時期に2人は既に別々の道を歩んでいたと思われる。

おそらく節子の更年期も影響していたこの激動の時期に日本人作家、ドイツ在住のクライン(Klein)貴子が言及したゴシップ集があるがその文章からは節子は日本帰国の夢が覚めて、ドイツで独自の道を歩み続けることにしたある種の不屈の精神が読み取れる。2)

節子の手紙に激しい言葉がたまに響いても相手を恨むことにはならない 。むしろ夫を励まし、円満な別れを目指すのが節子の心情のベースにある。健康な生活を守ることに関する節子のアドバイスの厳しさの裏面にむしろ彼女の心配も感じられる。

私は、生きている間、健康を保たなければならない、それがなければ生きる価値が半減すると考えているからです。(1981年12月18日付の東京からニーベル宛の手紙から)3)

引用した長い手紙は節子の内面が垣間見える、印象的で明快な手紙である。30数年後、彼女は生徒たちによく言ったが、

人生は、一人一人が自分の役割を果たす大きな舞台のようなものです。誰かの役を悪いと思っても恨んではいけません。
憎しみは戻ってきて悩ませるものだから、それに屈してはいけませんよ。

このような言葉の中に離婚前後の時期の厳しい体験が響くかのようである。
正式な離婚は1984年であった。

バート・ゾーデン市 1985-2021

1985年にヨアヒム・オーペル(Joachim Opel)と二度目の結婚をした後、節子はフランクフルト近郊の小さな町バート・ゾーデン/アム・タウヌス(Bad Soden / am Taunus)に移住した。そこでドイツ滞在後期の36年間を過ごすが、そのうちの後半の18年間、一人で暮らすことを余儀なくされた
ヨアヒムは1948年生まれで、一番目の夫ニーベルと同じく彼女より若く、有名なディスターヴェーク出版社の事務に長く勤めていたが、何よりも彼は情熱的な音楽家であった。長年「フィルハーモニー・ネッカーマン」(Philharmonie Neckermann)というオーケストラを指揮した。
節子はそれから、ヨアヒムのピアノ伴奏でバート・ゾーデンを中心に、小規模なコンサートを繰り返し開催したが、それまでのクラシック歌曲レパートリーを軽音楽的なオペレッタのアリアなどで補った。それは夫の影響に違いない。夫指揮のオーケストラとのコンサートで歌ったこともあったのだ。節子の再婚生活に暫くの間伴ったこのユニークなオーケストラに触れたいと思う。

フィルハーモニー・ネッカーマン
古典演奏会に慣れた節子が一風変わったシニア・オーケストラに出会う。それは、高級な楽壇から庶民のそれへの変転でもあった。
ネッカーマン通信販売企業のOB・OGで構成された約20人のこのアマチュア・オーケストラは、毎週フランクフルト本社敷地内の食堂で「やや高級なエンターテインメント音楽」ないし「きびきびとした音楽」(ヨアヒム・オーペル)を練習していた。体育館などの演奏本番には、他に10人前後の音楽家が飛び入りで加わった。オーペルが指揮をとったら、フランクフルト人は切符売り場で列に並んでいたと新聞に書かれていた。同新聞もシニアたちの熱心さについて、

ティンパニストはある時あまりにも情熱的なロールを打った結果、後ろ向きにひっくり返って舞台の上から落ちてしまった。しかし幸いにも怪我はなかった

と書いている。

J.オーペルが指揮するフィルハーモニー ・ネッカーマンの練習時間
「得意は高いレベルのきびきびとした音楽」(1990年代?の新聞記事)

「バタフライ・オーペル夫人」
ある楽団員が書いた記事は、歌っていた節子の事を勝手に「バタフライ・オーペル夫人 」(Frau Butterfly-Opel)とよんでいた。プッチーニのオペラ「蝶々夫人」を踏まえて面白がって作った名前であり、オーペル氏の妻の母国を指す。さらに、優美な娘のイメージ(蝶々夫人)とずんぐりした50代主婦(節子オーペルさん)のイメージが合わさった事がダブルネームのだじゃれであろう。その上、節子は「蝶々夫人」ではなく、オペレッタ映画「金髪のカルメン」4)のアリアを歌っていた。1900年前後のジャポニズム流行には、迫ってくる西洋女性解放運動から逃れて西洋の男たちが夢見る目を東洋へ向けて日本人妻を夫のまわりを舞う美しい蝶々に喩えるほどの日本かぶれが文学にあったが 5)、それは記事が書かれた1980年代にまだ消えていなかった。ダブルネームはこのかぶれを庶民の現実的な目でふざけたところであろう。

