小人閑居為不善日記|デヴィッド・リンチでもあり、ドナルド・トランプでもある|noirse
デヴィッド・リンチでもあり、ドナルド・トランプでもある
Both David Lynch and Donald Trump
Text by noirse : Guest
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デヴィッド・リンチが亡くなった。いまでは巨匠と呼ばれているが、わたしがリンチの作品に出会った90年代は「カルトの帝王」というようなポジションだったはずで、多少の違和感がある。30年も経てばカルトの帝王も堂々たる巨匠となるのだろうが、ここにはリンチのふたつの側面があらわれているとも思う。
リンチはもともと画家志望で、フランシス・ベーコンの熱心なファン。映画でもフェリーニやベルイマン、キューブリックやヴェルナー・ヘルツォークなど、独自の美意識を誇る監督を尊敬していて、主流のアメリカ映画の枠から逸脱したストーリーや美的センスにより、「アメリカではじめて成功したシュルレアリスト」とも呼ばれた。
けれども古典的なハリウッド映画にも魅了されていた。ヒッチコックとビリー・ワイルダーを愛好し、《ワイルド・アット・ハート》(1990)では《オズの魔法使》(1939)を参考にしているし、《ストレイト・ストーリー》(1999)はジョン・フォードに捧げると発言している。映画批評家のポーリン・ケイルは、リンチを「夢の論理のフランク・キャプラ」とたとえた。リンチ作品の特徴である奇妙なセンスは、このような「まっとうさ」の上に成立するものだった。
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リンチの訃報が届いた翌週、わたしは廃墟の中にいた。池袋駅から少し離れた一画の廃墟六棟の壁を一部ぶち抜きインスタレーションを設置した、150年展という展示を見るためだ。廃墟という特性上、廃墟愛好者や、ホラーやミステリ好きにまでリーチしたのだろう、広く話題を呼んだようで、チケットは早々に売り切れ、展示は長蛇の列だった。
舞台となった廃墟は、ビル一棟を除けばどれも民家。おそらく住人のものだったのだろう家具や日常品が雑多に残されていて、その古びた趣につい思いを馳せたくなる。企画者のステートメントによると、150年という時間の長さについて考えさせる意図があったようだ。
ある一室のかけられたままのカレンダーは2024年のもので、古めかしく思えても、つい最近まで人が住んでいたことがわかる。けれども屋内を散策していてもデジタル機器や現在を強く認識させるアイテムは見当たらず、つい最近まで自分と同じような人間がここに住んでいたというようには感じられない。もちろん住人がそうしたものを残していかなかったという理由もあるだろうが、まったくないというのもおかしい。時の流れを強調させるため、意図的に「現在」を排除しているように感じられてならなかった。
ただこういったことは、150年展のみの特徴ではない。わたしは廃墟を利用した美術展が好きで、できるだけ足を運ぶようにしているのだが――なんのことはない、わたしもミーハーな廃墟愛好者に過ぎない――この手の展示で「現在」を感じさせるものを放置していることはまずないし、それを批判したいわけではない。
すこしのあいだ「現在」を忘れたいから、廃墟に足を運んできたという観客も少なくなかったはずだ。ただしこうした心性はそう単純でなく、ふたつの思いに引き裂かれている。ひとつは非日常への志向性で、他人の家に土足で上がり込むうしろめたい好奇心、廃墟が醸し出す不気味さ、危険で複雑な廃屋をさまようことの不安などを抱きつつ、いっぽうでそのスリルを楽しんでいる。
ただ廃墟を求める観客は、日常性をも求めている。かつてここに人間の暮らしがあったという事実が見る者の心に蓄積されていき、おぼろげながら積み重ねられた過去の時間を、ゆっくり心中に醸成させていくだろう。そうした思いを掻き立てるにおいて、あまりにも現代的すぎるアイテムは興を削ぐ。言い換えれば、廃墟を見に行く者は「歴史」を求めているのだ。
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ホラーという符合でいうと、最近はホラー系のフェイクドキュメンタリーが人気を集めている。たとえば、昨年末テレビで放送された《飯沼一家に謝罪します》という作品。これは1999年に放送されたという体のテレビ番組に端を発する。どこにでもあるような家族が幸福を求めたゆえの行動が異常な事態を巻き起こすのだが、これは見かたを変えれば「1999年にはまだ日本に幸福があると信じることができた」ということだろう。同じスタッフにより制作された《イシナガキクエを探しています》(2024)でもテレビ番組が俎上に挙げられるが、それは1987年、つまりバブル景気に突入したころあいとなる。
