評論|三善晃の声を聴く(1)萩原朔太郎の詩と(前編)|丘山万里子
(1)萩原朔太郎の詩と(前編)〜声の原型
Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
2023年5月、東京都交響楽団の反戦三部作(山田和樹指揮2020年の延期公演)に、筆者は打ちのめされていた。これまで何を聴いてきたのか、と。阿鼻叫喚の『レクイエム』から『詩篇』の「はないちもんめ」、そして『響紋』の「かごめかごめ」への道程を、生死を見据えての「祈り」への昇華とするのは定式だ。だがこの日、『レクイエム』の絶叫と音塊のわずかな間隙、裂け目に、筆者はふと漏れる三善の「声」を聴いた気がしたのだ。激越に撃ち込まれる言葉の砲弾に滲む、ヴァイオリンの嘆きあるいは慰撫の声。『詩篇』のⅧ《おわりのないおわり》の清明な合唱に頭を垂れても、それ以上に、器楽による殴打蹂躙の陰に潜む「うた」に近い声の欠片(かけら)にこそ、なぜもっと深く心を傾けなかったろう。
昨夏、本誌4年連載を終えた『西村朗 覚書』で筆者は西村の音声(おんじょう)を探り続けたが、意識の底に「では、三善晃は?」の問いが絶えずあったと思う。「川遊びの最中機銃掃射で死んだ友、それが僕でなかったこと」に象徴される「戦争体験」物語で頷き終えるのは、三善の一面でしかなかろう。むしろ彼の痛苦にあって、とどめようなく漏れてしまう「声」をこそ、「祈り」「願い」といった常套句で覆わず、もう一度、覗き込まねば。
ここで「声」とは、言葉とか音といったくくりを離れ、言語に言分けされる以前の漠たる響の母胎、母なる海から発され、声楽器楽両域、その音楽世界全体に響くものとする。すなわち、「私を含めた万象の豊かな母胎――生死が、ただ一つの形質しかもたない母なる海」(1974/『チェロ協奏曲』より)からの。
氏との対話集『波のあわいに』の終わりに「“物語の横糸、縦糸の一本”としての音楽をたぐってはくれまいか…戦前から僕なりに続いている“一本の筋”のようなものがある…」と呟かれた、その筋を再び筆者なりにたぐってみたい。
「声」の手がかりは、やはり日本語だ。三善がそれにどう向き合ったか。
「せみ啼くや つくづく赤い かざぐるま。生と死への膨大な風景が、ここにはありますね。」
2005年2月初旬、ラヴェルについての公開講座(秋田)での言葉だ。フランス語の明晰に対し日本語には日本語の美しさがあると語った三善が一茶の句に聴いたのは間違いなく一茶の声で、だから膨大な生と死がそこに見えた。
ここでは最初期、萩原朔太郎の詩による作品『三つの沿海の歌』を始点に、声と器楽両域にまたがる反戦三部作『レクイエム』『詩篇』『響紋』から『遠い帆』、『三つのイメージ』までを追う。
* * *
◆「声」の原型〜『三つの沿海の歌』と『トルスⅡ』
「私なら私の [テキスチュア](*織物) があって、それはどういう作品、器楽であれ歌であれ、同一だと思います。」(『波のあわいに』p.81 *筆者補足)
「それぞれの言語というのはグローバルではないですね。でも[音の芯]のところにはわかるものがあって、そういう音楽だけがーー萩原朔太郎が言っていますがーー一番 [世界]に近いのではないかと思います。」(同上p.133)
『三つの沿海の歌』(1955)
渡仏前の1955年、早くも『三つの沿海の歌』(アルトとピアノのための:《青猫》からの3篇、<波止場の烟><寄生蟹のうた><沿海地方>)が書かれた。ラヴェルの歌曲『博物誌』を参考とした作品だが、三善の「声」の原型がここにある。朔太郎の言葉は一見硬いようだが「殻をむきかけのエビみたいなやわらかいところがあって、そこで僕はとても助かった。」(同上p.66)