同じ記者も節子の歌を賞賛し、

バタフライ・オーペル夫人の天女のような美しい歌い方で、コンサート録音係の仲間もあまりにも魅了されて、録音ボタンを押すのを忘れてしまいました。

ばかげた言い方にフランクフルト人のユーモアも響くであろうが、ジャポニズムにある日本かぶれ的な風潮を風刺するところでもあろう。

このコンサートに、多才な音楽家であるディーター・シューマン(Dieter Schumann、1953年生まれ)も歌手として出演した。彼は当時人気者であった。二人は共演後アンコールのワルツ曲に合わせてステージの前で一緒に踊った。聴衆もワルツの拍子を手で打ったがそれは同時に2人の演奏家に送った拍手でもあった。まじめなクラシック演奏会やそのお決まりの拍手に慣れた節子にはおそらく夢にも思わなかったような大きな拍手であったに違いない。
2番目の夫は、エンタテインメント音楽の陽気なミューズと彼女を仲良くさせたであろう。

フィルハーモニー ・ネッカーマンのコンサート、演奏家のディーター・シューマンと節子オーペル。フランクフルト・マイン 1990年代(?)

オーペル自宅のコンサート
1998年に、同楽団の数人はバート・ゾーデンのオーペル自宅でとった写真に見える。それは指揮者ヨアヒムの50歳の誕生日会の写真であった。小さなスペースで、ヨアヒムのピアノ伴奏で、奏者たちは楽譜なしで吹き、真ん中の節子はフォルテで歌う。騒々しいほろ酔いのセレナーデ。節子と夫のヨアヒムはこのハイライトを心から楽しんで一生忘れなかったであろう。

オーペル自宅の誕生日会。バート・ゾーデン市、1998年

付け加えるがオーペル夫妻は他の機会にも自宅で音楽会を開いていた。たとえば1995年に撮った写真には、節子が世話をした日本会社の代表団が同じ部屋に見える。彼らを夕食会に招待し、夫と一緒にハウスコンサートを準備していた。通訳仕事を超えた個人的な付き合いがあったことは多くの手紙で分かる。中に―― フランクフルト・ブックフェア(国際書籍の見本市)に定期的に参加した――講談社幹部の代表者との個人的なつながりは特に長く続いていた。

オーペル自宅のハウスコンサート、1995年

それ以外、前述したようにオーペル夫妻はバート・ゾーデンでもコンサートを行うようになった。イベントを二つ挙げる。取り挙げる三つ目のコンサートは節子がヨアヒムを失ってから歌っていた。

(1)バート・ゾーデンのパークホテルの新年会1999年
市役所の公式新年レセプションで市長のスピーチを挟む節子と伴奏の夫による演奏のプログラムが残っている:スピーチ前の第一部は春と愛についての三曲(シューベルト、山田、シューマン)、スピーチ後の第二部はフランツ・レハール・オペレッタの愛のアリア三曲。前半は節子、後半は夫ヨアヒム好みの選択のようだ。
小さな町の特徴的な風景である。役場はコストを考えて主催行事に地元の達者な音楽家を呼び寄せる。その中の外国人歌手は、プログラムに自国の楽曲を取り入れることを怠らない。

(2)バイエルン州で、2000年ごろ(?)
市外のコンサートとして、オーペル夫妻がバイエルン州ノイマルクト市(Neumarkt市)で「日本週間」の際に用意したコンサートについて新聞記事が残った。プログラムはオペラのアリアから日本の「民謡」まで多様であった。

(3)送別会「サヨナラの夕べ」 2007年
バート・ゾーデン市の姉妹都市養老町(岐阜県)から来た代表グループの送別会「サヨナラの夕べ」で、70代半ばの節子が日本の歌を歌った。(2007年6月13日のバート・ゾーデナー・ツァイトゥング新聞の記事)。