哲学者のノエル・キャロルは、その著書《ホラーの哲学》で、ホラーは「過去を見ており、多くの場合そこにはノスタルジーも認められ」、「文化的規範の揺らぎに対する不安を表現し」ており、それが「登場したのは、第二次世界大戦後に確立した国際秩序が不安な混乱に陥ったと思われる歴史上のちょうどその時期」だと論じ、さらにこう述べる。
多くのホラー作品の間テクスト性のうちに現われているノスタルジーに関して言えば――これと同様のノスタルジーはポストモダン(すなわち、「モダンの後」)と呼ばれるものの多くを少なくとも支えているように思われるが――、それが回顧するのは、現在にはもはや不可能となった確信に安住することができたと思われる時代だ――おそらく、この回顧自体が幻想かもしれないが。
つまりキャロルは、ホラー作品を通して恐怖を味わいたいと思っている観客は「現在にはもはや不可能となった確信に安住することができたと思われる時代」のノスタルジーに浸りたいという感情を、その奥底に秘めていると言うのである。
別の例も確認してみよう。文化人類学者の廣田龍平が、ネット上で囁かれる怪談について記した《ネット怪談の民俗学》。2019年から流行したリミナルスペースという題材を取り上げ、「不穏さとノスタルジア(アネモイア)の組み合わせが多くのリミナルスペースの印象を決定して」いて、「ことによっては、自分が何らかの理由で――おそらくは後ろめたい理由で――あえて忘却している過去なのかもしれないこうした過去の不安が、映像というメディアによって、持続することはあれ解決に向かうことはないという状況が、本章における諸々の事例を貫いている」として、さらにこう論じる。
こうした感情は、データベースそのものへの反応というよりも、ナラティヴの欠落への反応といえるのかもしれない。リミナルスペースの不穏さは、何かがあったのではないか――しかし分からないという、繰り返される答えのない問いに留めおかれることに由来すると言われる。これはナラティヴを構築できないことへの不安であるとも言い換えられる。そして本章で取り上げてきたネット怪談/ネットホラーの多くは、そのような不安や不穏さこそを中核にしている。もはや恐怖に物語(ナラティヴ)は必要ない。
「何かがあったのではないか――しかし分からないという、繰り返される答えのない問い」というのは、150年展にも認められる点だろう。廃墟に据え置かれた作品群の背後に隠された物語があるのではないかと探りながら回ることになるのだが、結局はっきりとした輪郭をもたないまま、つながりは散逸していく。
フェイクドキュメンタリーについてもそうで、YouTubeにアップされてたちまち人気を呼んだ《フェイクドキュメンタリーQ》(2023〜)は、いくつかの不穏な映像の断片が並んでいるだけで、全貌を把握するのはむずかしい。このように「ナラティヴを構築できないことへの不安」という廣田の指摘は昨今のホラーコンテンツを貫く共通点と言えるが、これはリンチ作品にも当てはまる。
次々と謎が押し寄せても解決させずにエピソードを続けていけるテレビドラマという形式をリンチはとても好んでいて、もともと《ツイン・ピークス》(1990〜91)も犯人を明かさないまま延々と話を転がす予定で、その後もテレビドラマ作品の企画をいくつも立てていた。《マルホランド・ドライブ》(2001)も《インランド・エンパイア》(2006)も謎は解明されないまま幕を閉じるし、このようなリンチの感覚は、現代を先取りしていたのかもしれない。そしてリンチ作品もまた「繰り返される答えのない問い」にさらされ続けていた。
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リンチ作品では、《イレイザーヘッド》(1977)の主人公のアパート、《ブルーベルベット》のクラブ歌手の私室、《ツイン・ピークス》のローラの家、《ロスト・ハイウェイ》(1997)の自宅――リンチの私邸を撮影現場に仕立て上げている――など、往々にして個人宅で奇怪なできごとが繰り広げられていく。フロイトの有名な〈不気味なもの〉の議論では、慣れ親しんだものが抑圧され、回帰したものが「不気味なもの」として現れてくる。《ロスト・ハイウェイ》や《インランド・エンパイア》はあきらかに精神分析を踏まえてつくられており、リンチがフロイトの議論を意識しているのは明白だ。