だが同時に<寄生蟹のうた>の以下最後の3行に、前拍句を入れ30小節を要したことについて、「それは・・・幽霊ですよ」までに寄り添う「感情の速度」に音が対応しきれず、「その持続に耐えるためには、エントロピー状の群がりとならねばならなかった。構造の見通しが、それで曇っている。」と述べている(『遠方より無へ』p.110)。
あやしくもここの磯邊にむらがつて
むらむらとうづ高くもりあがり また影のやうに這ひまはる
それは雲のやうなひとつの心像 さびしい寄生蟹の幽靈ですよ。
詩句の感情の速度に沿ってという意味では、長い前奏から情景もしくは感情描写をピアノが担い(同音連打は一貫した持続を)、そこに言葉が浮かぶシンプルな作りだが、間奏ののち激しく飛び込む「あやしくも」からの最後の3連はそうはいかない。彼は「雲のやうなひとつの心像」のリフレインを低声での「語り」でいったん深みへ沈める。この低声部分は当初言葉だけで「呼吸音でつぶやく」との指示だったが、のち「符頭なしの譜割り 歌詞はその下につける」と、音程なしの3連符ほかで(くもの よう な ひとつの しんぞう)と言葉の”間合い”が指示された。つまり、彼の中にある言葉の「律動」を明確化したのだ。
そこから終句の「さびしい寄生蟹の」を繰り返し、その2回目は「さびしい寄生蟹の〜幽霊ですよ」と、フレーズ全体をまさに亡霊のように浮き上がらせている。
なるほど西欧的「構造の見通し」は曇ったが、ここにこそ三善の最初の発語が聴こえるのではないか。
彼の気づきは以下。
『博物誌』でのルナールのフランス語とラヴェルの書法(エクリチュール)の間にある言葉と音との理論的対応関係を、日本語のもつ「流れ」に適用はできない。フランス語という言語と音が自ら生む「曲構成の設計の指標となるもの」の背後にある「カダンス」の存在。
「西欧の場合は・・・言語単位が立体的・構造的な役目を分担する”カデンツ”がある」(『波のあわいに』p.67)。サブドミナントが副詞の役割であるように、語句の背後にはすでに響としてのカダンス(三善は年を経るにつれカデンツと呼ぶが、私は三善特有のこの感覚を、引用以外は「カダンス」と表記する)が鳴っており、それが論理的に時空間を構成してゆく。だが、朔太郎の詩は「ずっと流れている。だから軸足になるポイントは見つからないんです」(同上)。
以降、三善が一貫して言い続ける「カダンス」とは、西欧の言語と音の関係のそれとは異なる日本語の背後の「カダンス」を聴き取ること、日本語が持つ調べ、流れゆく時間に乗ってゆく韻律と、それと分かち難く結びついた空間音響(一種の和声感覚)の全体を包含する領域を指す。いや、そのような時空二元論でなく、両者の境界(そんなものあるはずがなく、言語の相違を超え、真の音楽家はそれを知っている)が互いに響き合う、曖昧でありつつ必然の音の「成り行き」、それが「カダンス」なのだ。「音楽に、人は、こと分け以前の、広い意味でのカデンツを響かせ、あるいは聴いているんじゃないかな」(同上p.87)。
さらに、朔太郎の「仕分けできない」流れを、日本の「間詰め」を例に「時間の性質が希薄から濃密へと変わっていくものだけれども、やっぱり1本の流れとして河みたいに続いている」(同上p.67)。
本作での、注目すべき4点を挙げておく。
- 詩句の扱いが朗詠(和歌朗詠・朗誦)に近く、日本語の持つ韻律に鋭敏に反応していること。
- 前奏ピアノの柔らかな同一音連打を伴う音句がドローンのように各所で響き、持続を形成していること。
- エントロピーの音の群がりが生む空間密度の濃さ。
- 繰り返しに「語り」を入れたこと。なお、ここではほぼ「読み」に近いが、間合いの指定も含め、広義の「語り」とする。