節子は2004年ごろから開始したこの姉妹都市交流に翻訳・通訳・コンサルタントとしてそして演奏にも深く係わっていた。IKUSというバート・ゾーデン市国際交流会が故節子の追悼文にも彼女の「熱心な献身」(「Herzensangelegenheit」)に感謝の言葉を表した。6)

夫のヨアヒム・オーペル
節子の最初の結婚相手と違って、ヨアヒムは日本に関心を持っていた事に彼女が喜んでいた。夫婦は元の生徒で、友人になった家族に横浜へ招待されて、数週間の日本の日々を楽しくすごしたようだ。上に載せた写真「オーペル自宅のハウスコンサート、1995」にヨアヒムが着た袢纏もおそらくその際買っていたであろう。帰国後その友人からヨアヒムへ相撲の詳しい情報を新聞記事などで伝える習慣が暫く続いていた。(現、鎌倉在住の節子の友人の口述)

ヨアヒムが亡くなる2003年まで、夫婦が長年腕を組んで毎日のように散歩をしたが、その間、幸せな時間を過ごしていたであろう。

晩年の歌のレッスン
節子は、前回(第2回)に触れたワルトブルク教会の女史カントル(音楽監督)を通じて、同教会の「音楽友の会」のコンサートに繰り返して出ていた。80代半ばのおそらく最後に参加した教会コンサートは、同時に50年前に始まった演奏活動の素適なしめくくりでもあった。それは中国風の詩の朗読と交互に歌を歌うコンサートであった。半世紀前のコンサートは日本の詩歌との交互であった。7)

教会理事は、それ以上の節子の演奏活動について若干迷った(彼女の声はもはや教会に響かなかった)。が、その間に別の宗教団がいい解決を見つけた。それは日本の新宗派のフランクフルト支部の秀明センターであった。同センターは彼女に定期レッスンを受ける生徒のグループを作って、2015年から亡くなるまでの6年間、節子が歌の教師として幸せな日々を送ることを可能にした。同センターの人たちは年配の同胞を愛情を込めて世話をした。
知人は週に一回、学生グループがいるフランクフルトまで送迎をした。彼女は規律ある歌練習を重視し、生き生きとした個性的なやりかたで大人の生徒に刺激を与えた。子供たちにはいつもクッキー入りの大きな袋を用意していた。人の悩みにも耳を傾けていたが人生に失意に陥っていた若い日本人女性ピアニストの面倒を見て、元気を取り戻すようにしたことなどもあった。

2020年のある日、一人暮らしをしていた節子が自分の家で転倒後、一週間弱、無気力で横たわっていたが、助かって入院した三日後ベッドに集まった生徒たちと一緒に歌っていたことは、救急医者たちにとって奇跡のようであった。日本の知人は、生き伸びる力は主にハラ(丹田)の練習によるものだったと考えていた。

節子は動物が好きであった。自宅で猫と一緒に歌ったりした。生徒たちもそのような(ロッシニー式の)猫のデュエットを歌うようによく奨励した。音大などで教えているような人工的な歌い方ではなく、鳥のように歌うように勧めた。動物の鳴き声を音楽のように感じて、朝や夕方の鳥の鳴き声は交響、つまり「自然の交響曲」であるなどと生徒たちに言った。彼女にとって、音楽と自然の音の間にある境界は流動的なものであった。

動物が好きな節子が映った写真には、ヴァーレンドルフ馬産地の牧場の子馬、高い山の牧草地の牛、またはコンクールで受賞したシェパード犬などが見えて、通訳の仕事先で撮ったと思われるものが多い。

節子が飼った猫、節子が描いた絵

節子の楽譜棚の中から(本居長世[1885-1945]: 「関の夕ざれ」1919年作曲)

オペレッタ歌手の田中道子(1909-1988)と夫のヴィクトル・デ・コワ(1904-1973、俳優)との間に節子。ベルリンのデ・コワ邸で節子は数曲を歌い、老巨匠の田中道子に高評価された。写真の4人目は不明。1970年前後(?)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