建築史家のアンソニー・ヴィドラーは《不気味な建築》で、まさにリンチ作品にも言及しつつ、「「郷愁」、真実の、出生の地である故郷(ホーム)を求めるノスタルジアは、こうして戦争による大量殺戮と続いて起こる大恐慌などに直面して、ホームレスに対する精神的・心理的帰結として現れる」と、フロイトとキャロルの主張を合わせたような議論を展開していて、さらにこのように述べる。
かように、次第に恐怖の媒体となってゆく一見心地よさそうな室内という、怪談の語りに典型的な文脈は、おびただしい数の変形ヴァージョンによって描かれた。例えば、楽しげな家族の、概して夕食後に、主人は赤々と燃える暖炉の前で煙草をくゆらし、妻は刺繍をし、子供たちは夜ふかしを許されて、というように。これはノスタルジックなveile (夕食後の団欒)、田舎の排除と都市移民の時代にとりわけ好まれた、家と家庭の「田舎家」幻想の喚起であった。そういった安全な背景のもとで、恐怖の物語は歓喜に満ちて味わわれたのであろう。
ノスタルジーと怪異を行き来するリンチ作品は、まさに「ノスタルジックなホームで語られる怪談」の映像化だと言えよう。シュールで蠱惑的なイメージの奥底には、「ノスタルジックなアメリカ」が鎮座している。ヴィドラーが論じるように、「この居心地のよさは死を包囲し克服するその能力の上に堅固に打ち立てられて」おり、「その家の基礎は地下墓地に深く根ざしていた」からこそ「安息の場をもたらして」いるのである。
地下墓地というのは示唆的だ。フロイトが〈不気味なもの〉を著したのと前後して、ハイデガーも「不気味なもの」について考えを巡らしている。社会学者の大澤真幸は著書《不気味なものの政治学》で、「ハイデガーが「不気味だ」と形容したのは、時間的にも空間的にも地平によって限定されていない状態、つまり存在者の意味(本質存在)の可能性の無限が、露呈してしまっているような状態」で、「したがって逆に、忘却されないものとして存在を積極的=実定的に措定しようとすれば、存在という普遍性の領域に、つまり「地平」の不可能性ということ自身に、地平を、つまり同定可能な限定性を与えるしかない」、それはつまり「人民に、その中で定住していると言いうる場所=故郷を与えること」だと述べ、こう続ける。
記憶を媒介にできない人種は、さしあたって、文化的な本質存在をもたない。だから、自らを積極的に人種として指示する共同体は、記憶をもたないという本質存在の不在を本質存在化することになる。そして、なにものとしても規定できない「存在」の領域の政治的な対応物は、偶有的な文化的伝統によって自己規定する国民ではありえず、どうしても、人種でなくてはならないのだ。それは、記憶をもたないということ、つまり忘却すらも忘却していることを、共通の記憶とするような共同体なのである。
廣田が《ネット怪談の民俗学》で論じた「ナラティヴの忘却」や「ナラティヴを構築できないことへの不安」は、大澤の言う「記憶を媒介にできない人種」や「文化的な本質存在をもたない」ということに近接している。廃墟展示やフェイクドキュメンタリー、ネット怪談にアクセスする読者や観客は、恐怖しながら同時にそれらが指し示す「現在にはもはや不可能となった確信に安住することができたと思われる時代」に憧れ、「故郷」を懐かしみ、ときにはそれらを成立させた「共同体」の一員になりたいと、暗に願っているのだと。
これは近年のホラー映画でも垣間見られる傾向だ。アメリカでは近年若い世代のつくり手によるホラー映画が注目を集めているが、中でももっとも熱い注目を浴びる監督アリ・アスターの作品は、どれも共同体への帰属を強く訴えている。ミニチュア模型をモチーフに、崩壊していく家族の長男が、とある集団の手でふたたび「共同体」へと一体化していく《ヘレディタリー/継承》(2018)、一家心中から唯一生き残ったヒロインが、スウェーデンの村の祭りの生贄になることでトラウマから解放される《ミッドサマー》(2019)、荒廃した都会でひとりおびえて生きる中年男が、嫌悪していた母の思惑に引きずり込まれる《ボーはおそれている》(2024)。これらの作品は一見悲劇のように思えるが、ジェイソンやゾンビの群れに襲われて孤独に死んでいくのとは異なり、どれも荒廃した共同体から別の共同体への移行を物語っている。
藤子・F・不二雄に〈流血鬼〉(1978)という短編がある。リチャード・マシスンの《地球最後の男》(1954)をもとにしていて、たったひとりで吸血鬼たちと戦うという設定は同じなのだが、最後にみずからも吸血鬼となった主人公が、人間だったときよりも生命感に満ち溢れていることに気付くという、ひねりのある結末を迎える。アスターも〈流血鬼〉と同じことを、ホラーというアングルを通して描いているのである。