つまり日本語の時空間の性質を活かす彼なりの設計だ。ここに三善独自の書法の発芽・声を筆者は聴く。とりわけ「語り」の手法は、流れの質量の操作術として、むろん反戦三部作、オペラ『遠い帆』(1999)の「影」、合唱と器楽による最後の作品『三つのイメージ』(2002)に至るまで種々に多用され、合唱作品そのほかで自身の「語り」をも録音に残している。「語り」についてのこだわりとその効果の絶大をここに強く指摘しておく。
『トルスⅡ』(1961)
続く1961年『トルスⅡ』(1961/混声,エレクトーン,pf,percのための)は《月に吠える》から2篇<殺人事件><見えない兇賊>。ここでは明瞭に三善の発声が聴き取れる。<殺人事件>冒頭ひそやかな男声の「u—」上下蛇行ののち女声の「とほーいそらで ぴすとるがなる」がそっと加わる。のちの三善解説によれば、「視野が遠景(レント・カルマート)より、屋内近景へ拡大(ピュウ・モッソ)され、ついに、冷たいきりぎりすがいっぱいに接写(予感のフェルマータ)」(『遠方より無へ』p.116)。平明な声の帯を受け、詩句の感情をピアノ、エレクトーンが諾うパターンは『三つの沿海の歌』に準じ「現在形による状況の高揚」を見せるが、「ないてゐる」でふっと掻き消え、と、いきなりの強音ダンダン足踏みの如きピアノとティンパニでのアレグロに突入。この打音の刻みはピアノによって維持され、次連を運行してゆく。が、ここで注目したいのは「まちのよつつじ」を先行させ、一気に眼前に情景をひらいていること。続く「しもつきはじめのあるあさ〜〜曲がった」まで、声をずらしつつ詩句を組み替え、時相を巧みに操作している。
「過去形(曲がった)で、現時性をもった活写(アレグロ)となり、時質が上向傾斜的に濃くなってゆく」。
《寄生蟹のうた》の最後の3連、「時間の性質の希薄から濃密」への変化と、なお流れる1本の河、の解答がここにあろう。拍子記号は目まぐるしく変化、リズミックに頂点へと駆けあがる。「時の進行を停めず、この上向斜線が、不等辺三角形の頂点 “みよ”のffにいたる。詩の、この行間は音楽的には零である。」 構造は全くその通り。
だが、筆者が驚いたのは、この連の終句「はや ひとりたんていはうれひをかんず」の1小節前から入る木魚の刻み、だ。このアレグロの攻め具合はどうだろう! 頂点fff「みよ」ののち、「遠いさびしい大理石の歩道を 曲者はいっさんにすべっていく」。飛び散るピアノの音玉の煌めき、青白く発光する大理石の冷たい触感の上を木魚の乾いた連打音が滑走してゆく。ほとんど情念燃えたつ文楽の幕切れを見るかのようなドラマトゥルギー。木魚?
三善はいったいどこから、このアレグロを迸らせたか?
アタッカでの<見えない兇賊>でその劇性はいっそう熾烈だが、ここでもピアノがいっそう美しい。この2曲に聴こえるのは朔太郎、三善の共震(三善はこの語を使う)の「声」そのものではないか。
声と器楽を組ませた本作は、1964年『決闘』(sop,orch)の導火線と言えよう。この線上に、『レクエイム』(1972/混声合唱,orch)が来る。つまり、単声から多声(合唱)へ、さらに器楽との「協奏」あるいは「混奏」へと展開してゆく最初の一手を、ここで指しているのだ。
この頃の器楽はどうか。
先述の、このアレグロはどこから?という問いの答えがここにある。
『協奏交響曲』(1954)で彗星の如くデビュー、第3回尾高賞をかっさらった彼は、帰国後『交響的変容』(1958)、『トルスⅠ』(1959/弦楽合奏のための)、『交響三章』(1960)、『ピアノ協奏曲』(1962)を書き継ぐ。が、注目はやはり第1作だ。
当時パリにいて、本作スコアを見た矢代秋雄はその「本能的な音楽的創造性と構築性」に仰天した。モーツァルト、ショパン、ドビュッシーらの構成は音楽的発想の中にすでに必然的なものとして含まれ内在しており、「構成と音楽とが発想当時から表裏一体となって整然と組み立てられている。」 三善の構成もそれで、とりわけソナタ形式のアレグロ楽章を聞け、と言う。まさにアレグロ!