節子の恵まれた幸運は二人の結婚相手が彼女が歌った歌の伴奏者であり、それぞれ20年弱のあいだその協力を示していたことにあった。ドイツで歌うという元々あった強い希望が叶えられていた。頑固な性格について 彼女はすでに20代前半神戸にいる間親戚の叔母に聞かされた事は上に述べた。8)
幸運にもマイナスがあったという事実―― ヨアヒム・オーペルも精神面も経済面も不安定であった――まあ、それとのバランスを、強い熊本の娘が若い頃から示して来た自立性をもって保っているようだった。「肥後の猛婦」という謂れに触れていたがこのような強さで彼女は自分という小さな船を大波を超えて進路をよく守り続けていたに違いない。

人生の晩年、一人暮らしの節子は、日本人生徒のグループの中で、再び母国に近づいたようである。それまでの60年間を主にドイツ人のあいだで過ごしていた。通訳や観光客案内などの仕事で、同胞は入れ替わり立ち替わりやって来る 顧客であったが、日本人コミュニティに近寄ることはあまりなかったようだ。

節子のレパートリーを見ると1960/70年代にはオペラアリアや日本近代歌曲もあったがドイツ・ロマン派の歌が主であり、1980年代からオペレッタのアリアも加わってきた。最初の夫、2番目の夫がどちらも彼女の伴奏者として、歌の選択や解釈にそれぞれの影響もあったと思われる。
半世紀に渡って、彼女がドイツの演奏会に日本の歌を加えてきた。このようにして、ドイツの歌曲リサイタルの従来のレパートリーを充実させ、20世紀初頭大正頃の日本の芸術的な童謡運動の美しい歌に聴衆の耳を向けさせた。それは独日文化交流史を見ると、1930年代後半に主だってきたイデオロギー的な色合いを外した戦後の新たな自由な交流であった。
戦時中と戦後数年間による交流の減退もしくは休止の時期が終わった後の1960年前後、節子はドイツの舞台で歌い始めた頃は、再び日本の歌をドイツの音楽ホールで聞かせた数少ない日本人声楽家の中の一人であった。

節子は2021年2月15日、バート・ゾーデンに近いバート・ホンブルク市の病院で亡くなった。バート・ゾーデンの葬儀には思いがけず、西洋と東洋それぞれの礼拝で霊的な祝福の言葉を得た。つまり、節子の広い世界に向かった魂には、西と東の二つの楽園の門が開くようになった。

1)追悼文(1)と(2)は当誌の2024年12月号2025年1月号掲載。
2)クライン貴子「しあわせへの前奏曲、頑張ってます」三修社 1983. ページ 70-82
3)W.ニーベルは数年後に自殺したそうである。(節子の口述)
4)「Die blonde Carmen」 1935年封切りのドイツオペレッタ・喜劇映画名。
5) ドイツ人著者Stephan Zweig(1881-1942)がラフカディオ・ハーン(1850-1904)の日本人妻について。ハーン著の選集独訳の前書き。(Das Japanbuch – Eine Auswahl aus den Werken von Lafcadio Hearn. Frankfurt a.M.: Literarische Anstalt Rütten & Loenig. 1919.p.10 (初版1911)参照。
6) Gedenken an Frau Setsuko Opel – IKUS Bad Soden am Taunus e.V. (ikus-bad-soden.de)参照。
7) 当誌2025年1月号「1.1.「ドルンブッシュの家」(Haus Dornbusch) で歌う節子、1960年」参照
8) 当誌2024年12月号参照

この追悼文は2023年9月OAG Notizen月刊誌(Notizen 2311.indd (oag.jp)OAG東京)のSchauwecker著「フィーチャ」(p.4-34)に加筆したものである。

関連記事:特別寄稿|追悼文 安倍オーペル節子(1933-2021) ― 熊本からドイツ・バート・ゾーデンへ 演奏、通訳、文化仲介者としての生涯(1)|デトレフ・シャウヴェッカー
特別寄稿|追悼文 安倍オーペル節子(1933-2021) ― 熊本からドイツ・バート・ゾーデンへ 演奏、通訳、文化仲介者としての生涯(2)|デトレフ・シャウヴェッカー

(2025/2/15)

――――――――――
デトレフ・シャウヴェッカーは日本滞在50年。発表/出版:古典演劇(浄瑠璃)や東西文化交流について。関西大学退職後、小型農夫の傍ら、妻と田舎音楽喫茶店の経営。 (►mitokiya.com)