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リンチ作品もまた、輝かしかった1950年代のアメリカへのノスタルジーの上で成立していた。リンチはインタビュー集《映画作家が自身を語る》で、50年代は「本当に希望に満ちた時代で、いろんなことが下向きじゃなく上向き」で「昔のほうがうまく行っていたのかもしれない」と現在についてはあまり肯定的ではなく、「僕らはこれからも生き抜いていくために、狂ったように過去を美化する」と断言している。
けれどもヴィドラーの言うように「その家の基礎は地下墓地に深く根ざしていた」とするなら、リンチが美化しようとする「希望に満ちた時代」の足元も「地下墓地」だったはずだ。リンチもそこは自覚的で、子供のころから「皮一枚めくれば別の世界があって、掘れば掘るほどいろんな世界が出現するってこと」を知っていて、「”こんなの普通じゃない”っていう思いに、苦しめられていた」。《ロスト・ハイウェイ》のフレッドとピート、《マルホランド・ドライブ》のベティとダイアンのように、つねにリンチ作品は光と闇に引き裂かれている。リンチは同書でこうも述べている。
つまり、フレッド・マディソンが『ロスト・ハイウェイ』で言っているように「僕は自分なりのやり方で物事を思い出すのが好きだ」ってことだね。誰でも、ある程度はそうしている。ただ、生涯の大半は夢なんだ。いつだって自分の心の中に逃避して、まったく異なる世界へ滑り込んでいける。
皮一枚めくれば別の世界があって、掘れば掘るほどいろんな世界が出現する。いつだって自分の心の中に逃避して、まったく異なる世界へ滑り込んでいける。こうした言葉だけ取り出すと、陰謀論者のもの言いのようでもある。《ツイン・ピークス》で、夢のお告げにしたがって捜査方針を決めていくクーパー捜査官や、《マルホランド・ドライブ》で映画界を牛耳る黒幕の男たちなど、リンチ作品はオカルトや陰謀論に近い感覚の上に成り立っている。
大澤の《不気味なものの政治学》の議論は、ファシズムを求める心性へと接続していく。アメリカの新世代ホラーや、日本のネット怪談やフェイクドキュメンタリーの根底にあるのは、キャロルやヴィドラーによれば孤独や不安だ。それと同時代にトランプが再来してきたことこそ、「強いアメリカ」の回帰としての「不気味なもの」なのかもしれない。
リンチはガーディアンのインタビューでトランプを肯定しているとも捉えられる発言をしてしまい、のちに訂正に追い込まれている。直観とインスピレーションを重視するリンチは、それゆえか政治的立場が曖昧で、そのときどきで民主党支持と共和党支持とのあいだで揺れ動いていたが、さすがに本心からトランプを支持していたということはないだろう。
けれどもこうした両義的な態度は、ある意味でとてもリンチらしいとも言える。世界はつねに別の世界にひらかれていて、フレッドでもありピートでもある、またはベティでもありダイアンでもあるというのだから、リンチもまた「トランプを支持するリンチ」と「トランプを支持しないリンチ」との狭間にあるのだろう。そう考えると、これほど作品と作家とが一致している例もめずらしい。リンチにとっては、たとえばトランプだろうとまったくの他者、言い換えれば「敵」だと切り離すのではなく、それを自分の中の闇であると認識することが重要なのだろう。そうでなければ、それはトランプと同じ罠に陥っているのと同じだ。
リンチはマルホランド・ドライブ付近に私邸を構えていて、肺気腫によって家から離れられない状態だったが、山火事に追われて娘のもとに避難し、そこで世を去ったらしい。まさに、リンチ作品に欠かせないモチーフである「炎」と共に消えていった――《ツイン・ピークス》の有名なフレーズに倣って言えば、「Fire Walk with Me」――という、語弊はあるが、リンチらしいカーテンフォールだった。
これからのアメリカもまた、「炎とともに歩む」ような状態になっていくと言えるだろう。毎日おどろくようなニュースが入ってきて、まるで世界がまるごとリンチの映画の中にさまよいこんでしまったように感じる。しかし、闇もあれば、光もある。どんな状況でも楽観的であろうとしていたリンチだったら、そう笑い飛ばすことだろう。
(2025/2/15)
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noirse
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