「そこには、しなやかな、しかも強靭な流動感と、ムーヴマンーー運動性と言うとミもフタもないのだがーーとが、巨大な磁石の如き強引な引きつけや、タマールの妖気の如き甘やかな誘惑や、手をかえ、品を変えして聴き手をどこまでも引っぱってゆく。しかも、それはただのムード音楽のように単に快く流れているのではなく、丁度水晶の結晶体のような、精密な小宇宙のような構成がなされているのを見逃すことはできない」(矢代秋雄『オルフェオの死』 p.175~176)。
『三つの沿海の歌』でカダンスを探った三善は、韻律の運動性(ムーヴマン)に独自の解決を試みたものの「構成の見通しが曇った」。が、『トルスⅡ』のカダンスとムーヴマンの構成はすでに明晰だ。矢代の眼はその三善のほとんど本能的な(天性の、と言っている)造形感覚を的確に捉えている。かつ、『ソナタ ピアノのための』(1958)での第1楽章第1主題結尾の3回の同音連打がいかに全体の統一を図っているかに触れ(『三つの沿海の歌』でのそれを想起されたい)、同様の手法を『協奏交響曲』第1楽章にも見出し、「このような手法と精神による巧まぬ構成と自然な統一は全く天才にのみ許される」(同上p.176)と述べている。
「カダンス」と「ムーヴマン」、つまり「韻律(音律)」と「運動」という音楽設計の2要素における三善の原質(声の拠ってきたるところ)は、最初期の声楽器楽の協奏形ですでに明らかではないか。私たちは西洋音楽をメロディー、和声、リズムと分解して学ぶが、それは広大なユーラシア地域で流布する多様な音楽の一つを分析、抽出した原理でしかない。日本の伝統音楽にその原理をそのまま適用できないように。三善のカダンスはメロディー、和声を一緒くたにしたもので、そのことに彼はパリで気づいた。ムーヴマンは呼吸・鼓動だが、こちらも当然リズム単体ではなく必ずカダンスと共にある。一つ一つの生きた音楽は、矢代の言葉通り、「発想当時から表裏一体となって」生まれるもので、シャランのクラスでの猛烈な異邦人感覚は、逆を言えば、彼の中に矢代の言う「音楽的必然」、すなわち内在する音楽的原質が確然と在ったことを物語ろう。
器楽領域での経験値を生かしての『トルスⅡ』での複数打楽器採用は、『三つの沿海の歌』でのムーヴマンという課題の一つの解決法を彼に示した。
この2作に筆者は、三善の「産声」を聴くのである。
(2025/2/15)
参考資料)
◆書籍
『遠方より無へ』三善晃著 白水社 1979
『オルフェオの死』矢代秋雄著 深夜叢書社 1977
『鬩ぎ合うもの超えゆくもの』丘山万里子著 深夜叢書社 1990
『波のあわいに』三善晃+丘山万里子 春秋社 2006
◆楽譜
『三つの沿海の歌』(1955)全音楽譜出版社
ほか遠山一行記念日本近代音楽館資料より
『ソナタ ピアノのための』(1598)音楽之友社
『トルスⅡ』(1961)音楽之友社
◆CD
『三善晃 歌曲集Ⅰ』「三つの沿海の歌」ほか Victor VCC-171,NCS-218
『響層Ⅱ』「トルスⅡ」ほか NARD-5032 藤井宏樹指揮 Ensemble PVD